最終話 もう、逃がさない
三人で見事な藤の棚を見ながら、他愛もない話をして、半刻ほどが過ぎた。足が疲れ、縁側へと腰掛けても、藤夜は"帰ろう"と言われるのを警戒して離れない。
「藤夜、そろそろ帰ろうか」
「やだ! まだ帰らない」
「いいだろう、もう少しくらい」
鈴が苦笑するその隣で、藤夜は目を輝かせて伊織を見つめる。けれどやはり限界だったのか、小さくあくびをすると鈴の膝へ頭をもたげ、目を閉じた。
「……寝ちゃった」
鈴が髪を撫でると、藤夜はむにゃむにゃと言いながら笑顔を浮かべ、寝息を立てる。その光景を見つめながら、伊織が静かに口を開いた。
「……鈴」
「はい」
「戻ってきてはくれないか」
中庭の藤の花を、風がさらりと揺らす。
「藤夜も、お前も――もう二度と、危険に晒したくない」
鈴は胸元を抑え、視線を落とす。この平和な時間を壊したくない気持ちは、鈴も同じだった。
「でも、店が……」
「気がかりならば、そのまま持ってこい」
伊織は鈴の手を取り、その場に鈴がいることを確かめるように強く握った。
「この稲荷のそばで、うどん屋をやってくれ。俺は毎日、いや毎食通う。それなら、藤夜もずっとそばにいられる」
「ふふっ……逃げられませんね、それでは」
「逃すつもりなど、あの日から毛頭ない」
伊織は着物の襟元へ手を伸ばし、薄桃色の包みを取り出した。そのちりめんを手のひらの上で開くと、見覚えのある銀色のかんざしが現れた。
「これは――」
それは九つの尾が瑞雲のように形どられたかんざし。九尾の認めた花嫁だけに許されるというその飾りが、鈴には相応しくないように思えた。だから、あの朝、この屋敷に置いて行ったのだ。
「鈴につけていてほしい」
「これは、私には、相応しくなど」
言いかけた唇に、伊織の指がそっと触れる。否定を止める、けれど強制ではない。そんな優しさのある触れ方だった。
「これはあの日、お前が置いて行ったものだ」
柔らかく話す声に、胸が締め付けられる。伊織はかんざしの上に鈴の手を乗せ、静かに支えた。
「間違いなく、ふさわしいのはお前だ」
伊織の瞳が、月光を受けた藤の花を反射しきらきらと光る。
「お前は、誰かの役に立つための器じゃない。お前は、俺自身が選んだ相手だ」
「これは代々九尾の嫁に許される飾りだが、俺は型式なんかよりもお前の意思を欲している。お前が置いて行ったものだから、どうか……取りに、戻ってきて欲しい」
ねだるように、頼み込むように、銀の頭がゆっくりと下がる。つんと立ち上がっていた耳も今はしんなりと垂れ、伊織の表情を見ることができない。けれど、手の甲に落ちる温かな粒が、何よりも雄弁に思いを語っている。
「……本当に、私でいいのですか」
「鈴でなくて、誰がいいと言うんだ」
その即答に、ほんの少しの反論が浮かぶ。
「あの朝の、お美しい女性陣とか……」
「馬鹿だな。芙蓉を見て何も思わなかったのか」
背後で、こんこんと笑う声がする。ふと見れば、狐の姿であったはずの芙蓉は真っ白な着物を着た長髪の女性へと変わっていた。頭には伊織や藤夜と同じ白い耳がつんと立っていて、涼しげな切れ長の目で鈴に目配せを送る。その見覚えのある姿に、鈴はふと初夜の翌朝を思い出した。
「あなた、あの時の……!」
「……お嫁様が大変純心で、可愛らしいものですから、悪戯心がつい」
「では、あの朝は全て誤解だったと?」
「ん、そういう事になるな」
「そんな……信じられない」
大きな勘違いに、鈴の顔は一気に赤くなる。もぞもぞと動く藤夜の背中を撫でながら、鈴は必死で思いを張り巡らせた。
「それに、藤夜は“父ちゃんができるなら、にいちゃんがいい”……だそうだ」
