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【完結】執着九尾様は逃げた妻子を愛し抜く〜十年越しの寵愛は息子から〜  作者: 汐瀬うに


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11話 痕跡を辿る

「立てるか?」


 差し出された腕から、久しぶりの伊織の香りが漂い、鈴の鼻腔をくすぐる。「大丈夫」と答えたものの、膝はがくがくと震え、まともに一歩、歩き出すことすらできない。伊織はそんな鈴を見かねてか、腕を取って店の暖簾をくぐると、側の長椅子へ座らせた。


「わ、私、こんなところで、座っている場合じゃ……っ! 伊織様、どうか……っ」


 すぐに、藤夜を探しに行かなくてはいけない。「藤夜の元へ連れて行ってほしい」と懇願すると、伊織は小さく顔を横に振った。袖口から手拭いを取り出してしゃがみ、鈴の頬に流れた涙の筋を拭う。そのまま両手を包むように握ると、「落ち着け」と声をかけた。


「鈴。今、あの子が持っているはずの物で、俺の知っている物はあるか。着物でも、鞄でも、何だっていい」

「伊織様の知っている物。ええと……帽子か、あの日の巾着ならきっと」

「帽子と、巾着。……そうか」


 伊織は一瞬だけ視線を落とし、すぐに立ち上がった。奥の方から赤い顔で見つめていた一恵と富子の方へと寄っていく。まさかこちらへ来るなんてと慌てふためいた二人は、急に髪を整えたり着物の誇りを叩いたりして、身なりを整える。


「失礼ながら。しばらく、この店を頼めますか」


 一恵は一瞬だけ驚いた顔を見せ、それからすぐ腹を括ったように顎を引いた。富子は目を潤ませながら、力強く頷く。


「え、ええ、もちろんですとも……!」

「任せときな! 藤夜が待ってるだろうからね」


 二人の迷いのない答えに、鈴の瞳にはまた涙が滲む。


「すまない。恩に着る」


 伊織は深く頭を下げ、それから静かに振り返った。小刻みに震えるのを誤魔化すように握られた鈴の手を、そっと取る。その大きな手は、あの日と同じように冷えた鈴の指先をじんわりと溶かしていく。


「鈴ちゃん、帰ったら説明! してくれるんだろうね」

「……ええ。必ず、全てを」


 一恵は腕組みしたまま、いつになく真剣な顔をして頷いた。駆け寄った富子が、震える鈴の背をそっと押す。


「行きな。あんたが行けば、あの子はすぐ見つかるよ」


 ふたりの言葉に背中を支えられるようにして、鈴は立ち上がった。伊織は鈴を半身で庇うように肩を寄せ、「行くぞ」と静かに告げる。


「……はい」


 店の暖簾をくぐる。夜の風は肌を刺すように冷たく、この中で藤夜が孤独にさらされていると思うと、鈴の胸は強く締め付けられる。伊織はわずかに目を細め、空気を匂い、風の流れを読んだ。


「匂いは薄い。だが……途切れてはいないな」

「本当ですか! ならば、どこへ行けばいいのですか……っ?」


「一度瀬川へ戻る。社の結界を通して深く追うぞ」


 そう言うと、伊織は鈴の肩へ躊躇なく手を添えた。二人を包んだ空気が、すうっと音を立てて白い霧に変わり、世界が歪む。


 灯籠流しのように夜の街並みが遠ざかり、灯りが線となり流れていく。風の中、鈴は一瞬だけ息を呑んで伊織の肩に掴まった。


「伊織様……っ、これ……!」

「怖がるな。すぐ着く」


 足は確かに地面に立っているのに、時間が歪んだような感覚が全身に走る。心臓の鼓動だけが、場違いなほど大きく響く。「舌を噛むなよ」と笑った伊織は霧をまとったまま、鈴は十年ぶりに瀬川稲荷へと降り立った。


 「ここから、藤夜の痕跡を辿る」


 幻想的な藤の花に囲まれた小さな池。そこへ伊織が手をかざすと、柱に括り付けられた藤夜の姿が水面に映る。縄の食い込んだ手首が、不自然な角度で垂れていた。

 

「藤夜! 藤夜……っ!」

 

 思わず伸ばした鈴の指先が水面に触れた瞬間、苦しげに柱へ括られた藤夜の姿は波紋となって淡く崩れた。残されたのは冷たく沈む鏡面だけ。

 

「やはり、そうか」


 伊織は切れ長のまぶたを伏せ、白い息をゆっくり吐き出した。その吐息には、確かな威圧があった。

 

「権蔵、芙蓉。いるな?」


 空中へ、名を呼ぶ。境内にふっと風が巻き起こり、藤の花がざわりと揺れた。


「お呼びですかな」

「先ほどから、こちらに」

 

 いつの間にか、池のほとりに、ぽってりと丸い白狸と、しゅっと細い白狐が座っている。どちらも伊織と同じ、金の瞳をしている。


「覚えのある香りがすると思ったら、御嫁様ではありませんか」

「まずはご無事で何よりですな、御館様」


 呑気に笑う二匹を伊織はぎりりと睨みつけた。威圧に二匹はぴくっと肩を跳ねさせ、尻尾を丸める。


「貴様ら。呑気に挨拶している場合か」

「ひえっ……し、失礼いたしました」

「すぐに、参りますゆえ……っ!」


 二匹が慌てて鈴の方へにじり寄る。芙蓉と呼ばれた白狐は、鈴の周りをくるりとまわり、鼻先を器用に動かした。

 

「本宮の、呪符の香りがいたしますわね」

もう一方の狸――権蔵も鈴の足元へ駆け寄ると、小さな手で指先に触れた。

「ん。縁の糸はまだ、切れておらぬようじゃな。御館様とも……御生家とも」

鈴の、見えないものを見ている。権蔵の言葉に、鈴の背中がぞくりと冷えた。


「――追えるな?」

「ええ、かなり弱くはなっておりますが、途切れてはおりません」

「では権蔵、お前は先行して道を開け。芙蓉には鈴と藤夜を任せる」

「承知いたしました」


 二匹は一度高く跳ねて、空中でくるりと宙返りをする。その影はそのまま霧となり、境内の奥へと消えていった。足元へ藤の花弁がはらはらと落ちてきて、道標のように空へ向かって道を作る。伊織は再び鈴の腰を抱き寄せるように腕を回した。


「鈴。絶対に、俺から離れるな」

「はい。……絶対に」


 その言葉に、鈴の腕がひりつくほど熱くなる。

 覚悟を決めて一歩、二歩と藤の道を歩むうち、二人は瀬川の社を飛び出し、本宮家の白壁を目下に捉えた。

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