14話 瀬川稲荷への帰還
数度瞬きをすると、足の裏に柔らかな土の感触が戻った。白い霧が解け、藤の花が淡く光る瀬川稲荷の裏庭が、目前に広がる。
「ここ……どこ? 知らないとこだ」
「安心していい。ここは瀬川稲荷、結界の中だ」
伊織が短く説明すると、藤夜は鈴の袖を掴んだまま、不思議そうに周りを見渡した。
ここには「帰ってきた」と思える暖かさがある。離れた過去を思うと胸が痛むけれど、安心が静かに上書きしていく。息を大きく吸った鈴の腕の中で、藤夜もまた小さく安堵の息を吐いた。
伊織と鈴が久方ぶりに目線を交わし、小さく微笑んだとき。空中で白い霧がぱんっと弾けて、二匹の白い影がくるりと跳ね、足元へ降り立った。
「いやはや、お館様。お嫁様にご子息様まで! 揃って帰還とはめでたい限り!」
「あそこでお止めいただかねば、我らにも傷があったやも」
饒舌にまくし立てる二匹――権蔵と芙蓉を、鈴も藤夜もきょとんと見つめる。控えめに声をかけようとした鈴よりも早く、伊織が冷静に制した。
「お前たち……まず静かにしろ。二人が呆れている」
二匹は慌てて口を閉じ、しずしずと頭を下げる。
「藤夜。紹介が遅れたが、この二匹は私の眷属――従者だ。名を権蔵と芙蓉という」
名を呼ばれた二匹は反省など忘れたように顔をぱっと上げ、ぱちぱちと輝く眼で鈴と藤夜を見つめた。
「おお、ご子息様! 将来は立派な若旦那に――」
「まあまあ、鈴様にそっくりなお顔ですこと……!」
藤夜はその場で固まった。しばらくして、ぽつりと話し出す。
「……しゃべる狸と、しゃべる狐……?」
鈴は苦笑いしつつ、息子の背を撫でる。
「大丈夫よ、藤夜。怖くないからね」
「藤夜は初めてだろうが、害はない。ただ少し……やかましいだけだ」
「ひ、ひどい! お館様、それはあまりに――」
「全く、否定できないですわね」と芙蓉がしれっと言い、権蔵はしょんぼりと耳を垂らした。
その微笑ましいやり取りに、緊張していた空気はようやく和らいでいく。
「……にいちゃん。さっき、こわかった」
その振り絞るような小さな声に、伊織の胸はひどく締め付けられた。伊織は、互いの間に空いたほんの少しの隙間に、しゃがみ込む。同じ色の瞳の視線が、子供の視線と真っ直ぐに交差する。
「悪かったな」
藤夜は涙を堪えるように頬を膨らませながら、伊織の目線を逸らさず、じっと見つめた。
「だが、あれはお前と、鈴を守るためだったんだ」
「守る、ため……?」
たっぷりと水分を含んだ飴のような瞳が、伊織を捉えて離さない。まるで幼い頃の自分を見つめているような錯覚に陥った伊織は、しっかりと藤夜を両手で抱きしめ、立ち上がった。
「ああ。お前は、私にとって大切な存在なんだ。だから、怒った。……怖がらせてすまなかった」
藤夜の蓄えきれなくなった涙が、伊織の着物へ染みていく。藤夜はそのまま伊織の肩をぎゅっと握りしめた。
「……にいちゃん」
「どうした?」
「ぼく、ずっと思ってたんだ」
藤夜は伊織の肩へ額を押し付けると、言葉を探す。伊織はただ黙って、藤夜の背中をゆっくりと摩り、言葉をまった。
「にいちゃんが、父ちゃんなら……いいのにな、って」
その瞬間、伊織の手がぴくりと跳ねて、止まる。
「俺が、お前の父ちゃんでも、いいのか?」
鈴に聞かれないよう、最低限の声量で問い返す。藤夜は恥ずかしげに顔を首元へよせ、こくんと頷いた。涙でくしゃくしゃな顔なのに、藤夜の声はまっすぐ伊織に届く。
「うん。僕、父ちゃんができるなら……にいちゃんがいい」
伊織は目を閉じ、ひとつ大きく息を吐いた。そして──ほんの少しだけ、苦笑のような微笑を浮かべる。
「……そうか。ならまずは──鈴に、聞いてみないとな」
「そっか。じゃあそれまでは内緒にする」
「あぁ。男の約束だ」
伊織の温かい手が、藤夜の頭をぽん、と軽く撫でる。ヒヒっと笑う藤夜と嬉しそうな伊織の姿を、鈴は誇らしげに見つめていた。




