「ふん、可愛すぎる女……」ど、どうも。
たとえば一度も会ったことがない人と婚約が決まるなんてことは、不思議でも何でもない。
伯爵令嬢クロエ・ノットは、もう二十五歳だからだ。
時の流れの速さについて、彼女は考えずにはいられない。ついこの間まで学生のつもりで、今でもときどき教室にいる夢だって見るのに、卒業してから何年と指折り数えようとすると、いつの間にか片手では足りなくなっていた。だからと言って、特に焦りがあるわけでもない。寝て起きて食べて、それなりに仕事をしていれば、大抵のことは気にならなくなるものだ。
と思っているのは本人ばかりで、両親は焦っていた。
というわけで、婚約者と顔合わせということになった。
幸いにして、仕事の出張ついでに寄ることもできる場所だ。王国はそれなりに広く、馬車に乗っているだけでも疲れる。領地から馬車に揺られて三日半。先に仕事を済ませてから、クロエは付き人たちに連れられるがまま、侍女に身だしなみを整えられるがまま、出張先の隣のやたらに派手派手しい色に塗られた煉瓦作りの建物に吸い込まれていく。そして考えている。
いよいよ年貢の納め時というやつが来たのかもしれない。
当たり前のことではあるが、新しいことを始めるときというのは緊張する。今の生活に不満がないならなおさらで、特にクロエはその例外ではない。というわけで、沈鬱というほどでもないがウキウキというほどでもない。強いて言うなら地味目で気が合って私の人生に何の影響も及ぼさない人がいいなあと、他者にも人生が存在しているということを完全に無視した失礼極まりないことを考えて心を安らげていた。
扉を開けると、そんな図々しい期待は粉々に砕けてなくなる。
随分と両親は張り切ったらしい。
黒髪の、いかにも気の強そうな美丈夫が椅子に腰かけている。
それほど背が高くないのかと思ったら、立ち上がると見上げるような背丈だった。切れ長の目だの整った鼻だのいちいち挙げていくまでもなく、大抵の人間が一目見て「ああ、美形ですね」「それも派手な方の」と結論付けることだろう。クロエは「ライオンみたいだな」と思っている。
ライオンみたいな人と暮らすのは疲れそうだな、と思う。
声に出すほど失礼ではないから、クロエは微笑んでこう挨拶をする。
「お初にお目にかかります。クロエです」
返事がなかったので、「おや?」と嫌な予感がした。
お相手はグリーダス侯爵家当主、ディラン・グリーダス侯爵だ。
自分より少し年は下だと聞いている。グリーダス侯爵家は、ノット伯爵家よりもかなり大きい。それでいてこの出で立ちなら、普通に考えればお相手には困らない。だからこの婚約に辿り着くまでの道筋は大枠でふたつ考えられて、のんきな娘を心配した両親がものすごく頑張ったか、ディラン・グリーダスに『お相手に困ってしまうような欠点』があるか。
たとえば、すでに愛人がいるとか。
お前を愛することはないとか言われたらどうしよう、
「ふん、可愛すぎる女……」
という心配をよそに。
婚約者の第一声は、それだった。
「……ど、どうも?」
クロエは自分で自分の第二声を疑問に思った。これでいいのだろうか?
わからないが、会話は進んでしまう。ふん、ともう一度ディランは言った。そして手を差し出してきた。差し出し返すと、ぐっと力強く握手をされる。
「グリーダス侯爵家の当主、ディラン・グリーダスだ。できれば本邸の方で挨拶をしたかったが、時期が悪くてな。こんなむさ苦しい場所での初対面になったこと、お詫び申し上げる」
実際、むさ苦しいかむさ苦しくないかで言ったら、むさ苦しい場所だ。
部屋にいるのは、別にクロエとディランのふたりだけではないからだ。どうやらグリーダス家の者らしい騎士たちも居合わせている。類は友を呼ぶというやつなのか、彼らもどことなく派手な顔立ちをしていて身なりは整っているけれど、騎士は騎士だ。それも繁忙期。何事にも限度というものがある。
「いえ、お忙しいところ時間を取っていただいて光栄です。それに、私も職場と近くて助かりましたから」
「ふん、そうか……」
ディランはぎらりとした鋭い笑みを浮かべて言う。クロエがちょっと面食らってしまうような圧があり、ついさっきの第一声は気のせいだったような気もしてくる。
何はともあれ、と彼は言った。
「しばらくは仕事でこちらに滞在するのだろう。俺の方でも暇な時間があれば会いに行く」
「え、ええ」
向こうもこちらのスケジュールは把握しているらしかった。握られっぱなしの手をいつ離せばいいのか考えながら、クロエは相槌を打つ。
どうぞよろしく。
ふん、と彼は頷いた。
◇
「ああ、良くなりました……! ありがとうございます!」
大袈裟な感謝の言葉に微笑みながら、「まだ治り切ってはいないので少なくとも今日中は安静に過ごしてくださいね」ということをよく言い含める。
それがクロエの仕事だった。
魔法を活かして何らかの職に就いている人間というのは、男女問わず、また平民貴族を問わずそう少ないものではない。特にクロエは王立学園で魔法課程を修めているから、その一番わかりやすい例と言っていいかもしれない。
