10話 三合瓶が示す先
翌日の末広亭は、普段とは少し違っていた。
昼時になっても、客は半分も入らず、店内は空席が目立つ。普段なら相席を頼むことがある座敷も、今日は不自然なほどに余裕があった。暖簾を揺らす風の音ばかりが大きく、鈴の胸を騒がせた。
一恵は「こんな日がたまにはなくっちゃ」と笑いながら日本酒を飲んでいたけれど、鈴の背筋はずっと薄ら寒いままだった。
「母ちゃん……」
袖をぎゅっとつままれ、鈴ははっとした。いつもなら外で駆け回っているころなのに、藤夜は珍しく鈴のそばを離れようとしない。
「どうした? 何かあった?」
こんな時は寂しいか、お腹が空いているか、そんなことだろう。そう思った鈴は足元にしゃがみ込み、腕を伸ばして抱き、甘やかす。けれど、今日の正解は違うみたいだ。
(この子は……私より先に“何か”を感じ取ってる?)
ふたりの足元をしっとりと冷たい風が撫でる。昨日店にやってきた、違和感のある男の姿がふとよぎった。黒ずんだ羽織に、不釣り合いなほど綺麗な草履。無駄のない仕草と妙に観察するような視線。不意に浮かんだ悪い想像を追い払おうと、頭を軽く振る。少し前髪の崩れた鈴を見て、藤夜は小さく笑った。
「藤夜、今日は水切り、しないの?」
「しない」
藤夜は即答して首を横に振る。「遊びに行かないなんて珍しいわね」と返すと、藤夜はむすっとした顔で目をそらす。
「そんな日もあるんだよ。それより……今日、外が変だよ。風向きも、匂いも」
鈴の腕をぎゅっと掴んで、藤夜は暖簾の外を見やる。次第に暗くなりつつある表通りを、人々がいつもより足早に通り過ぎていく。その足元を見ながら、藤夜がポツリとつぶやいた。
「――焦げたような、嫌なにおいがする」
その言葉に、鈴の背中はひりついた。本宮の父は、隠密や呪術師を使って他人を支配しようとする人だった。座敷牢で折檻を受けていた頃は、鈴もその匂いをよく嗅いでいた。父からの支配はもう終わったはずなのに、その記憶は今も鮮明に鈴の心に深く残っていた。
(どうしてこんなにも……本宮を思い出すことばかり起きるの?)
不安な思いが、顔に現れていたのだろうか。藤夜は母のためになることをしようと、小さな頭を目一杯働かせた。
「僕さ……おつかい、してくる。富ちゃんがお醤油ないって言ってたから」
無邪気な笑み。けれど、どこかに強がっているそぶりを感じる。鈴はそれを追求せずに一度強く抱きしめてから、我が子の成長を見守ろうと立ち上がった。
「……じゃあ、お願いしようかな。暗くなる前に帰っておいで」
「うん! すぐ戻るよ」
炊事場から、昼に洗って干しておいた三合瓶を取り出して、小銭と一緒に藤夜に手渡す。藤夜はたたたと足音を立てながら、小走りに飛び出していった。
藤夜の小さな背中が、なぜか妙に頼もしく見えた。
◇ ◇ ◇
「流石に遅くないかい? うちが見てこようか」
晩酌をしにきたはずの一恵が、しきりに外を気にする。珍しく他に客のいない末広亭はがらんとしていて、普段以上に広さを感じる。空はもう橙色に燃えていて、夜がすぐそこまで差し掛かっている。
「ううーん……ちょっと表見てくるから、一恵さんの小鉢、富子さんに任せてもいい?」
「もちろん。迎えに行っといで」
糠床からきゅうりと大根を取り出し、まな板に置いてから手を洗う。何かに追いかけられているような、焦燥感がどうしても胸から離れない。気のせいならそれでいい。
「ごめんなさい、少し離れます」
さっと小走りで一恵の横を抜けながら、頭を下げる。「今更気にしなくていいよ」という声が、鈴の背中を押した。
表へ出て見回すけれど、雑踏の中に見慣れた学生帽は見えない。迎えに行こうと歩き出しては、すれ違うかもしれないと思い店へ戻る。そんなことを何往復かしているところで、藤夜と同世代くらいの少年が数名通りかかった。その中にひとり、こちらの視線を気にしている子が見える。
「ちょっと、君! ここの定食屋の子のこと、何か知らない? 見かけたりしてない?」
「定食屋の子?……おばちゃんごめん、知らないや」
少年が駆け足で去っていくのを、見送る。次に通った少年も、その次も、藤夜のことは知らないと答えた。
(本当に知らないの……? この辺の子なら、見ていておかしくないはずなのに)
嫌な予感がする。藤夜が言っていた"焦げたような匂い"を、鈴は感じ取ることができなかった。もしかして、と悪い想像がむくむくと膨らむ。
もう一度だけ、と自分に言い聞かせて、鈴は店から一番近い橋の方へ歩き出した。空には三日月が顔を出していて、水面には通りの光が揺れている。その水面に――見覚えのある空の三合瓶が浮いていた。紐の結び目を見た瞬間、血の気が引いた。
「そんな――っ!」
鈴が急いで駆け寄るが、河辺からは少し遠く、手は届かない。風に流されながら、三合瓶はゆっくりと末広亭から遠ざかっていく。
「嘘……っ」
喉がひりつくほどに乾いていく。 名前を呼ぼうとするたびに、声が震えて上手く出てこない。
「どうして……藤夜……っ」
絞り出すような声と一緒に、膝ががくりと落ちた。
(藤夜は……私の、最後の宝物なのに……)
川辺に手をつくと、冷え切った石畳に熱が一気に奪われていく。震える手のひらへ涙がぼたぼたと落ちて、鈴の視界を滲ませた。
何度呼びかけても、鈴の声は川の流れに飲み込まれ、消えていく。鈴の横を通りがかる人々は石畳の上に座り込む女の姿を、不思議そうに眺め、去っていく。誰も声をかけてこない状況が、鈴をなお孤独にしていく。
「どうして……どうしていないの……っ! どこへ行ったの……っ!」
夜風が、鈴の前髪を揺らす。
その刹那――背後からふっと影が落ちた。
「鈴」
少し掠れた、懐かしい響き。もう自分の名を呼ぶことはないと思っていたその声ひとつで、鈴の世界が震える。振り返るより先に、色白な長い腕がそっと鈴を抱き寄せた。
「藤夜が……あの子が、いないの……!」
涙でぐしゃぐしゃになった声が、紬の羽織の中で溢れる。
「あなたが……っ連れていったの? そうよね……そうだと言って……っ!」
鈴の指が伊織の腕を掴み、 望みをかけるように泣き縋る。伊織は短く息を呑み、鈴の手をそっと包み込んだ。
「……いや、俺じゃない。だが――目星はついている」
その言葉と同時に、柳の葉を一気にかき取るような強い風が川面を渡る。金の瞳は怒りに揺れ、筋が浮かび上がるほど拳は固く握られていた。




