6話 約束のきつねうどん
翌夕の末広亭は昨晩と打って変わったように静かで、出汁の香りだけが店内に色濃く漂っている。人の入りは昼からまばらで、鈴は炊事場を掃除しながら、藤夜と店を切り盛りしていた。
「……いつもありがとうございます! また、おねがいします!」
――かさり。
勘定を済ませた老人が店を後にしたのとほぼ同じ頃合に、ハットを被った長身の男性が暖簾を潜る。しんと冷えた空気を携えて現れたのは、長い白銀の髪を後ろでひとくくりに結んだ男だった。しっとりと美しい紺色の紬に亜麻色の帯を貝の口に結んだその姿はとても凛々しく、藤色の羽織紐に夕日が反射して眩しい。
「にいちゃん……っ! 本当に来たんだ!」
「ああ、約束したからな」
藤夜の顔が、ぱっと輝く。そのまま伊織の手を掴んで、店の奥のこぢんまりとした座敷へ案内した。手を引かれた男は、穏やかな笑みを浮かべた。その派手な髪色は街の中で浮くはずなのに、周囲の空気を自分のものにするような、不思議な気配を纏っている。
「例のきつねうどん、食べてみたいと言っただろう」
「そうだった……! ねえ、一緒に食べてもいい?」
「ああ。お前の隣でいただこう」
藤夜からの無邪気な誘いに、男は迷いなく頷く。それだけの言葉なのに、藤夜は目を大きく開いたかと思うと、「やった」と声をあげた。屈託のない笑みのまま、藤夜は炊事場の方へかけていく。そばに腰掛けていた男は、少年の後ろ姿を嬉しそうに眺めていた。
「いらっしゃい……ま、せ」
厨房から濡れた手を前掛けで拭きながら、鈴が店頭へやってくる。男の姿に気づいた途端、軽快だったその歩みはぴたりと止まった。
男の目線は、鈴の漆黒の瞳に釘付けになる。
十年前、見惚れた女の姿が、手の届きそうな距離にある。今すぐにでも抱きしめたい衝動を抑え、伊織は少し怯えた様子の鈴を、ただじっと見つめた。
「きつねうどんを……二つで、よろしい……ですか」
「ああ」
小さく答えるだけで、鈴はその瞳を潤ませる。「離れて行ったのは君だ」と責めるつもりはない。ただ、これ以上言葉を発せば、彼女を傷つけたり、藤夜を困らせる気がして、話し出せなかった。
◇ ◇ ◇
大鍋から茹でたてのうどんを掬い上げて、黄金色のつゆを注ぐ。ふわっと立ち込める香りも、今日は少し緊張しているような硬さがあるように思えた。
そこへ、甘めの味付けでふっくらと仕上げた油揚げを2枚。刻んだネギと、かまぼこも乗せる。あらかじめ箸置きを乗せておいた一人膳へどんぶりを乗せ、大きく深呼吸をする。
(あの人が、この店に座っている)
十年前、あの幻想的な夜に鈴を抱き、名前を呼んだ男。その人が今、藤夜の横で静かに息をしている。その事実に心が熱く燃える。震える指先を悟られないように気をつけながら、鈴は平然を装って盆を持ち上げた。
「お待たせしました。きつねうどん、二つ……です」
「うわあ、いいにおい……っ!」
藤夜がぱあっと顔を輝かせ、机に身を乗り出した。その勢いで、かぶりっぱなしだった帽子がはらりと頭上から落ちる。
「あ……っ!」
「藤夜っ!」
鈴が手を伸ばして受け止めるより早く、帽子が床へ転がり落ちた。驚きと不安に引っ張られるように、藤夜の頭には白い立派な耳が立ち上がっていた。
藤夜は悲鳴のような声をあげて息を呑み、慌てて地面に手をついた。帽子を小さな両手で被り直すと、命乞いをするように必死に懇願した。
「ご、ごめんなさい……っ! ぼく、なんでもするから……お願い、誰にも言わないで……っ」
その小さな肩は、自分の何倍もある体格の男から、自分の秘密を守ろうとしていた母を庇おうと必死に震えていた。
(勇敢なこの子を守れるのは……私だけ)
伊織の方へ駆け寄って謝れば、藤夜だけは見逃してもらえるかもしれない。鈴は、その隙を狙おうと決意した。しかし――伊織の行動は親子の恐怖をすぐに裏切った。
藤夜の頭に、伊織の大きな手がそっと触れる。ぽん、と優しく置かれたその手が藤夜の帽子の向きを直す。まるで、ずっと前から知っていたような優しい仕草に、藤夜の涙はすっと止まった。
「大丈夫だ。誰にも言わない」
その声は静かで、揺るがない。
「それより鈴。この子は……」
「っ違います!」
鈴は遮るように声を張り上げ、藤夜の手を掴んで抱き寄せた。藤夜の体温が腕に触れるだけで喉はひりついて、涙が出そうになる。
「私の夫は……十年前に、他界していますので」
ここで、はっきりと線を引かなくてはいけない。九尾の相手となる娘は、他にいるのだと。胸の奥でずっと蓋をしてきた思いはまだ生傷のまま、ジクジクと痛む。
(もう――忘れられたはずだったのに)
声も、匂いも、温度も十年かけて消したはずだった。それなのに、この男はわずかな時間の再会で、全てを容易く呼び覚ましてしまう。
「鈴」
「もう、来ないでください」
鈴は唇を噛み、必死に涙を堪えながら一歩後ずさる。夜明けのような黄金色の瞳は、静かに鈴を見つめていた。責めるでもなく、諭すでもなく、ただ、十年分の恋しさと寂しさを宿した目で。