もっと楽だったり、見栄えのする仕事は、いくらでもある。
と、彼女は知っている。
たとえば銀行の魔法金庫番なら、貴族としての信用を活用しつつ顧客を開拓できるし、おおむね遠くに出張に行くこともなく、王都の一等地でのんびり暮らすことができる。あるいは舞台歌劇の演出担当に就けば、その卓越した魔法技術を見せびらかして、一端の芸術家として社交界に名を轟かせることもできる。王都にある商会のどこに行っても、商品冷凍・冷蔵の技術を持っているだけで、一年の半分以上を眠りこけて暮らすことだってそう難しいことではないだろう。
だからクロエは、この仕事を選んだ理由に関して、ある確固たる理由を見つけている。
何となく性に合いそうだったから、だ。
意外にそうした形で生涯の職を決める人間というのは、そう少なくはないのではないかとクロエは思っている。卒業を控えた学園の最終学年。次々と同級生たちが進路を決めていく中、クロエは不思議と周囲に「将来は対魔獣騎士団の治癒師になる」という人間が多くいることに気が付いた。クロエは人間関係で無理をしない。気が合った人間と、さりげなく連帯をする。だから思った。ということは、その『対魔獣騎士団の治癒師』とやらになれば、今自分の周囲にいるような性格の人間が多数いて、自分はやはり無理なく過ごすことができるのではないか。
仕事というのは何事も、人間関係がその過半を占める。
結論から言って、ベストな選択だった。
「あら、もうおしまい?」
「今の方で最後ですね。お疲れさまでした、クロエ様」
そう言って治療用の白衣を取ってくれるのは、侍女のリーナだ。彼女自身は魔法が使えるというわけではないが、生来旅行好きの性質だそうで、クロエの治癒師としての出張にも嫌な顔ひとつせず、何なら嬉々としてついてきてくれる。
「昨日から続いて、随分と少ないのね。繁忙期なのに」
「ですね。治癒師の出張がクロエ様おひとりだって聞いたときは、いくら何でも協会もクロエ様に頼りすぎだと思いましたけど」
クロエは、治癒師協会という団体に所属している。非営利の王立団体で、王国内であれば領地のどこそこを問わず、魔獣に対抗して傷付いた者たちの傷を癒すため、数多の治癒師を抱え、各地に駐在させ、ときに派遣している。
クロエは齢二十五にして仕事一筋、とっくにその治癒師の中でも〈上級〉とされる職位まで登っている。技術的にも脂が乗ってきて、現場の総監督も任されるようになったころだ。それでも流石にたったひとりでの派遣任務は初めてのことで、少し身構えていた。
それが、午前中のうちに手が空いたので拍子抜けしてしまった。
「クロエさん」
脱いだ白衣の処理をリーナが済ませてくれて、さて、と周りを見回したときのこと。診察控室の向こうから、駐在の治癒師が顔を出した。ああ、とクロエは頷く。
「他に何か仕事がありますか」
「いえ! 夕方ごろに騎士団が戻ってきますので、それまでは手すきです。食事の用意ができているので、よければご一緒にと」
ではお言葉に甘えて、と連れられていくことになる。
衛生管理はしっかりした場所だから、しっかりと着替えて、手を洗ってうがいをしてからの話だ。クロエは治療院の渡り廊下の先にある食堂に通される。駐在の治癒師が十名に満たないにもかかわらずそれなりの大きさの場所だったけれど、それを言うならそれ、クロエの実家の食堂だって家族の数に比べて圧倒的に広い。それに何も、治療院は治癒師だけで回っているわけではない。事務方もいればクロエのように緊急で派遣されてくる治癒師もいるわけで、いざというときを考えれば広いに越したことはないだろう。
今がいざという時なのかには、疑問がある。
「暇ではないですか?」
単刀直入に切り出すと、駐在の治癒師――ラッカメイと名乗った四十周りの女性――は丸眼鏡の奥で目を丸くして、二重丸になった。
それから、あはは、と声を出して笑った。失敬、と咳払いもした。
「流石はお若くして〈上級〉の先生ですね。あのくらいでは、物の数にも入りませんか」
「というより、本部派遣は忙しくて手が足りないところに回されるのが常ですから。そのあたりはあなたもご存知なのではないですか。職歴では、駐在よりも派遣の方が長かったかと思いますが」
ラッカメイの表情に驚きが浮かぶ。もちろんクロエは、仕事の大部分を人間関係と見ているような人間だから、派遣先のスタッフの経歴くらいは一通り頭に入れてきている。だからこうも言う。お互い普通に話しましょう。いちいち煩雑ですし、いざというとき報告相談に問題が出る。……こういうことを言って、素直に受け入れてくれそうなタイプかも、事前に予想をつけている。
「では、お言葉に甘えて」
予想通り、ラッカメイは微笑んだ。お互いの間にあった壁を、一枚取り払ったように。
「でも、不思議ですね。そこまで細かく派遣先のことは調べ上げているのに、ここの怪我人が少ない理由はまだ掴めていないんですか?」
「というより、数字を見てきたからこそ疑問なんです」
パンとシチューは、なかなかの出来だった。
