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【完結】執着九尾様は逃げた妻子を愛し抜く〜十年越しの寵愛は息子から〜  作者: 汐瀬うに


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2話 違和感の正体

 昼の忙しさがひと段落し、店に静けさが戻る。椅子を片付け、拭き掃除を終えた後の店内には、出汁の余香と午後の柔らかな光だけが残っていた。


(やっぱり、なんだか落ち着かない)


 鈴は帳簿に目をやり、胸元をそっと押さえた。今朝から、理由のわからないざわつきが胸に居座り続けている。それはまるで暖簾の隙間から、誰かが息を潜めてこちらを見ているような――そんな気配。


 その気配に怯えた鈴は、常連客の冗談にもぎこちない笑顔しか返せず。軒先で最後の客を見送った顔を見た富子には「青菜を食ったように顔色が悪い」と心配されてしまうほどだった。


(いいえ。疲れてるだけよ、鈴)


 自分に言い聞かせて、縁の欠けた湯呑みに温かいほうじ茶を注ぐ。濃い琥珀色の水面がふるりと揺れる。なんてことない揺らぎが、今日はやけに不安を煽る。


 ふと、勝手口の引き戸が軋む音がした気がして、振り向いてみる。けれどそこに人の気配はない。裏通りにも人はおらず、曇り空から溢れた白い光が、微かに柳の隙間から石畳を照らしていた。


(なんだろう。やっぱり、誰かに見られていた様な気がする)


 背筋に、冷たいものが走る。何故かふと、あの人の手のひらの熱を思い出して、十年前の”あの夜”の残滓が、体の奥でじわりと湧いた。


「母ちゃん! ただいまー!」


 友人たちと別れた藤夜が、表口から明るい声で帰宅する。藤夜の声でその場の緊張はふっと緩んだけれど、胸の奥のざわめきはまだ消えない。


(今日に限って、何かがおかしい)


 母の勘というものだろうか。

 何とは言えない違和感の拭えないまま、鈴は笑顔で藤夜を迎え入れた。


◇ ◇ ◇


 末広亭の屋根裏。

 その中でも一番太い梁の上に、白い二匹の影が静かに腰を下ろしていた。


「あれは、間違いなく御館様のお嫁様ですわね」

 白狐はふっくらとした尾をふわふわと漂わせながら、目を細める。


 「十年で随分と痩せてしまわれて。それに、あのやつれたお顔……おいたわしや」

 隣に立つ白狸は短い腕を組み、ため息を漏らした。


「お館様がご覧になられたら、泣いてしまわれるやも」

「泣くのは、御館様ではなく――御嫁様のほうかと思いますわ」

 

 二匹はコソコソと言葉を交わしながら、天井板の隙間から店内を覗き込む。鈴は出汁の鍋に向かい、二、三言呟いてから、そばにある木箱へ腰を落とした。


「しかし、未亡人とはどうしたことか……」

「ええ。しかも、あの位牌はどう見ても……人間の男の名、でしたわね」

「その側にあるのは娘か、はたまた別の血縁者の名か」


 はて、と悩み出した狸に、狐はくるりと尾を巻き、意味深に微笑んだ。

 

「けれど――ねぇ?」

「……なんじゃ、その含みのある言種は。はよう申さんか」

 狐は「まだわからないのか」とでも言いたげに、くくくと喉を鳴らして笑う。


「権蔵。お館様が落ち込む必要なんて、万にひとつもありませんわ」

「むむ、どういう事じゃ。芙蓉にしかわからぬとは許しがたい」

 

 申せ申せと迫る雄狸の前で、芙蓉と呼ばれた狐は軽く前足を揃え、すらりとした顔を勝手口の方へ向けた。

 

「あの坊ちゃんは、間違いなく九尾の血を引いております」


 芙蓉の言葉に、狸は突然射抜かれたように目を丸くし、目玉をぎょろりと少年の方へ向けた。坊ちゃんと呼ばれた藤夜は、楽しそうにケタケタと笑いながら他の少年たちと言葉遊びを楽しんでいる様だった。


「ん?どれどれ。 あ、あぁ……あれはまさか、お館様の……?」

「えぇ。金の瞳は九尾の証。あの光り方は、間違いありませんわ」


 権蔵は小さく声を上げると、瞳に溜まった雫を両手で擦りあげる。「それじゃあまるで、別の動物に見えますわよ」と芙蓉に諭されても、その涙はしばらく止まらなかった。


「お館様が知られたら……さぞお喜びになりますなぁ」

「えぇ。ですが、我々に行けと命じられたということは……」


 二匹は互いに顔を見合わせると、揃ってため息をついた。


「目下の問題は、お嫁様ですわね」

「そうじゃろうなぁ。十年も黙って逃げおって……」

「きっと、さらに拗れてゆきますわねぇ……確実に」


 芙蓉は、権蔵がたらればの話をしながら焦る様子を見て楽しそうにくすくすと笑った。しかしその笑い声を遮るように、突風が吹く。

 

