9話 不穏の影
「昨日さ、兄ちゃんが約束守って、店に来てくれたんだよ」
「あらぁ――そりゃ男前だわね」
今まで見たことないほど雄弁に、藤夜は語る。昼食を食べ終わったばかりの一恵にも、野菜を届けにきた富子にも、同じ話を繰り返した。
「もう藤夜、いいかげんに……」
「まぁまぁ、いいじゃないの」
富子は藤夜の向かいに座ると、藤夜の話を聞き続ける。うんうんと何度も相槌を打ってくれる富子に、短い手をめいっぱい使って話す姿が、あまりにもいじらしい。
「母ちゃんのうどんも、全部食べてったんだって!」
「そうかいそうかい――よほど、嬉しかったんだねぇ」
富子は他界した母と同じくらいの年齢で、いつもおおらかに笑う。本当ならば藤夜とあの人にも、こんな時間があったはずだ。そんな暖かな団欒の時間を、自分の意地だけで奪ってしまった。後悔ばかりが頭をよぎる。
「その兄ちゃんが、藤夜の"父ちゃん"になったり……しないのかい?」
「や、やめてくださいよ……死んだ主人に悪いじゃないですか」
「一恵。かわいいからって、あんまり鈴ちゃんをからかうんじゃないよ」
「いいじゃないか、鈴ちゃんなんてまだ年頃なんだから」
一恵に笑われ、鈴が耳まで真っ赤になってうつむいたとき、藤夜は目線をふっと上へそらすと、小さく呟いた。
「でもぼくは……あの兄ちゃんに毎日会えるなら、嬉しいけどな」
その声は、ただの独り言みたいに小さい。けれど鈴の心臓にはずん、と響く。
「藤夜……?」
鈴がそっと聞き返すと、藤夜は少し考えて、椅子の縁を指先でなぞりながら、言葉を探すようにぼそぼそと話し出す。
「だってさ……母ちゃんのこと、すっごく大事にしてくれそうだったもん」
富子は「あらまぁ」と嬉しそうに目尻を下げ、一恵はわざとらしく頷く。
「男の目で見たときの"優しさ"ってのはね、鈴ちゃん。案外、当たるもんだよ」
「ちょっと、一恵さん……!」
「だって本当じゃないの。帰りに見かけたけど、あの目はアンタに惚れてるね」
からかわれて、鈴は耳まで真っ赤になる。手のひらをぎゅっと握りしめて、薄汚れた草履に目線を落とした。
(……お願い、もう言わないで)
胸の奥で、十年前の失恋の痛みがじわりと蘇る。
指先がわずかに震える。脳裏に、忘れたはずの声がよみがえる。
――鈴様、昨晩はずいぶんとお楽しみで
――あのお方にたっぷりと愛された顔をされておりますわね
あの朝は、美しく着飾った豊満な女性たちが、寝室から出た鈴を出迎えた。伊織と同じお香の匂いを漂わせながら。自分だけだと聞かされていただけに、堂々と現れた女性陣に鈴はひどく嫉妬した。
水仕事ですっかり荒れてしまった両手を開いてみる。彼がこの手を取ってくれた晩。絢爛豪華な藤の花も、長い腕の中の温もりも、何もかもまだ鮮明に覚えている。
「母ちゃん?」
藤夜がそっとかけてきて、鈴を覗き込む。その表情には不安と心配の色が見える。あどけない瞳が、渦中の男と同じ輝きを持っていることが、たまらなく愛おしくて、同じだけ苦しい。さっきまで熱を帯びていた指先が、明け方の井戸水へ両手を入れた時のようにみるみる冷えていく。
「大丈夫よ。ちょっと……思い出しただけだから」
「ぼくが……あの兄ちゃんが父ちゃんだったらって言ったのはさ」
「藤夜」
小さく静止する。これ以上、彼のことを思い出したくはない。けれど――
「だってさ……母ちゃん時々、夜、ひとりで泣いてるから」
幼い息子の観察力に、鈴は凍りついた。
「ぼくじゃ、止められない。母ちゃんは、どうして泣いてるのかも教えてくれないし。でも――」
藤夜は胸に手を当て、紺の着物をぎゅうっと握る。鈴の想いを知ってか知らずか、藤夜は息を大きく吸い込んで、鈴の方を見つめた。
「兄ちゃんだったら、止められる気がするんだ」
そのあまりにも無垢な言葉に、鈴の細い喉が閉まる。息が、うまく吸いきれない。
(やめて、そんなふうに言わないで――)
好きで離れたわけじゃない。あの夜、自分を呼んだ声の甘さも、触れ合った温度だってすぐに思い出せる。全部、ただ蓋をして隠し続けてきただけなのだから。空気を堰き止めていた喉が、かっと熱くなる。目元はじんじんとして、こらえていた感情が一気に溢れ出た。
そんな鈴を見て、富子と一恵はそっと目を伏せた。ふたりはいつもの冗談を飲み込むと、ただ静かに席を外した。
「母ちゃん……泣いてるの?」
「泣いてないわよ……藤夜が、変なこと言うから」
「変じゃないよ。本当のことだもん」
(……お願い。これ以上、踏み込まないで)
まっすぐすぎる、その瞳が痛い。恋しさも罪悪感も、全部まとめて見透かされいるようで、鈴は痛む胸の上で手をぎゅっと握った。