外で働く貴族の中でも、特にこうした現場仕事に携わる者は、あまり身分の上下を気にしない。クロエもその例に漏れず、ラッカメイとリーナのふたりと同じテーブルで、同じものを食べ続けている。大体、忙しくなってくれば治癒師に『ひとりでゆっくり食事を』なんて余裕はなくなる。食べられる時間と場所とものがあるだけありがたい、くらいのものだ。
「グリーダス侯爵領は領地が広く豊かである一方で、魔獣の発生数も他領と比べて多くなっていますよね。負傷者の減少傾向は確かに報告書からも見て取れたんですが、どうも極端なような……」
「若獅子様のおかげですよ」
まるで常識のひとつを話すように、ラッカメイは言った。
若獅子。その言葉にクロエはきょとんとしてみるけれど、何となく心当たりはないでもない。ラッカメイは気楽にスープを口に運びながら、こうも続ける。
「張り切っておられますから」
◇
「……あのォ~」
森の中だ。
グリーダス侯爵領は広く、たったひとつの街で構成されているような場所ではない。時には馬に跨り、馬車に乗り、深い森を横断して行商が移動することもある。
だから当然、そこに現れる魔獣の間引きもまた、この地を治める領主の仕事だ。
「ご当主様に先陣を切られてしまうと、我々騎士の立つ瀬がないんですがね~……」
「む」
と言っても、流石に剣を手に真正面から突撃する領主というのは、家の歴史を振り返ってみてもそれほど多くはない。最初と、それから最新のくらい。
最新の領主ディラン・グリーダスは、巨大な魔獣の前でひとり剣を納めた。
一刀両断。当の本人は、傷ひとつない。
「すまん。張り切りすぎたな」
「そう素直に謝られても困るものがあるんですが……」
そんな彼に苦言を呈しているのは、護衛騎士のレイハルだった。たれ目に金髪、少し軽薄にも映るような華やかな容姿の彼だが、今この時ばかりは、困り果てている。
それでも彼はディランの古馴染みということもあり、今日この場にいる騎士の中では比較的口が出せる方だ。だから騎士たちを代表して、言う。
「ご当主様が大変お強いというのは我々しもべ一同も心の底からよくわかっているんですが、正直なところ俺以外のみんなは『いくら何でも浮かれすぎてんな~』『春になったら急に咲き誇って可憐な花か何かかよ』と陰でコソコソ悪口を……」
「おい何言ってんだ!」
「ディラン様、違いますよ! こいつが言ってます! こいつが勝手に!」
「本当に、こいつらご当主様の見ていないところでは最悪で忠誠心のかけらもないので、全員減給してその分俺の給料を上げてもらえると……」
そしてレイハルは軽薄に映るだけではなく実際に軽薄なので、その過程で要らない混乱を引き起こす。
仲間の騎士たちにどつかれ、しばかれ、馬にすら体当たりされるような古馴染みを前に、しかし、
「そうか。わかるか」
ディランは、彼を蹴ったり殴ったりはしない。
ただ無表情のまま、小さな犬くらいなら片手で持ってしまいそうなほど大きな手のひらで、その口元を覆った。
「…………」「…………」
それを見て、騎士たちは止まる。レイハルが今度は、別の意味で小突かれる。お前行け。え~、俺すか~?
「許せ。浮かれてしまうのも仕方あるまい」
「自分で語り始めましたよ」
「仕事のついでとはいえ、女神がこの領に来てくれたんだ。俺だって、多少は高揚する」
そう言って、ディランは遠くを見つめる。試しにレイハルは、ディランの隣に立って同じ方向を見てみる。特に何もなかった。おそらく、と心の中で結論づけてみることにした。例の愛しの婚約者様のことを考えているんだろう。耳が腐るほど聞いた。本当に腐っては困るので、他の騎士たちは我関せずと帰り支度を始めている。
「いや、じゃあもう少し嬉しそうな顔をしてみたらどうですか?」
しかし、ここでしっかりと物申せるのが忠義の証なのだとレイハルは考えていたのかもしれない。あるいは、何も考えていなかったのかも。
「昨日のあれ、多分全然伝わってないすよ」
「!?」
それがかえって、ディランの胸に響いた。
「昨日の……あれと言うと……?」
「いやあのふんすふんすか言ってたやつですよ。何でしたっけ。『お前、可愛すぎ♡』とか何とか――」
「ばっ、やめろお前!」
「せめてふたりきりのときにやれそれ!」
騎士たちがレイハルを羽交い絞めにして、口を塞ぐ。それをしっかりとディランが見ている。ディランと騎士たちは目が合う。騎士たちは愛想笑いをして三秒、ディランの顔貌の圧に負けて、すすす……と引き下がる。
レイハルの口が自由になる。
「ご当主様は、顔が怖いです。美しくはありますけど、系統として」
「!」
「そんで多分今は驚いたんだと思うんですけど、付き合いの長い俺でも『多分』がついちゃうくらいには気持ちが表情に出ません。クールで鉄面皮で最強の男って、上司としては本当に頼りがいがありますが……」
「が?」
「恋人としてはちょっと、意味不明です」
意味不明。
その言葉を、どうやらディランは深く受け止めた。腕組みをした。瞑目をした。深く息を吐き、
「よし」
やたらに低い、威嚇めいた声で言った。
