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4話 迷子と白い霧

毎日更新するつもりだったのですが、どうせなら年内に読み切りたいな?!という気持ちになったのでこの土日で連続して更新していきます!


ぜひラストまで、ついてきてください…!

 夕暮れ時の末広亭は、出汁の香りと男たちの笑い声で活気に包まれていた。仕事終わりの客が三々五々集まり、暖簾が熱気に湿っている。


「鈴ちゃん、今日も熱燗ね! とびっきり熱いの、頼むよ」

「はい、今すぐお持ちしますね」


 鈴は未だ消えぬ胸騒ぎをかき消そうと、忙しく動き回る。顔見知りが多いからこそ、この不安を悟られないようにと懸命に笑顔を作って、ざわつきを誤魔化す。これで今日を乗り切れれば、明日には休みがやってくると思った矢先。

 

「なんだかよぉ……今日はヤケにしんみりしちまって居心地が悪りぃなぁ」


 店の奥で、徳利を片手にした酔っ払いが舌打ち交じりに声を上げた。


「っく……未亡人みたいな顔して酒出すなよ。酒が不味くならぁ」


 それは明るいうちから飲んでいた大工らのうちの一人だった。はだけた着物の襟元から薄くなった頭のてっぺんまで、肌は日焼けしたように真っ赤に染まっている。


 鈴の動きが一瞬止まる。その後ろで片付けを手伝っていた一恵がふっと笑った。

 

「未亡人? 残念ねぇ、おじさん。あたしは独り身よ。勝手に墓石を立てないでおくれ」

 艶のある声に、大工は目をぱちぱちと瞬かせる。

「な、なんだよ急に……」

「アンタ、馬鹿だねえ。このあたしらに喧嘩売ろうってかい?」


 台所で洗い物をしていた富子も加勢して、店内はいいぞ!だの、言ってやれ!だの、言いたい放題の言葉が飛び交う。


「あたしらは、あんたみたいに酒癖悪く愚痴こぼす男より、よっぽど楽しく生きてるよ!」

「っ……っ!」

「文句があるなら二度と来なくて結構! ほら! とっとと帰んな!」


 一恵は洗い物で汚れた布巾片手にひらりと手を振り、大工を出入り口の方へ追いやる。男は「べ、別にそういうつもりじゃ……!」と言い訳しながら店を後にした。


 互いに顔を見合わせ、一恵と富子は大笑いした。鈴も、つられて笑いが溢れる。いつの間にか観衆となっていた他の客たちも、一緒になって肩を組んだり、酒を注いだり。すぐに、いつもの賑やかな末広亭が戻ってきた。


 「鈴ちゃん。あんなハゲ親父、気にしなくていいんだよ」

 一恵がケタケタと笑い、富子もうんうんと頷く。

「そうそう。人の痛いところ突いて遊ぶような男なんざ、この店には似合わないよ」

「……っ! ありがとうございます」


 二人の言葉に、胸の奥がふわりと温かくなる。空には星が瞬き、外の空気は大きく吸い込むと鼻の奥がつんと痛くなるほどに冷たい。その寒さの中、鈴の頭には藤夜のことがよぎった。いつもよりも、だいぶ帰りが遅い。不安をぐっと堪えて唾を飲む。


 暖簾の隙間から軽く外を覗いたけれど、表通りに藤夜の姿はまだなかった。


 ◇ ◇ ◇


 その頃。

 霧の中で泣き疲れた藤夜は、木塀に背中を預けたまま、両腕で自分を抱きしめていた。


「……母ちゃん……かえりたいよ」


 微かな声が、霧に溶けていく。誰にも届かないのかもしれないと絶望を感じた時、少し前に聞こえていた足音がまた小さな耳元に届いた。


 藤夜は震えたままぎゅっと目を閉じ、両手で帽子を押さえ込む。耳が出たらいけない。母ちゃんのいう通り、誰にも見られちゃいけない。でももし、もう誰にも見つけてもらえなかったら。幾つもの不安がぐるぐると小さな頭の中を駆け巡った、その時。


 「迷子か」


 低く落ち着いた声が、霧の向こうから聞こえる。藤夜がびくびくと警戒しながら顔をゆっくりあげると、そこには袴姿の青年が立っていた。長い外套を羽織り、片手に巾着を持ったその人は、心配そうに藤夜を見つめている。


 真っ白で長い髪が、遠くの街灯の光を受けて静かに揺れる。


「……っ、だ、だれ……?」

「大丈夫だ。怖がらなくていい」


 男はゆっくり屈み込み、藤夜と視線を合わせた。ハットの下に隠れている黄金の瞳に、藤夜はなぜか恋焦がれるような胸の痛みを覚えた。


 (この人は、どうして怖くないんだろう)


 藤夜は人見知りではない。けれど、普段会う男の人は八百屋の茂吉さんか、先生くらい。他の男といえば母の店に来る客ばかりで、露骨に口説く姿も見てしまうからあまり好きではない。それなのに。


 初対面のこの人は、そんな嫌悪感が全くない。嫌悪感どころか、袴の裾が砂地へ着いてしまうことも厭わず、藤夜を心配そうに見つめている。それがたまらず不思議に思えた。


 その人の大きな手が、そっと藤夜の帽子のつばに触れる。ずれかけた帽子を、丁寧に――本当に大事なものに触れるように、優しく直した。


「帽子は、しっかり被っておけ」

 とびきり落ち着いた声で言われれば、胸の奥の恐怖もじんわり溶けていく。

「……うん」

 藤夜は小さく頷いた。

 

「お前が探していたものは、これか」


 男が懐から差し出した掌には、鈴から渡されたばかりの薄紫の巾着が横たわる。そっと手を出すと、巾着は小さいながらにしっかりと重い。無事だとほっとした途端、藤夜の目からはぽろりと涙が溢れた。


「そう、それ! ……ぼくが、なくしちゃって……」

「大事なものだろう。見つかってよかったな」

「にいちゃん、ありがと」

「……あぁ」


 寒々とした風が霧を揺らし、青年の横顔がわずかにぼやける。藤夜は袖で溢れる涙を拭い、顔を上げた。


「あのね……ぼく、母ちゃんが心配で。もう帰らなきゃ」

「そうだな。近くまで送ってやろう」


 何気なく手を伸ばすと、男はその手を取ってぎゅっと握った。驚くほど温かい手だった。胸の奥で澱んでいた不安が、羽のようにふっと軽くなる。


(なんでだろ……にいちゃんの手、すっごく安心する)


 青年は藤夜の細かな歩幅に合わせるように歩き、二人はゆっくりと末広亭の方へ向かった。厚く辺りを覆っていた霧は、二人の背を見送るように、乾いた夜の空気にそっと溶けていった。

この後16時半に次話更新です。

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