12話 不吉な再会
紫の光が尾を引くように、藤の花びらが舞い散る。権蔵は確かに先鋒としての役割を果たしたようで、その眩さの中、鈴と伊織は本宮家の正面口へ降り立った。
久しぶりに通る細道は、ひどく静かだった。町の喧騒から切り離されたような、不気味な静寂。本宮家の屋敷の門は固く閉ざされ、提灯のゆらめきさえ影を潜めている。
(最も招かれざる場所へ、戻ってきてしまった)
記憶にあるのは座敷牢、そして強烈な嫌味、謗り。良い思い出などほとんどない。全身に、硬く力が入る。頬は強張り、襟足には嫌な汗が流れた。十年離れた生家の空気。他者を寄せ付けない冷たさが、白壁の向こうから鈴を拒絶する。伊織は黙ったまま白壁を一瞥し、顔を上げてすんと息を吸った。
「……間違いない。藤夜は、ここにいる」
その声は低く、獣の唸りのようだった。怒りを抑えきれない瞳は、壁を睨んでいる。
――どんっ!!
屋敷の奥から鈍い衝撃音が響き、うっすらと煙が上がった。途端に黒い影が玄関の扉を破り、路地へ転がり出た。細身の男性が、声にならない声をあげながら。
「……う……ぐっ」
「あ、あなたは……」
自身の起こした土煙の中、男はよろめきながら立ち上がる。鈴はその衝撃に思わず伊織の袖を掴んだ。
薄暗い月光の中で体を起こしたのは――末広亭へ来ていたあの男だった。どうか違和感だけで済んでほしいと願っていたことが、現実となってしまった。
屋敷の方から、ジャリジャリと半ば投げやりな足音が聞こえる。
臙脂色の着物姿の若い青年が、よろめいた男を通りの方へ追い詰め、容赦なく腹部を蹴り上げた。男は声にならない声をあげながら抵抗したが、やがて動かなくなった。
「……ひっ」
伊織の指先が鈴の口元を咄嗟に塞ぐ。けれどそれは間に合わず、鈴の悲鳴が夜の空気に漏れた。男を蹴った人影はゆらりと鈴の方を振り返り――にぃ、と不気味な笑みを浮かべた。
見覚えのある目元。まだ、生贄という言葉の意味さえ知らない、幼い頃の記憶が蘇る。鈴の心臓が、一拍だけ遅れて跳ねた。目の前の笑みは、幼い頃は愛称で呼んでいた少年と同じ形をしているのに、温度だけが抜け落ちていた。
「鈴? 鈴じゃないか……あぁ、自ら来てくれたんだね」
「玲、司……さん」
鷲尾 玲司。それは、鈴にとって"味方だと思っていた"唯一の男の名。かすれた声が漏れた瞬間、違和感が全身を締め付けた。二十年という歳月で伸びた背も、纏う空気も、全てに覚えがある。それなのに、その奥に沈む感情だけは、鈴の知らない黒さを孕んでいた。
伊織の手が、鈴の腰をそっと引き留める。まるで“これ以上前へ出るな”と言うように。玲司はそんな伊織を視界に入れようともせず、優しい声で鈴を呼び、両手を広げた。
「やぁ鈴、待っていたよ。早くこちらへおいで」
冷酷な微笑みを一才崩さず、男は淡々と言葉を続ける。
「……君の子も、君を座敷で待っている」
鈴の肺が、ひゅっと縮む。
腰へ添えられていた伊織の指は、ぎちぎちと鈴の帯を握った。
「鈴を呼ぶな。お前に呼ばれる名ではない」
怒りの色を含んだ伊織の声で、玲司はようやく伊織の存在へ目を向けた。
月明かりに照らされた金の瞳と、玲司の目線がぶつかる。誰よりも穏やかで、鈴を守ってくれていたはずの玲司。しかしそこにあったのは、穏やかさの仮面を捨て去った当主さながらの形相だった。
「あぁ、九尾様ではありませんか。ずいぶんと――人の姿に馴染まれたようで」
左の口角が釣り上がる。歪んだ笑みは一層、鈴の不安を煽った。
「そこの……贄にもならぬ女など、貴方にはもう必要ないでしょう?」
「――もう一度、言ってみろ」
「"お下がり"を貰ってやると言っているんだよ。役立たずでも、鈴は本宮のものだからな」
伊織の態度がおかしくて仕方がないという様子の玲司は、鈴を手に入れようとさらに一歩、近づく。
「止まれ。藤夜をどこへやった」
地を這うように低く抑えた声が、静寂を切り裂く。
「聞け、本宮の男。私を侮辱するのは構わん。だが……」
鈴の帯を握っていた腕を後ろへ引くと、伊織は鈴の前へと進む。白い霧が地を這うように滲み出し、九つの尾がばさりと立ち上がる。芙蓉と権蔵は伊織の隣で、頭を低く下げて前かがみになり、玲司を威嚇する姿勢をとっていた。
「鈴と藤夜に手を出したお前を、もう逃しはしない」
鈴の目からほのかに見えていた白い霧はとぐろを巻くように濃くなり、じっとりと湿度を帯びた風を生み出す。
「ほう。九尾様にしては随分と"家族"に入れ込んでおられる」
クククと声をあげて笑った玲司は戦う様子はないと言いたげに両手を軽く上げた。そのまま半身を後ろへ捩り、屋敷の方を振り返る。立派な松の木の先、戸を開け放った座敷の奥に、数人の黒い人影と、柱に括り付けられた何かが見えた。それは大変ぐったりとした様子で、顔をきちんと確認することはできない。
「あれは……っ藤夜?!」
「っはは! 座敷で待っていると、初めから伝えただろう」
伊織の肩が、はっきりと怒りで震えた。
「……家族を道具のように扱うのも、本宮の血筋ゆえか」
「道具のように? 何をおっしゃっているのか」
玲司は空っぽな微笑みを浮かべ、首を傾けた。
「その女は、“贄”。何代も前から、お前たち狐が我ら一族に求めた形――道具そのもの。代々“贄”を差し出してきたからこそ、本宮は狐の加護を受け、繁栄してきた。
……九尾も、我らの捧げ物で力を保ってきたはずだろう?」
「黙れ……っ! これ以上は許さぬぞ、本宮」
「許さん? それはこちらの言葉。これ以上の勝手が許されると思うな、化け狐!」
額に汗をかいた玲司は焦った様子で袖口へ手を入れ、くしゃくしゃになった数枚の紙片を掴み取った。人型に切り取られたその紙片は意思を持つように空中で静止すると、ジリジリと線香のように赤い光を放って燃え出した。
すぐに、黒い煙が立ち上がる。だが、その黒煙は何かに阻まれたように空中で歪んだ。