「意見を述べてみろ。騎士レイハル」
「普通にあんな高圧的な言い方じゃなくて、やわらかい感じで喜びを表現して距離を近づけていったらいいんじゃないですかね」
「どういうものだ?」
「え~……?」
レイハルは首を傾げる。何かを考える。それから、何も考えなかったに等しいような案が出てくる。
「わーい、みたいな」
◇
「わーい……」
「え?」
クロエがディランと次に顔を合わせることになったのは、二日後、昼のことだった。
魔獣狩りは連日連夜に行われるようなものではない。だからその二日後が、ちょうどもう一度の騎士団の出動後――それほど多くはない怪我人の治療を終えて、クロエは食堂に昼食を摂りに来たところだった。
そうしたら、ディランも食堂にいた。
珍しいことではない、とクロエは知っている。治療院と騎士団は一体になって仕事をすることも多い。それでいて食事だけは別のところでとわざわざ他人行儀になることもない。実際、厨房にはいつもの治療院のスタッフだけではなく、ディランが率いる騎士団の面々も混じっているように見えた。
珍しいのは、ディランの口から出てきた言葉の方だった。
わーい。低く唸るような声に、クロエはしばし考え込んでしまう。考え込んで、それらしい結論を出してしまう。
そういう挨拶かな。
「わーい」
とりあえず笑って、手を振って返してみた。
ディランは顔を伏せた。わあ失敗したかも。クロエの心に不安の影が差すが、あまりそういう不安が長続きしない性質だ。すぐに切り替えて、
「お疲れさまです。ディラン様もこれから食事ですか?」
「ああ」
「では、差し支えなければご一緒しても?」
特におかしな提案ではなかったはずだ。
婚約者なのだから。特にトラブルがなければそのうち結婚することになっているのだから。そういえば考えるのが面倒でつい後回しにしてしまっていたけれど、結婚後の仕事はどうしよう。別に貴族が派遣治癒師の仕事を続けることは珍しいことでも何でもないが、領主や領主夫人の仕事と並行してというのはスケジュール的に無理がある。以前から管理職登用の打診を貰っているけれど、それを受けて地方支部の要職に就くのがよいか、あるいは今の現場仕事を続けたいなら駐在治癒師にスライドしていくのがいいか。とはいえ領主夫人が駐在治癒師を兼ねる形は前例としてどのくらいあるのだろう――。
ついでにそんな相談をしてみてもいいかもしれない。
そう思っているのに、そもそも返事がない。
「……ディラン様?」
「全っ然大歓迎です!」
なぜか、隣にいる騎士が代わりに答えた。
レイハルと申します、と彼は名乗った。護衛騎士でディラン様とは古い付き合いなんですよハッハッハ。あ、失礼しましたどうぞこちらの席へ!
レイハルが立ち上がり、椅子を引こうとする。
なぜかディランがそれを押しのけて、手ずから椅子を引いてくれた。
「座るといい」
「……はい」
気持ちとしては、「はあ」という相槌の方が近かった。
普段であればカウンターまで自分で食事を取りに行くところだが、そこは流石に領主様とその婚約者様の席だ。騎士たちが甲斐甲斐しく働いて、ふたりの分の食事を運んできてくれる。
その間、ディランは一言も話さない。
寡黙なのだろうか。見た目のイメージからそれほど外れていない彼の振る舞いに、クロエは少し納得しつつ、自分から話題を振ることにした。
「素晴らしい剣の腕だそうですね」
話題の提供源は、つい先日の駐在治癒師ラッカメイとの会話だ。
「ディラン様が侯爵位を継いでから――というより、魔獣狩りの責任者となられてから、この治療院に運ばれる負傷者の数は激減していると聞きました」
「…………ふん」
「大変頼りになられる領主さまがおられて、領民も心強いでしょうね」
「お前は鏡を見て自分の価値について考えたことがないのか?」
バン、とすごい音がした。
クロエは驚く。目を丸くする。どこから音がしたのかわからなかった。下の方? テーブルの? 仕事中なら躊躇いなく屈み込んで確かめるけれど、婚約者と食事中の伯爵令嬢としてはそうもいかない。貴族というのは、何かと振る舞いばかりを気にして窮屈なことが多い。
「ああ、すみません!」
騎士レイハルが言った。
「靴紐が切れてしまったようで、すごい音が!」
絶対に靴紐が切れた音ではなかった。
が、レイハルの顔にこう書いてある。何も訊かないでおねがいおねがいおねがい。だからクロエは、言われた通りにしてあげる。あらまあ、と驚いた風にして口に手を当てる。
「大変。大丈夫ですか?」
「いやあ、靴紐がなくちゃ歩けません! ご当主様、失礼ながら予備の靴紐は持っておいでですか持っておいでですよねいやあありがたい貸してください今すぐにどうもありがとうそれじゃあちょっと失礼しますね!」
レイハルはディランの腕を掴んで引きずっていく。当然、すたすた歩きながら。
取り残されてひとり、クロエはにんじんのグラッセにフォークを入れて、口に運ぶ。もぐもぐと食みながら、そっと考える。
賑やかなところ。
◇
「どういうつもりなんすか!」
壁にドンッ!
