13話 別離
「な……なぜだ! なぜ効かない!
どうして、どうしてどうして――! どうしてお前はこうも邪魔をするっ!」
玲司がわずかに後ずさる。乱れた呼吸、額に滲む大粒の汗。呪符はそのまま全て燃え尽き、一つ残らず灰となって畳へと落ちていく。自身の誇る呪符がまるで役に立たない現実に、取り繕っていた表情が初めて大きく揺れた。
風に流された灰が、二匹の眷属の元へと舞っていく。不意に触れてしまった芙蓉の髭のそばで、白い稲妻のような細い閃光が床を裂く。驚いた様子で飛び上がった芙蓉は一度身震いして、また玲司を威嚇するように厳しい目線を向けた。
「その程度の紙切れで、我が眷属に触れられると思うな」
地を這うような低音。
玲司はわなわなと恐れ慄きながら、袂へ手を伸ばし、別の呪符を構えた。たちまち伊織の足元に白霧が沸き上がり、九つの尾がひとつに束ねられるように捻れ、しなる。
ばきん、と大きな音が鳴って、伊織の太くまとまった尾が、座敷の中央にある太い柱を折ったのだと理解した。座敷の中央を走る梁がめきめきと悲鳴を上げ、天井が歪んでいく。
四方から悲鳴が上がり、隠れていた黒装束の男や女中たちが、蟻のようにわらわらと庭へと逃げ出す。玲司も浮き上がった畳の隙間を縫うように、ぜえぜえと息を切らして庭へ逃げ出した。
「まだだ……! 封じろ、封じろぉっ!!」
玲司の背後から、砂まみれになった黒装束の男たちが、鬼の形相で呪陣を展開する。呪符に書かれた墨文字が生き物のように宙を舞い、蠢き、伊織の手足を絡め取る。それは一瞬、形勢を逆転したように見えた。
しかし――
「滑稽だ」
白く太い尾がさっと薙ぎ払うだけで、伊織の周りを取り囲んでいた呪いは真っ二つに裂けていく。黒装束の男たちは風圧で吹き飛び、あるものは柱へ、あるものは木々へ叩きつけられ、皆一様に動けなくなった。
「やめろ……やめろぉっ!!」
必死の叫びは虚しく空に消える。伊織の怒りを止めるものは、何もなかった。玲司はついに、膝から崩れ落ちた。俯いた肩は揺れ、呼吸に混じった怒りを、どうにか吐き出そうとしているようだった。
「藤夜……っ!」
座敷の奥、柱に括り付けられた小さな影へ、鈴は我を忘れて駆け出した。足を取られそうになりながらも傾いた畳を押し除け、縄に擦れて赤くなった我が子の手首へ両手を伸ばす。
「ごめんね、ごめんね……今、解くから……っ」
縄を解く指が震える。必死に結び目をほどこうとする鈴の涙が、藤夜の手のひらへぽたりと落ちた。
「……母ちゃん……?」
弱々しい声。鈴が縄を解き終えると、藤夜はすがるように母の腕へしがみついた。
「いたかった……ぼく、こわかった……!」
「もう、大丈夫。もう大丈夫だからね……っ」
鈴は藤夜の存在を確かめるように胴へと腕を回し、息子をきつく抱きしめた。その光景を見た伊織の胸の底で、何かが完全に切れた。伊織の胸が、静かに大きく膨らむ。その一呼吸で、座敷の温度が一気に下がった。
――ごう、と音を立てて、風が吹き荒れる。
うっすらとした白霧が渦を巻き、砂埃を一緒に巻き上げ、屋根をこえる大きな竜巻へと変化した。
玲司が思わず後退りすると、伊織の影が伸び、ゆっくりと獣へと変わっていく。鋭い牙を携えた口元は歪み、額には熱く燃える炎が渦巻いている。
「家族へ手を出したお前を、逃がすものか」
太く白い尾がざわざわと逆巻き、空気が歪む。屋敷全体が軋むような圧力。それに耐えかねた藤夜は、母の腕の中で、小さく震えた。
