1話 手に入れたもの、失ったもの
あの夜から、十年。
鈴の新しい朝は、濛々とした湯気と包丁の音から始まる。
「藤夜、もう起きなさい。お味噌汁が冷めるよ」
まだ薄暗い台所で、鈴はしゃもじを握り、息子の名を呼んだ。
末広亭は、飲食店のひしめくこの通りでも、指折りのうどんの名店だ。
そもそもは、地元の老夫婦が営んでいた小さな定食屋だった。
身一つで転がり込んできた鈴と幼い藤夜の事情を聞き、彼らは二人を我が子のように可愛がった。
今では、この店が鈴の実家で、我が家でもある。看板も、敷居も、引き戸が歪んだままの食器棚も、十年前から何も変わらない。
火を入れた鍋から、ふわりと出汁の香りが立ちのぼる。日の出を過ぎる頃になると、この匂いが店の周りまで漂い始める。末広亭の出汁は、煮干しとあご、そして昆布。香り高く、旨みの強いその出汁の隠れ支持者は多い。香りと共に立ち上る湯気に朝日が差して、店をふんわりと明るく照らした。
「ん……起きてるよ、母ちゃん」
奥の小部屋から、重い襖をずりずりと開く音がする。小さな足音に続いて、寝癖だらけの黒髪の少年が居間に現れた。まだ寝ぼけた目で、少年はぐっと伸びをする。ぼんやりとしながらそばに掛けていた羽織を手に取り、身震いをひとつしてから、食卓へついた。
白飯のおにぎりと、木の子の味噌汁の簡素な朝食。それでも、ふたりは暖かな食卓に感謝しながら、日々を過ごしていた。
「藤夜、帽子。ほら、ちゃんとかぶって」
「あ、うん……」
藤夜は昔から、感情が昂ったり驚いたりすると、白い狐の耳が頭の上から出てしまう。それを隠すための帽子――これが毎日欠かせないのだ。
慌てた藤夜が学生帽を被り直す。焦りからか、帽子の下からぴょこんと白い耳が現れたけれど、手慣れた様子の鈴が頭を撫でてしっかり被らせると、それはすぐに髪の間へ収まったようだった。
「ねぇ母ちゃん、今日はおいなりさん作る?」
「うーん。お昼のお客さん次第かな。富子さんが朝採れの葱を持ってきてくれることになってるから、昼のきつねうどんで全部売り切れちゃうかも」
「えぇ……そんなぁ」
藤夜があまりにもしょんぼりとするのがおかしくて、「おやつの分だけ先に作っておこうかな」と返す。すると、藤夜は嬉しそうに鈴の周りを飛び跳ねた。その笑顔を見ているだけで、鈴は日々の幸せを噛み締められた。
十年前、たった一人で産んだ命。
いまこの時間を二人で生きていられるだけでもう十分なのだと、鈴は何度も言い聞かせてきた。
「おはよう、鈴ちゃん」
裏の勝手口が開き、八百屋の女将・富子が野菜を抱えて入ってきた。背中の籠いっぱいに、新鮮な野菜が詰まっている。富子は、娘のように可愛がってくれた老夫婦亡き後も、何かと鈴と藤夜を気にかけてくれている。
「いつもありがとう、富子さん」
「いいのいいの。こんなに働き者の未亡人、誰が放って置けるってもんですか」
未亡人――その言葉が胸に刺さる。藤夜の出生の秘密は、誰にも話していない。夫と言われた男は、この世の"どこにもいない"ことにしている。
「母ちゃん……?」
藤夜が心配そうに覗き込む。その声に呼ばれて、鈴は現実に引き戻された。
「ごめんごめん、なんでもないよ。ほら、学校! 行っといで!」
背中をトン、と押せば藤夜は笑顔で「行ってきます」と返して、鈴の元を去っていった。
「大きくなったねぇ、坊ちゃん。いくつになるんだっけ?」
「もう、十になります」
あの、夢のような一晩から、もう十年。されど十年と言えるほど、その月日は短いものだった。
(今日も、いつも通りの1日でありますように)
空模様を見ようと外へ出ると、遠くに白い霧がゆっくりと降りてきているのが見えた。
十年前から時折現れる、日の出の後の、遅すぎる霧。淡く、幽かに揺らめくその気配に、鈴の心臓が震える。
(……なんだろう。胸がざわざわする)
その胸騒ぎを誤魔化すように、鈴は空いた鍋に火をくべ、暖簾をあげる準備に取り掛かった。
◇ ◇ ◇
白い霧が、静かに通りの石畳を這う。その先で、懐かしい笑い声が聞こえた瞬間、水盆の上で霧を操る指先が震えた。
(――見つけた)
十年もの間、醒めない夢の様に探し続けていた声。
それは、かつて一夜を共にした小さな人間の娘。手のひらに感じた確かな温もりと、名を呼んだだけで震えた細い肩を、忘れた日はない。
(まさか、俺から逃げたのか?)
追っても追っても手に入らなかった十年。その間、伊織の胸には、焦がれるほどの渇きが巣食い続けていた。
霧の切れ間に、小さな店が見える。見事な筆運びで"末広亭"と書かれた古い臙脂の暖簾。その奥から漂う湯気と、ひどく懐かしい柔らかな匂い。
耐え切れず、伊織がそこへ行ってやろうと立ち上がった、その瞬間。明け放たれた襖の向こうに一瞬、仏壇が映った。薄暗い部屋の片隅で、黒い位牌が二つ、並んで小さく光ってみえた。
誰の位牌かは、わからない。それでも、嫌な予感だけが伊織の胸を刺した。
ぞわりと、内に黒い影が走る。
その影は瞬く間に伊織の心を覆い、醜い気持ちを増幅させた。それは誰だ。誰が鈴をこんな目に。誰のために祈っている。まだ見ぬ相手に口角を上げ、牙をむく。喉の奥で、低い唸りが漏れた。
ぎりりと噛んだ奥歯が軋む。己以外に彼女を愛した男がいると思うと、居ても立っても居られない。無意識に握った手のひらには、爪の跡がしっかりと刻まれていた。姿が見えずとも連れ帰ろうと短絡的な思いに駆られる。
しかし、暖簾のかかった店先へひょいと出てきた小さな影に、伊織は目を疑った。
学生帽の下で、陽光を浴びて輝く瞳。その少年の髪は黒く、目鼻立ちには鈴の面影がある。その出会いは、雷に打たれたようだった。胸の奥で押し殺してきた何かが、ぎしりと大きく音を立てて崩れ落ちた。
(まさか――そんなはずが)
水盆から手を伸ばしたとて、霧の中からは届かない。わかっていても、伸ばさずにはいられなかった。少年は立ち止まったまま、店先で帽子を深く被り直し、小道を駆け抜けていく。行き場を失った伊織の手は、何も掴めないまま空を切った。
(鈴、お前は、俺に何を隠している)
乾燥した空気がふわりと揺れて、店先の霧は静かに晴れていった。
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