レイハルは珍しく気迫に漲った表情で主君に詰め寄るが、肝心の主君は無表情のまま全く動じない。
「言ってみたが。『わーい』と。おかげで良いものが見れた。いきなり足を踏んできたのは許そう。褒美も取らす」
「いやそっちじゃ――え、マジすか?」
ああ、とディランが頷けば、やった、とレイハルは小躍りを始める。俺の仕事ってもしかしてちょろい? そしてひとしきり躍り切った後、正気に戻る。
「いやその後!」
訴えかける。
「なんすか、『お前は鏡を見て自分の価値について考えたことがないのか?』って! 流石にありえなすぎて引っ張ってきちゃいましたよ!」
「どのあたりがだ」
「全部だよ、馬鹿!」
馬鹿、の一言は流石にこの上下関係の中で許されず、レイハルは顔面をわしづかみにされた。みりみりと頭蓋骨の軋む音が聞こえる。あっ、ちょっと待って。レイハルは言うが、そう言って待ってもらえるものでもない。死が迫る。
「だ、大体あれどういうつもりなんすか! 傷付くでしょ、クロエ様も!」
「傷付く……?」
死が追いつく前に、ディランの手が離れた。
彼は怪訝極まりないという声色で訊ねる。
「何にだ」
「いやだって、」
死ぬかと思った、とレイハルはディランと距離を取りつつ警戒しながら、
「……あれ、どういう意味で言ってたんすか?」
「それはもちろん『鏡を見れば一目でわかるとおり、俺の剣の腕がどうこうよりもあなたがこの領に来てくださることの方が遥かに領民の支えになる』という意味だが」
「『もちろん』の後に要求される読み取りの水準が高すぎるだろ!」
いいすか、とレイハルは言う。
「まず、ご当主様は自分の顔が比較的人に威圧感を与えやすいということを自覚してください」
「うむ」
「そうなるとさっきの会話は、たとえば俺がその流れの中で言われたら『俺のことを褒めるのに必死なようだがお前自身はどうなんだ?』『努力しているのか?』『大して価値のない人間が俺の目の前に立つなど生意気な』『さっさと尻尾を巻いて家に帰り、泣きながら震えて眠れ』『というか今すぐくたばれ』という意味に取れます」
「お前……!」
ディランは目を見開いた。
「よくそんな恐ろしい上司のいる職場で健やかに働けているな」
「ええ。自分の忍耐強さに驚くばかりです」
真剣な顔でレイハルは頷いたが、この場に「こいつちょっとふざけ始めてますよ」と指摘してくれる他の騎士はいない。真面目な顔でディランも頷いた。
「そうか。だが、彼女にはそうは伝わっていないだろう。問題ないはずだ」
「どういう自信ですか」
「お前は確かに鏡を見て落ち込むに十分な理由があるかもしれないが――」
「もしかして俺のこと嫌いすか?」
「彼女が鏡を覗き込んだときに映るのは、彼女自身だ」
つまり、とディランは言う。
妙に堂々として、
「恥ずべき箇所も、欠点も、何ひとつとして見当たらない。これは俺の予想なのだが……彼女は、毎日鏡を見るだけで人生が幸福に包まれているはずだ」
「…………」
レイハルは、絶句した。
絶句したが、「何を根拠にそんな恥ずかしい妄想をクロエ様に押し付けられるんすか?」と訊いてしまうといつもの思い出話が始まるとわかっていた。だから彼は、驚異的な会話術を発揮する。よいしょ、とディランが自分との間に投げかけてきた会話を両手で挟む。よいしょ、とそれを脇にのける。
それはこっちに置いといて、
「もうちょっと柔らかい言い方を心がけましょうよ。何度も言うようですけど」
「そう思って婉曲な表現に変えたのだが」
「じゃあ俺が悪かったです。さっきみたいなこと言うくらいなら初日の『ふん、可愛すぎる女……』の方がよかったっす」
で、と続ける。
「そこをベースに改造しましょう」
「というと」
「まず、『女』はやめて『人』にしときましょう。ディラン様の声で言われると圧がありすぎます」
そうか? とディランは首を傾げて、
「学園にいたころに、こういう言い方が女性には喜ばれると学習したんだが」
「それはちょっと特殊な人たちが特殊なはしゃぎ方をしてただけです。一旦忘れてください」
うむ、とディランは素直に頷く。
「で、『ふん』もやめましょう。後ついでにクロエ様を『お前』呼ばわりするのもやめましょう。『君』とか『あなた』の方がいいです」
「表情は?」
「できれば笑った方がいいし、語尾の全部に『♡』をつけた方がいいんですけど、何事も急に全部やるのは難しいっていうか、人間何事も向き不向きはあるっていうか……」
ま、とりあえず、とレイハルは親指を立てて、
「今までのところだけ総合して、やってみましょう」
◇
「あなたは可愛すぎる人だ」
席に戻ってきて早々、これだった。
