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【完結】執着九尾様は逃げた妻子を愛し抜く〜十年越しの寵愛は息子から〜  作者: 汐瀬うに


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5話 取り戻すもの

 末広亭の暖簾を下ろすのは、大抵藤夜が帰宅し食事を済ませた頃。店の洗い物を洗っている間に、藤夜が富子らと暖簾を下ろしてくれることもある。


 大きな長屋のそばにある末広亭。その炊事場には、空が紫色に染まり始めたくらいから、近所の少年たちの帰宅を告げる声が響き渡る。いつも通りの賑やかさ。けれどその"いつも通り"が、今夜はやけに遠く感じられた。


 そろそろ帰ってくる頃だろうかと、鈴は何度も暖簾の方を振り返る。けれどそこに藤夜の姿はない。


(……藤夜、遅いな)


 何度もそう繰り返しては、注文をとり、うどんを器へよそう。本当なら、もうとっくに店の裏口から「母ちゃん!」と飛び込んでくる時間を過ぎている。


「鈴ちゃん」

 富子が、空いた器を重ねながら小さな声で鈴を呼ぶ。

「顔が、こわばってるよ。心配なら見に行っておいで」

「え……っそんなに、変でした?」

「まぁ、心配そうではあるわね」


 図星を指されると、なぜか少しこそばゆい。慌てて視線を落として口元に力を入れたけれど、頬は上手く上がってはくれなかった。


「今日は学校が終わったら水切りをするんだとはしゃいでいたので……遊びすぎているのかもしれないです」


 自分で言いながら、その言葉の頼りなさに薄ら笑いが溢れる。

 店の暖簾をくぐる客の足音がするたび、鈴はやっと藤夜が帰ったかと期待しては、肩を落とした。


「鈴、あたしが帰るまでに帰ってこなかったら、通り道見てきてやるよ」

 一恵が、空いた徳利に線をしながら眉を寄せる。

「夜道は物騒よ。藤夜は細っこいから、おなごに間違われているのかも」

「大丈夫です。それより、こんなに遅くまで手伝ってもらってすみません」


 言い聞かせるように何度も、大丈夫だと呟く。店外の気配に耳を澄ませればすませるほど、呼吸は徐々に浅くなっていく。


(あの帯留が、きっと藤夜を守ってくれる。今日は、もうすぐ何事もなく帰ってくる)


 仏壇の前で手を合わせた朝を思い出す。あの時握った小さな真珠を思い出して、藤夜をどうか無事返してくださいと改めて願った。


 ぎゅっと固く握った目を開いた直後、店先の暖簾がふわりと揺れた。


 いつもより、ほんの少しだけ強い風。煙草のような、お香のような煙の香りに振り向くと、汗だくの藤夜の姿がそこにあった。


「母ちゃん! ……ただいまっ!」

「藤夜……っ! ど、どうしたのその顔!」


 藤夜は暖簾を大きく揺らして鈴の胸へ飛び込む。荒い息のまま、胸の前で巾着を強く握りしめていた。暗闇の中、石畳を駆けてきたせいだろうか。頬は赤く、目元には涙の跡が白く光っている。


「ご、ごめんなさい! ぼく、母ちゃんの……大事なやつ……落として。でも、にいちゃんが……にいちゃんが拾ってくれて!」

「にいちゃん?」


 見知らぬ登場人物について尋ねた鈴は、一瞬、喉が詰まるような感覚に襲われた。


 大きな獣に凄まれているような威圧感。全身の毛が逆立つような、息を止められているような、得体の知れない感覚が鈴の背中を走る。

 

 藤夜はそんな母の異変など知らず、必死に早口で続けた。


「白い髪の、すっごく綺麗な男の人なんだ! 優しくて、帽子も直してくれて……! 『大事なものだろう』って言って、これ見つけてくれて……!」


 巾着を握りしめた藤夜の手はキンキンに冷えていた。嬉しさと、安堵と、恐怖の後引く名残りだろうか。全部が入り混じったその震えが、愛おしくてたまらない。


 「……藤夜。よく帰ってきたね。ありがとう」

 そっと抱きしめれば、藤夜は安心したように力を抜き、その肩に顔をうずめてきた。嗅ぎ慣れた汗の匂いに混じって、懐かしい記憶を思わせる香りが鈴の鼻腔をくすぐる。


 ――白い髪と、甘い香。

 鈴はぎゅっと瞼を閉じ、息を殺す。十年前の、闇を裂くほど美しい、あの白銀。忘れることなどできなかった色。

(……そんなはず、ないのに)


 藤夜の背中には、しっとりとした空気とあの夜に似た風の匂いが、まだ微かに残っていた。


◇ ◇ ◇


 同刻、屋根の上。夜風が九つの尾をふわりと揺らし、伊織は店先の光景を静かに見下ろしていた。


 藤夜は母の胸のなかで、巾着を抱きしめて泣いている。今更泣きじゃくる藤夜の肩を必死でさする鈴の手は、十年前と変わらず細くて華奢だった。胸の内に、重くのしかかるものがある。


(助けるつもりが、怖がらせてしまったな……)


 鈴の大切なものを誰にも盗らせまいと、考えなしに霧の結界を張った。ただ助けたい一心で、人の子の怖がる加減を量れなかった。巾着をなくした焦りと突然現れた霧、暗い夜道。まだ幼い少年ならば怯えて当然だ。


 (あの子に、あんな顔をさせたのは俺だ)

 

 思わず伊織の眉間に力が入り、向かいの軒先に止まっていたカラスが怯えて空へと飛び立った。


「御館様〜〜!!」


 太った白い狸が、長屋の屋根の上をぽこぽこと滑稽な音を立てて走ってくる。息を切らした権蔵が尾根の棟から顔を出し、シワシワの顔をさらに綻ばせた。


「『少し出てくる』なんて言いながら、ご子息を助けにいかれていたとは! いやはや、お館様もやはり父親! 天晴れですなぁ」

 呑気な声に、伊織は横目だけで返事を返す。

「助けに、ではない。泣かせてしまったのを、慰めに行っただけのこと」

「へっ?」


 何を言っているのやらといった顔で権蔵が伊織を見つめると、伊織は小さく息を吸い込んだ。


 「俺が霧を張ったせいで、あの子は道を迷った。怖かっただろうに……」


 珍しく、声が低く沈む。権蔵は、小さな両手でぴたりと口を押さえる。九尾が“自責の念”などめったに口にしないことを知っているから。


 伊織は視線を下へ戻す。鈴が、巾着を握りしめながら藤夜の頭に頬を寄せている。あんなにも小さな体で、息子を必死に守っている。


(……鈴。十年、ずっとひとりで。藤夜も、同じだ)


 霧のせいで迷わせた悔しさも、触れたときの小さな手の温度も、すべて棘のように胸に刺さったまま抜けない。


「……取り戻すぞ」

 伊織がぽつりと呟くと、権蔵は嬉しそうに耳を立てた。

「お、お嫁様を……ですか?」

「鈴も。藤夜もだ。……あの二人の未来も、まとめて全部」


 九つの尾がふわりと広がる。

 

「十年分、取り戻す」

 

 息が詰まるほど静かな夜の中で、九尾の男はひとり、胸に燃える決意を固めていた。

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