◇◇◇
昼下がりの店は、客足が途切れていた。
末広亭の表の通りから、乾いた足音がひとつ、静かな店内へ近づく音がする。暖簾の奥で、柳の枝が大きく風に揺れている。
(まさか……)
胸の奥が、痛いほど跳ねる。彼であって欲しい期待と、まだ会いたくない葛藤。
心の奥で、まだ言葉にできない祈りをした後に入ってきたのは、見覚えのない男だった。くたびれた羽織に、丸めがね、地味な縦縞の袴。歳は四十といったところだろうか。白髪混じりの髪はきちんと撫でつけてある。仕事帰りの職人か、どこかの店の番頭か。そう思うような風体をしているけれど、どこか警戒しているような空気を纏っている。
「あっ、いらっしゃいませ」
鈴は慌てて立ち上がり、いつものように笑顔を作った。心臓はまだ、あの人を待っているようで落ち着かない。けれど、客の前で動揺を見せるわけにはいかない。
「藤夜、富ちゃんと一緒に皿洗おうか」
空気を読んだ富子が、そっと声をかける。すぐに富子とふたり、水音に混じって屈託のない笑い声が響き、鈴の張り詰めた心をほんの少しだけ和らげた。
(助かった……)
正直に、胸を撫で下ろす自分がいる。今彼に出会ってしまったら、喜怒哀楽の全てがぐちゃぐちゃになってしまいそうだ。
「一人なんですが、大丈夫ですか」
「ええ、どうぞお好きな席へ」
男は店内をぐるりと見回し、炊事場や奥の座敷へと視線を滑らせてから、入り口近くの席へ腰を下ろした。背筋はしゃんとしていて、姿勢がいい。
「ここは……何がおすすめで?」
「普段ならきつねうどんを召し上がっていただきたいんですが、生憎その、切らしてしまっていて。かけうどんなら……」
「ああ、ではそれで構いません」
あっさりとした返事が返ってくる。だが、その目は鈴の顔と店内の隅々をじっとりと観察するように動いている。鈴はその違和感を飲み込んで、いつも通りに頭を下げた。
「ではかけうどんをひとつ、お持ちしますね」
前掛けの埃を払って、大鍋の前に立つ。出汁の香りはいつもと変わらない。けれど、背後からの視線が刺さるように痛い。
湯気の向こうで、男は腕を組んだり、壁に飾った掛け軸を眺めたり。なんだか落ち着かないようにも見える。その手元から白い紙片がひらりと落ちる。拾う間もなく、男は足でそれを隠した。
(なんだか、不審?……いいえ、いつも通りのお客様よ)
自分に言い聞かせながら、麺を湯からあげ、どんぶりへ出汁を注ぐ。刻んだネギとかまぼこをいつもより少しだけ多めに乗せて、かけうどんの寂しさを誤魔化す。一人膳へ乗せて運びながら、鈴は努めて明るく声をかけた。
「お待たせしました、かけうどんです」
「ああ、この匂いは……ここの匂いでしたか」
男は湯気を吸い込むように目一杯呼吸して、ふっと目を細めた。
「この辺りを歩くたびに、どこの出汁の匂いだろうと思っていましてね」
「そう、なんですか」
「ええ。近くの長屋連中に聞いて、ようやく来られました。働き手の未亡人がいるって話も、本当のようだ」
未亡人。その言葉はもう何度も聞き慣れているはずなのに、今だけは違う重みがある。誰からその話を、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、鈴は曖昧に笑った。
「ええ、近所の皆さんにも、いつも助けられています」
「そうですか」
男は穏やかな笑みを浮かべる。厚い眼鏡の奥には、何かを静かに計算しているような不気味さがある。それ以上、男は余計なことを言わず、残りのうどんを淡々とすすった。丼の中身が減るにつれ、張り詰めていた空気がじわじわと濃くなっていく。
(何を、探っているの……?)
普段の客にしては、無駄な仕草や物音がない。箸の持ち方ひとつ、座り方ひとつで、小さな違和感が積み重なっていく。それはどことなく、本宮の座敷で見かけた隠密達の所作を思い出させた。
「ごちそうさまでした。本当に、美味しかったです」
懐から紺色の巾着を取り出し、勘定をぴたりと置く。代金より少し多めな額を鈴が返そうとすると、男は「また来ます」と鈴の手を静かに抑えて、席を離れた。
「えっ」
「今度はおあげのある日に、伺いますよ」
男は頭を軽く下げ、暖簾をくぐって出ていった。足音が完全に遠ざかるまで、鈴の心はぐらぐらと揺れて落ち着かない。柳の隙間から差し込む光が、静まり返った末広亭の床に揺れている。
(違う。あの人じゃ……なかった)
心のどこかでほっとしている自分と、男の違和感へ静かに警鐘を鳴らしている自分。そのふたつが胸の中でせめぎ合う。鈴はそっと胸元を押さえた。
あの男が、ただの客で終わればいい――そう願いながら。