何の前置きもない。脈絡もない。だからクロエは恥をかかないように、一旦周囲を見回してみる。猫とか犬とか、そういうのが食堂に紛れ込んでいるのかもしれないという可能性の有無を確かめてみる。
猫も犬もいない。
というか、猫も犬も、人ではない。
「ど、どうも」
多分自分に言われたのだろうと結論づけて、クロエは頷いた。うむ、とディランは満足げに頷く。一緒に戻ってきたレイハル(なぜか多量の汗をかいて疲弊していた)も、同じく頷いた。
特にその先、何のフォローもない。
黙々ともぐもぐが続きながら、クロエは考えている。
そんなに察しの良い方ではない、と自分で思う。
学園時代は、確かにそういう機微を楽しんでいる人たちもいた。婚約が決まる前の、ちょっとした火遊びをしている同級生たちがいることも知っていた。けれど、別にその輪の中に参加していたわけではない。あまり興味もなかったし、友人といるだけで毎日楽しいのに、わざわざ将来的なリスクを背負ってまで恋の鞘当てに興じようという好奇心は、自分にはなかった。
恋。
そう、恋。
そんなに察しの良い方ではない。けれど、察しが良い方でなくともわかることはある。会ったのは今のところ、これで二回目。彼が中座する前と後とを別でカウントして数字を盛ってみたとしても、三回目。それでも、というより、だからこそ、目の前に座っている婚約者の不自然な動きははっきりと目につく。どういう意味を持つか、何となくわからないでもない。
「あの」
だから、訊いた。
「そんなに私の顔が好みですか?」
「ごほっ」
「あっ」
げほっ、げほっ、とディランが急に咳き込み始めた。あらら、とクロエは席を立つ。背中に回り込む。ちなみにその隣でレイハルにも同じことが起こっていてそっちも心配したけれど、彼は顔を覆ってそっぽを向いて、「こっちは大丈夫です」のジェスチャーをしている。だからクロエは、ディランだけに集中してその背を擦る。
「すみません、急に」
「い、いや……」
水を渡せば、すまない、と掠れる声で言って彼はそれを飲み干す。どんどん、と自分で胸も叩いている。とりあえず命に別状はなさそうだということだけ確認して、それからクロエは思う。
別に私の方から「すみません、急に」ではないな。
急なのはこの人の方だ。
「ど、どうして急に……」
こっちの台詞だ。
とは、クロエは言わない。突然動揺させて噎せさせてしまったことへの罪悪感もうっすらあるし、ほとんど初対面でそう気安くなることもできない。
そう、ほとんど初対面なのだから、
「いえ、会ったときからずっと『可愛い』と褒めていただいているので」
それくらいしか『可愛い』『可愛くない』の判断材料なんてないと思って。
言いながら、クロエは考えている。だったらどうなる? この人が――自分の婚約者が、自分の容姿をものすごく気に入っているとして。頭の中に天使の自分が現れて言う。いいじゃないですか。気に入られないよりは気に入られてた方がいいし、顔が好きだからという理由で様々な融通が利くかもしれませんよ。上目遣いの練習でもしておきましょう。悪魔の自分が現れて言う。へっへっへ。そうとも限らないぜ。顔だけ気に入って中身には興味がないタイプっていうのは、実際いざ付き合ってみるとこっちの考えなんか無視してひどい扱いをしてきたり、想像していたのと違ったなんて身勝手な理由で失望してきたりするんだ。今にひどいことになるぞぉ~、ひっひっひ。探偵の自分が現れて言う。待ちなさい。あなた、私の割には妙に恋愛に詳しいですね……。ぎくっ。さては私ではないな! 正体を現しなさい! ぐ、ぐわぁー!
「いや。容姿だけの話ではない」
ごほん、と咳払いをしてディランは言った。
咳払いとともに、天使と悪魔と探偵は去っていった。
「もっと総合的な話だ。そう思わせていたら申し訳ない」
「いえ、申し訳なくは……総合的?」
ああ、とディランは頷く。
「仕草や、」
ほう、とクロエは心の中で頷く。あまり自分の仕草というのは自分でわからない。どのあたりがツボに入ったのだろう。
「センスや、」
ほう、とクロエは心の中で頷く。センス。ここではおそらく服飾のことだろう。仕事のついでということもあり、婚約者相手の顔合わせにしてはやや大人しすぎる恰好をしていたと思ったけれど、どちらかというとああいうファッションが好みだ。気が合うのかもしれない。
「性格や、」
ほう、とクロエは心の中で頷く。それから首を傾げる。ん? そんな性格が伝わるほどしっかり会話なんてしたっけかな。いやでも、もしかしたら婚約の前段階で両親が必死にアピールしてくれたのかもしれない。うちの娘はもう二十五なんですが人の傷を治すことに邁進した結果であり、だからそういわば癒しの天使で――
「存在と」
ん?
「すべてと」
んん?