「藤夜が……そんなことを?」
「ああ。だから、鈴も言ってくれないか。――“夫にするならあなたがいい”と」
言葉と同時に吹いた突風で藤の花が揺れ、鈴は両手で口を押さえた。言葉が出ない。けれど、心はもう決まっている。
「鈴」
伊織は真っ赤に染まった鈴の頬にそっと手を添えた。金色の瞳は、深い藤色の夜よりも柔らかく、どこか怯えるような期待を滲ませている。
「返事を急かすつもりはない。ただ――」
指先が頬をなぞり、顎へとうつる。そのままくいと動かされた指先で、鈴の顔はほんの少し上を向く。
「お前の言葉が、欲しい」
心臓の音が早くなる。それはまるで耳元で早鐘を打つように、大きく忙しなく音を立てる。鈴はぎゅっと唇を結び、小さく息を吸った。
「そんなことを言われたら……。言わないとは、言えないじゃないですか……。
私の夫はもちろん、あなたが……伊織様が、いいです」
熱くて、怖くて、涙が溢れる。恥ずかしさで溢れる笑いも、止められない。そんなぐちゃぐちゃの表情を見た伊織の耳が、大きくぴんと跳ねた。抑えきれない感情と一緒に尻尾もばさりと立ち上がり、芙蓉と権蔵が同時に「ひゃあ!」と変な声を漏らした。
「……鈴」
鈴の名前を呼ぶ声は、もう完全に甘さを隠せなくなっていた。
伊織は鈴の顔を自身の方へ寄せる。額を額に重ね、鼻先に鼻先が触れる。静かに瞼を閉じれば、唇に柔らかな感触が訪れる。互いに求め合い、次第に深く、長く、濃やかになっていく。
その深く絡んだ唇を、藤夜の寝返りがふっと引き離した。
「……っ!」
驚いた鈴は胸を押さえながら息を整え、伊織は小さく吹き出す。
「いけないな。藤夜が起きてしまう」
「そう、ですね」
顔はしっかりと熱いまま、ふたりは声を殺して笑い合った。ふと、伊織の指先が髪をすくい、そっと耳の後ろへかき分けた。
「もう、逃がさない」
「……ええ。もう、離れません」
鈴はくすぐったそうに微笑んで、目線を下へ逸らした。
鈴の髪を整えた手が、かんざしを手に取り、鈴の髪に触れる。紐で簡単に括られていたまとめ髪の根元に、銀のかんざしをそっと差し込まれる。九つの尾の先が、月の光を受けてふわりと光った。
「……やっと、お前のところに戻った」
その瞬間を待っていたかのように、権蔵が草履を蹴る勢いで駆け寄る。狸の姿であったはずのそれは、髪を後ろになでつけた小太りの翁だった。
「お館様ぁ〜っ!! ついに! ついにやりましたな!」
背後で見ていたはずの芙蓉も、手を叩きながら跳ねる。
「まあっ♡ お嫁様が本当に、お嫁様にお戻りになられましたわねっ!」
「……黙れ。藤夜が起きるだろう」
眷属二匹は口を押さえるようにしてピタリと止まり、藤夜の様子をじぃっと見つめる。多くの瞳に見つめられながら、変わらず寝息を立てる藤夜を見て、皆が顔を見合わせてふっと笑った。
もう誰にも奪われない場所で、三人はようやくひとつの家族になった。
~完~
同じ企画に参加されているあさぎかな様から
FAをいただきました!
ありがとうございます( *´꒳`* )
最後までお読みいただきありがとうございました!
伊織と鈴、そして藤夜の物語はいかがでしたでしょうか( *´﹀` *)
初めてのバトルシーンに苦戦しましたが、最後まで書き切ることができてホッと安心しています。
氷雨さん主催の #シークレットベビー #シクべ企画 は他にも素晴らしい先生ばかりですので、ぜひ合わせて他の作品もお読みいただければ嬉しいです( ´͈ ᵕ `͈ )
最後にはなりますが、このような素敵な企画を開催してくださった氷雨そら@hisamesoraさん、ありがとうございました!




