3話 真珠の帯留め
鈴は結局よく寝付けないまま、朝を迎えた。
こんな日は流石に瞼が重い。けれど、気だるい体に「自分が頑張らなければ誰が藤夜を支えるの?」と言い聞かせながら、鈴は今朝も井戸水を汲み、米を研いだ。
そろそろ、隙間風の染みる季節がやってくる。これは、きっとそのせい。そう思いたいのに、纏わりつくような過去の記憶がちらついていた。昨日から続く違和感が拭えず、仏壇の中央にある小さな猫戸――線香を納めているその扉をそっと開いた。
あの夜、鈴が身につけていたものは、ほとんど伊織の屋敷へ置いてきてしまった。持ち出したのは、母の真珠の帯留めだけ。その小さく光る丸い粒を、鈴はそっと取り出した。
「お母さん……どうか、藤夜を守って。私は、大丈夫だから」
「自分のことはどうだっていい」――そう母も言っていた。当時の鈴は、母をそんなふうに思わせる父が憎らしかった。けれど、その気持ちも今なら少しわかる気がする。
(藤夜が笑顔で暮らせるなら、それでいい)
どうか今日も、何事もなく無事帰ってきて欲しい。引き出しにあった小さな巾着へ、ころんとした帯留めを入れる。結び目をそっと整えていると、奥の部屋で布団がもぞもぞと動く気配がした。
「……んぁ……母ちゃん……」
眠ぼけた声に、胸のざわつきがほんの一瞬だけ和らぐ。もうすぐ十になるというのに、藤夜は変わらず呑気で、母に反抗する様子もない。忙しさも疲れも、藤夜のためなら全て愛しさに変わる。
(目に入れても痛くないのは、いくつまでかしら)
そんなことを考えながら、鈴は藤夜が起きてくるのを静かに待った。
◇ ◇ ◇
川辺で薄い石を握りしめた藤夜は、友達数人と肩を並べていた。
「見てろよ、今日は七回跳ばす!」
勢いよくふりかぶった腕から、水面へ小石が飛び――ぱん、ぱん、ぱん、と軽い音が続く。
「すげぇ! 藤夜、達人みたいだ!」
「へへっこの前負けたからな! たくさん練習したんだ!」
褒められて笑った拍子に、ふと胸元が軽いことに気づいた。
(……あれ? 母ちゃんのお守り……)
さっと手の先が冷たくなる。胸を押さえ、慌てて草むらや川辺に目を走らせるけれど、手渡された巾着はどこにも見当たらない。
「……うそだろ……」
声にならない声が漏れる。朝、鈴が巾着を渡したときの言葉が胸によみがえった。
(母ちゃんの……大事なものなのに)
「……藤夜、どうした? さっきまで得意げだったくせに。顔色が変だぞ」
「あっごめん! 僕、忘れ物したみたいで。ちょっと探してくる!」
夕闇はもうそこまで迫っていて、学校までの道をくまなく探すほどの余裕はない。じりじりと落ちる太陽が、藤夜を静かに追い詰める。
「どこだ……どこで落とした。思い出せ」
襟元を掴み、どこまであのお守りを持っていたか、考える。帰り道を辿り、細道を抜ける。塀の下や生垣の間をひとつずつ覗き込んで探すうち――ふと気づけば、白い霧に覆われた見知らぬ道へと出ていた。
「なんだ、ここ……こんな家、知らない……」
不安で、頭がもぞもぞする。耳が出そうになる気配にびくりとし、藤夜はぎゅっと唇を噛んだ。母の言いつけが頭をよぎるのに、霧がまとわりついて思考がうまく回らない。辺りはどっぷりと暗く、門限の時間はとうに過ぎているように思えた。しっとりとした霧が肌を冷やし、心細さばかり増えていく。
「……母ちゃん、ごめんなさい」
目尻からぽとりと大粒の涙が落ちる。それは、すぐに冷たく硬い真砂土に吸い込まれていった。
――ジャリ……ジャリ
誰かの足音が、霧の向こうで響く。普段なら気にも留めない音なのに、今日は胸の奥をきゅっと締めつけるような、得体の知れない怖さがある。
藤夜は逃げるように木塀へ小さく身を寄せ、震える両手で必死に帽子を押さえた。