ディランは、いつの間にか喉に食べ物を詰まらせていたことなんて忘れさったような顔をしている。真剣な顔。しかし、さっきまで噎せていたせいで瞳が微かに潤んでいる。それが食堂に差し込む昼の日差しを受けて、水底の宝石のように輝いた。
「あなたは――」
ディランは、真っ直ぐにクロエを見つめて言った。
「可愛すぎる……」
今度はクロエは、右も左も見回さなかった。
とりあえず言葉を受け止めてみた。そして考えた。何ですかこれは。考えてみても、全くその答えが見つからない。目の前の婚約者が、何をどういうつもりでこういうことを言っているのかわからない。
困ったら、とりあえず微笑んでいく。
貴族令嬢らしい清楚な笑みで、クロエは答えた。
「嬉しいです。どうもありがとう」
おぉ~……と静かに騎士たちが空拍手をする。
◇
「あわわわわわ」
朝からリーナが埋もれている。
プレゼントの箱の海に。
この領地に来るとき、一度はクロエは「ぜひグリーダス家の本邸にご宿泊を」という誘いを貰っていた。けれど、丁重にお断り申し上げた。なぜと言って、仕事場から遠いからだ。ごんごんと朝から馬車に揺られて疲れ切って仕事をして、それから疲れ切った身体で遥々また馬車に乗り……というのは、流石に堪える。それに自分が本邸に泊まることになれば、同じくこのあたりで魔獣狩りを行うディラン侯爵も本邸を行き来しなければと気を遣うだろうし、一度はご遠慮申し上げて、帰り際に寄らせていただく形が互いにとって一番良いだろうと判断した。
というわけで、いま彼女がいるのは、出張治癒師用の宿泊所。
そこまで豪華というわけでもない部屋の中に、プレゼントボックスが溢れ返っている。
「お、溺れます~!」
「そこまでではないでしょう」
おどけるリーナに笑いかけて、実際箱と箱の間で身動きが取れなくなっている彼女の手を引く。それは、朝のあっという間の出来事だった。自分が目を覚ますと、リーナはすでに着替え終えている。出張中は起きる時間も寝る時間も同じくらいでいいと言い聞かせているけれど、今日のように騎士団に魔獣狩りの予定がなく、治癒師の仕事もないような日は、ただただクロエの起きるのが遅く、リーナの起きるのが早いために、こういうことになる。
寝ぼけ眼で、朝の支度を手伝ってもらう。
ひととおり整ったあたりで、ちょうどドアがノックされた。
はい、と返事をしたが最後。どかどかとプレゼントが運び込まれ、あっという間に大家族の引っ越し直後のような部屋が出来上がる。
試しにクロエは、その箱のひとつを開けてみた。
「ドレス……」
というより、普段着の方が近い。
カードが添えられていて、そこから贈り主の名を見て取ることもできる。予想していたとおりだ。ディラン・グリーダス侯爵から。メッセージはそっけない。『あなたに』――そっけないというか、書いている途中で息絶えたのではないかと疑わせる。
いくつか箱を開けてみる。
そして、身内の裏切りに気が付いた。
「リーナ」
「はいっ」
「あなたの仕業でしょう」
ドレスよりも普段着が多いのは、自分が高級なドレスを一着持つよりも、普段着のバリエーションを重視するタイプだからありがたい。しかしこれは治癒師のように出張が多く、また受け入れ先の負担にならないようにと荷物を極力減らす傾向にある職に就いているからという事情もあり、一般的な貴族はドレスの方を贈られることを好む。
クロエは、ディランにそうした自分の選好を打ち明けたことはない。
わざわざ一般的な贈り物から外してくるということは、情報の漏洩元がある。
「バレてしまってはしょうがありませんねえ」
悪びれもせず、何なら腕組みまでして大胆不敵にリーナは言った。
けれど、すぐにその手を解いて、
「といっても、私から『お嬢様にプレゼントを!』なんて図々しくねだったわけじゃありませんよ。相談されたんです」
ああ、とクロエが頷くと、ついでにリーナは言い訳をしてくれる。あ、でもでも直接ディラン様とお話をしたわけじゃありませんよ。ディラン様の使い走りの使い走りのそのまた使いっぱしりくらいの人にさりげなく訊かれたからさりげなく答えただけです。この従者は主人より早く起きる上に関係性への気遣いもできる。
いつもありがとう、と言えば「はい!」と満面の笑み。
実際、一番自分の好みに詳しいリーナが情報元だけに、嬉しいプレゼントがたくさんある。服はもちろんのこと、宝飾品も好きなタイプのデザインが揃っているし、今ここで渡してどうするというような調度品はともかく、珍しげな調味料なんかはリーナに渡せばすぐに使いどころを見つけてくれるかもしれない。お茶なんか、今すぐ飲んだって構わない。
ただ、お茶を飲む前に考えることがある。
ずっと解けない謎がある。
どうしてここまで、私は気に入られているんだろう?
◇
「お」
と廊下で行き会った騎士は目を見開いた。直後、「お」ではなかったと気付いたように背筋を正し、騎士らしく一礼し、微笑みかけてくる。
「クロエ様。ご機嫌麗しゅう」
確か、とクロエは彼の名前を思い出す。
騎士レイハルだ。
「ディラン様に御用ですか? 今でしたら、少し街の方に出てしまっているので、お待ちいただく形になりますが」
クロエが足を運んだのは、職場の隣にある騎士たちの宿泊所だ。一番最初にディランと会った場所でもある。そう、とクロエはレイハルに頷く。好都合です、とも言う。
「聞き込みに来たんです」
「はあ」
クロエの言葉に、レイハルは目を丸くする。というと、と訊かれるからクロエは答える。実は今日、ディラン様から様々な贈り物をいただいて。大変嬉しかったのでお返しをしようと思ったのですが、そのためにはディラン様が好きなものを知らなければいけないでしょう?