「……仕事を与えた覚えはあるが。なぜ、笑っている」

 屋根裏で梁の上のいたはずの二匹は、ほんの一呼吸の間に、屋根瓦の端へと飛ばされていた。白い髪と九つの尾を持つ男が、白けたもやの中に現れる。それが己の主人であることを、二匹はすぐに理解した。


「……お館様! まさか、わざわざこちらにいらっしゃるとは!」

「ごっ、ご心配なさらずとも、きちんとお調べいたしましたわ!」


 二匹は慌てて平伏す。伊織は瓦の上を滑るように歩き、末広亭を見下ろした。その表情は、氷の様に冷たく、固い。


「報告を」


 短い一言に、眷属の二匹は震えながら口を開いた。


「お、お嫁様は、やはり……っ未亡人という扱いのようですわっ」

「しかし、お館様の子は……っ! おそらくあの坊ちゃんでして! あっいや違うな、あの坊ちゃんがお館様の……っ!」


 二匹がわなわなと身振り手振りを交えながら説明する様子を、伊織はただじっと見つめる。その金の瞳の先には、慌てる眷属ではなく、もう一つの金色の瞳が映っていた。

 

「…………そうか」

 低く囁くその声は、底の見えないほど深く、重い熱を孕んでいる。

「では――」

 季節外れの突風が吹く。九つの尾が、ゆらりと持ち上がった。

「今度こそ、取り戻しに行くまでだ」

 

 霧が一瞬だけ濃く立ち込め、伊織の姿は屋根の上から消えた。残された二匹は、息を呑みながら再び顔を見合わせた。


「相当お怒りのご様子じゃのう」

「権蔵、あれは怒りじゃありませんわ。きっと……十年分の執念と、愛ですわね」


 白い影は屋根からふわりと飛び、薄く残った霧の中へと姿を消した。


◇ ◇ ◇


 夕暮れどきの町は、橙と紫が混じり合う。市場の帰り道、水路に反射する光を、鈴はしばらく静かに眺めていた。


 今日まで幾度、胸の中で彼の名を呼び、恋しく思ったか。富子や、末広亭の老夫婦の支えなくしては、生きてこられなかったと改めて思う。


 しかし、この先の十年が安泰であるとは限らない。常日頃から感謝を伝えなくてはと思いを新たに、鈴は今日も仕事終わりで駆け込んでくる男たちを迎え入れ、酒とうどんを用意する。


 賑やかな末広亭の上に、微かに湯気が滲むような白んだ空気が落ちていく。それはやがて実体を伴い、豪奢な着物姿の伊織の姿が現れた。足元では、暖かな香りと女たちの明るい笑い声、そして藤夜の弾む足音が夜のしんと冷えた風に混じり合う。その全てが、伊織の胸を締め付けた。


 彼女らが支え合い、暮らしていた時間はあまりにも長い。知らぬ男の位牌、未亡人と呼ばれている最愛の人。そして――自身の面影を宿した少年。嫉妬せずにはいられず、喉の奥で獣のような声が響く。


「……お館様。どうなさるおつもりで」

 狐に権蔵と呼ばれた狸が、伊織の背後へそっと近づく。伊織の金の瞳は、ゆっくりと細められた。


「決まっている」

 冷たい風が、末広亭の暖簾を揺らす。

「十年分――全て、取り返すだけだ」

 その声は静かで、だが決して逆らえない怒りと執着に燃えていた。


白狐は口元を抑え、艶やかに目を伏せる。

「ではいよいよ、お嫁様との再会でございますね」

「……鈴が、他の男を愛したというのなら」


 その先は、言葉にならなかった。九尾の尾の先に、狐火が灯る。瓦の破片が小さく、音を立てて割れ落ちた。


「何があろうと、取り戻す。――あの夜、何度も俺の名を呼んだ鈴も、俺の血を継ぐ息子も、全て」


 どっぷりと暗くなった闇の中で、金の瞳が怪しく光る。

 その直後だった。


 末広亭の表口へ、鈴が暖簾を片付けに出てきた。店内の明かりに照らされたその姿は、もう十年前の黒髪の少女ではない。母として、女として、さらに強い光を宿した女性へと変わっていた。


 (鈴……っ!)


 風向きが、変わる。強い風にふかれた鈴は手早く暖簾を外して、前髪を押さえながら月を見上げた。少し大人びた横顔と変わらない眼差しに、心が躍る。伊織の白銀の耳は風に揺れ、九本の尾はぴんと立った。


 再会の瞬間に立ち会ってしまったと驚く権蔵が伊織の肩へと飛び乗ったけれど、伊織は全く動かなかった。まるで十年前と同じように、ただ彼女を、息をすることさえ忘れたように――静かに見つめていた。

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