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【完結】執着九尾様は逃げた妻子を愛し抜く〜十年越しの寵愛は息子から〜  作者: 汐瀬うに


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8話 悪夢と悪魔

みなさま、明けましておめでとうございます( ˶ˆ꒳ˆ˵ )


今年はぼちぼちムーン連載も再開したい気持ちで書き溜めております。

本年もどうぞよろしくお願いいたします!

 明くる朝、瀬川稲荷神社には、焦げた紙の匂いがゆらりと漂っていた。

 人型の薄曇りが中庭から屋敷を覗くも、見えない何かに遮られ、それ以上近づけないままぼんやりと去っていった。

 


 廊下の奥から、しゃんしゃんと多くの鈴を鳴らしたような笑い声が、まだ朧げな意識の伊織の耳元を掠める。

 

 ――鈴様、昨晩はずいぶんとお楽しみで

 ――あのお方にたっぷりと愛された顔をされておりますわね

 ――お身体に障はありませんこと? ふふふ


 嘲るような声に、思わず布団で耳を覆う。目を閉じたまま横へ手を伸ばすけれど、その指先に触れたのは冷えたもうひと組の布団だけ。腕の中にいたはずの温もりがいつの間にかすっかり消えていることに気づいて、伊織は先ほどの声の矛先を予感した。


「……鈴」


 呼び止めても、声は高い天井に吸い込まれて、返ってこない。ぼんやりとしていた意識を横から殴られたような衝撃に襲われ、伊織ははっとして障子を勢いよく開いた。


 結界の外、白い霧の中へ、鈴の愛しい香りが消えている。


 どこへ行った。なぜ一人で外へ出た。胸の奥を焼くような焦燥感が、急激に満ちていく。囃し立てていた眷属を呼び出して追いかけるよう指示したけれど、結局鈴の行き先は分からずじまいだった。


 ――まぁ、照れてお逃げになられたのかしら

 ――おかわいいお嫁様ですこと

 ――残されたお館様がお可哀想ですわね


 伊織は、好き勝手に笑う三匹の首根っこを掴み、そのまま真砂土へ叩き落した。軽々と着地した態度すら癪に障る。


「今すぐ探してこい! あれは俺の嫁だ……誰にも渡す気はない。見つかるまで帰ってくるな」


 叫んだとほぼ同時に、景色がぐにゃりと波打つ。白い霧も、大輪の藤が咲いていた屋敷も――全てが混ざり、遠ざかっていく。


「……鈴っ!」

 

 そこで、伊織は跳ねるように目を覚ました。夜凪のように静まり返った空気の中、掌には深く爪の跡が残るほど力が入っていた。

 

 洗い呼吸を整えながら、伊織は額に手を当てる。こめかみに流れ落ちる汗は、夢の続きのように冷たくて、どろりとしている。胸の奥に沈むのは、怒りでも、悲しみでもない。ただあの時と同じ、喪失の痛みだけ。


 はあ、と息を吐いたところで、不意に伊織の鼻がぴくりと動いた。警戒しろと五感が囁く。遠くで紙の焦げる匂いがする。人の悪意、憎悪のような――鍵覚えのある浅薄な匂いが混じっている。


「……本宮か」


 低く呟いた声の奥で、十年前よりもはるかに濃く、熱い怒りが沸騰する。九つの尾がざり、と床を撫でた。 

 

(今度こそ、二度と奪わせん)


 黎明の瞳が細く、鋭く、獲物を狙う。夜明けは、すぐそこまで迫っていた。

 

◇ ◇ ◇


 目の向きが揃った畳の上へ、まばゆい朝の光が差し込む。本宮家の奥座敷には明け方だというのに多くの男たちが出入りしていた。


 立派な香炉からは怪しげな甘い香りの煙りが立ち上り、周辺には燃えさしの札がいくつも散乱している。黒相続の男たちの中心で、細身の若者が頭を抱えていた。


 「また、失敗か……」


 白扇をぱたんと畳む音が、部屋を切り裂く。

 淡く波打つ茶髪が揺れ、優美な顔立ちが朝日に照らされる。しかしその目元には深い隈が刻まれていて、血走った瞳は狂気に燃えていた。側に支えていた男たちは、一斉に地へ額をつけた。


「い、いえ、まだ未完成というだけで……!」

「必ずや終わらせてみせます……っ!」


 冷たい笑みを浮かべた男は、己の掌を扇で叩き続ける。自身の掌が赤く腫れ上がっても、その手を止めることはない。

 

「言い訳など聞いてはいません。"未完成"という事実だけが問題なのですから」


 その声は柔らかく、子どもへ言い聞かせるような口ぶり。けれど、その柔らかさの奥に潜む感情が、男たちの背筋を粟立たせる。しかしすぐに「失礼します」という小さな声がその空気を遮った。男たちはすっと小さく息を飲み、硝子戸の先に座る声の主を見つめた。


「れ、怜司様……大旦那様がお呼びです。お弟子さんにお茶の稽古をと……」

 おずおずと申し訳なさげに現れたおさげ髪の少女に、怜司は一瞬で優しい微笑みを向ける。

「驚かせてしまいましたね、すぐに参ります」

 その笑顔は、完璧な師範の顔をしていた。

 

 けれど。

 去り際、怜司の影が側の男に重なり、口元がさらりと動いた。

「狐の始末すら出来ないのなら、あの女を連れてきなさい。……必ず、生きたまま」

 黒装束の男の肩へ、言葉と同時にそっと置かれた手は、氷のように冷えていた。


「次の贄を作らなくてはいけないからね」


 その微笑みは、丁寧で、優雅で、隙がない。細く落ちた声に、男たちは息を呑む。怜司はその反応に気づかないふりをして、若草色の着物の袖をさらりと翻した。そして、何事もなかったかのように下女の肩へ軽く手を添え、優雅な足取りで廊下へ進み出た。


 「今日は煎茶にしましょうか。お茶はね……」

 不意に振り返った怜司は、跪いたままの男たちを一瞥して、言葉を続ける。

 「"濁り"を嫌うんですよ」

 口角を上げつつも目元の笑っていないその笑みが、座敷にいた全員の心臓を凍り付かせた。

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