「……母ちゃん、あれ、にいちゃん? ぼく、こわい……こわいよ……」
怯えたその囁きを聞いたのは、鈴たった一人だった。
この怒りを、光景を、覚えさせてはいけない。本能が叫ぶ。
伊織の怒りが息子の心を傷つけることだけは、あってはならない。藤夜をさらに胸元へ抱き寄せ、その耳を覆う。腕の中でもがき、戦いの終わりを見ようとする藤夜を、鈴は懸命に押さえ込んだ。
「伊織様……っ伊織様!」
どうか届けと願い、叫ぶ。伊織の周りを取り巻く風は未だ吹き止まず、轟々と音を立てて玲司を追い込んでいる。
「どうか、おやめください! ……そこまでで、いいのです……!」
「それではまた、こいつらは繰り返す」
「藤夜が……私達の子が! あなたを“怖い”と思ってしまいます。私は……この子の前で、あなたに、人殺しになって欲しくはないのです……!」
恐怖に声が震え、藤夜を抱く腕にも力が入る。その懸命の訴えは、伊織の怒りを塞ぎ止めた。柱や梁の折れゆく音よりも、鈴の叫びの方が強く伊織の胸に響いていた。
白霧のうねりがぴたりと止まる。前傾の姿勢を貫く伊織の前腕からわずかに力が抜け、ゆっくりと体勢が変わる。荒れ狂っていた気配が、一瞬にして淀むように沈んだ。
「だが……鈴……」
名を呼ぶ声は、怒りよりも痛みに近い悲痛さがある。伊織は叱られた犬のように耳を伏せ、鈴を見た。その声に、鈴は顔を小さく横へ振って答える。
「もう、いいのです。ただひとつ――もう繰り返さないと約束してくれませんか」
強い風で散らかった座敷を一瞥する。襖の奥で怯えながらこちらを見ている女中や、伸びてしまった黒装束の男たち、砂地で腰を抜かしている玲司。そこに、これ以上抵抗する力は残っていない。
藤夜と共にゆっくりと立ち上がった鈴は、伊織の方へと歩き、その大きな体を見上げる。鈴は、獣の姿で危険な距離にいる伊織を、今は抱きしめたいと思った。息子を抱いたまま片手を伸ばせば、九尾は額の炎をゆらりと小さくしながら、愛しい妻の小さな手のひらへ顔を寄せる。警戒していた様子の眷属二匹はその足元へ擦り寄り、そっと腰を下ろした。
「九尾と本宮の縁を、ここで終わらせてください」
お願いです、と続けて、鈴は伊織に頭を下げた。遠くで、玲司の「やめろ」と叫ぶ声がする。その声はもはや、塵ひとつ吹き飛ばせないほど弱々しい風のように微力で、誰の耳にも届かない。
「鈴が、望むなら――そうしよう」
伊織は小さく呼吸し、鈴の頬へ手を伸ばす。ひたいに燃えていた炎は静かに鎮まり、伊織は人の形へと姿を戻した。
「だが、本宮――お前たちは二度と、私の家族に近づくな」
その声色は冷静で、どんな怒号よりも恐ろしい。
「次がもしあれば――その時は、本当に根絶やしにする」
まっすぐ伸びた爪が、いつでも玲司の首を掻き切れると脅すように光る。玲司はただ首を何度も縦に振るだけで、言葉を失っていた。臙脂色の上等な着物は砂に塗れ、ところどころ破けている。恐る恐る近づいた女中が、膝が笑っている玲司を立ち上がらせ、砂を払う。その姿に先ほどまでの傲慢さはない。
霧がふたたび鈴と藤夜の足元に満ち、柔らかな九尾の尾がふたりを包む。泣いてばかりだった藤夜はそのふかふかな尾に夢中になり、短い手を伸ばす。鈴の着物の胸元には、藤夜の涙でできた濃い色の染みが広がっていた。
「鈴、藤夜。帰るぞ」
伊織の腕の中で、世界が白い光にほどける。本宮家の座敷が遠ざかり、屋敷の中庭には風で散った藤の花弁が穏やかに舞った。