「それを近しい方にお聞きしたいと思って」
「なるほど!」
大きくレイハルは頷く。顔に喜びの色が滲んでいるからには、ディランはきっと自分の部下である騎士たちとも良い関係が築けているのだろう。主君の喜びは我が喜び。そんな忠誠心すら感じさせるような明るい調子で、レイハルは言う。ディラン様の好きなものですか。好きなもの、
「好きな……」
段々、彼の視線が一ヶ所に定まっていく。
目の前にいる、クロエに。
クロエが困って微笑むと、すぐにレイハルは自分の視線の意味に気付いた。ああいやいや。失敬失敬。少し考え込んでしまいまして。でもそうですねえ。そうだなあ。ディラン様のお好きなものって傍にいてもわかりづらいんですよねえ。ご婦人からのお返しとして何か適したものがあったかなあ。あるかなあ。何だっけなあ。
にゃあ。
と、声がした。
クロエはレイハルと、それから傍にそっと控えてくれていたリーナと一緒になってその声の元を見る。換気のためにと開け放たれた窓の桟に、一匹の動物が足をかけていた。犬ではない。にゃあと鳴いて犬だったらびっくりする。
「ねこ、」
とレイハルは不思議な声音で言った。
「とか、好きかもしれないですね」
そして、そう続けた。
へえ、とクロエは少しの驚きとともに相槌を打った。猫が好き。ちょっと意外かも。レイハルにもその気持ちは届いたのか、それともそうでもないのか。彼は続けて自分の発言の理由を、こう説明してくれる。だってほら、
「クロエ様との初対面も、猫絡みだってお聞きしてますし」
そうでしたっけ、と思いながらクロエは曖昧に頷く。
彼女が「もしかしてディラン様とは初対面ではなかったのかも」とようやく気付くのは、何とそれから三日も後になってのことだった。
◇
言い訳になるが、別に綺麗さっぱり何もかも忘れていたというわけではない。
薄情は薄情だと思うけれど、薄情すぎるというほどではない。本物の薄情だったら、そもそもこうやって思い出すこともできなかったはずだ。そう、クロエは思う。
でもやっぱり、こうして思い出した今になっても、この記憶とあの侯爵を一度で結び付けるのは無理だと思う。
学園の、二年生と三年生の境目の春休みの話だ。
そのときクロエは、てくてくと学内を歩いていた。大抵の生徒たちは長期休暇を帰省して過ごすけれど、たまたまそのとき、クロエは両親の予定と折り合いがつかなかった。ちょうどいいから新学年の予習と復習でもして過ごそう。学園は六年制で、だからクロエは十四歳。そのころ彼女は少しだけ人より大人びていて、「家に帰れないなんてかわいそう」「このぬいぐるみを私たちだと思って過ごしてね」という友人たちの気遣いが、何らかのおふざけではなく本気の心配だったのだと気付かずにいた。
散歩を満喫していた。
私たちだと思ってねと渡されたぬいぐるみは、部屋に置き去りにして。
学園のある王都は、春先の天気が非常によろしい。暑くもなく寒くもなく、涼しくて暖かい。雨が降ることはひどく稀で、空は澄み渡るような青色に染まっている。
風はそこそこで、だから花が舞って美しい。
満喫していたら、帽子が飛んだ。
「あら」
つば広の帽子が、てん、てん、と石畳を転がり始める。あらら、とクロエはそれを追いかけるけれど、ちょうど丸っこい形をしているのが災いして、車輪のようにころころ進む。段々クロエは諦め始める。今日は散歩をするつもりで来たのに、走らされて汗なんてかかされるようでは敵わない。心の中で別れを告げ始める。さようなら。いつかどこかでまた会いましょう。
「にゃあ」
そこで、猫が登場する。
学園の中には、猫が何匹か住み着いていた。自然に生息したわけではないはずだ、とクロエは見ている。だって、普通と比べてだいぶ太っているから。おそらく生徒たちが「ねこちゃんだ」「かわいいかわいい」とちやほやして餌やりしてくるのに味を占めて住み着いている。この状況には「にゃあ」が「に゛ゃあ」に聞こえるくらいに猫が太っていること等も含め様々な問題が秘められているように思われたが、とりあえずのところ当時のクロエの意識にその問題に関する気付きは訪れず、ただ目の前の光景だけが目に留まる。
猫が、たしっ、と帽子を掴まえた。
きっとクロエが純真無垢な令嬢だったらこう思ったことだろう。まあ、なんて賢い猫さんなんでしょう。助かったわ。そして童話の主人公だったらこう言った。ありがとう、賢い猫さん。あら、もしかしてあなた、私とお友達になってくれるの? とっても素敵! これから私と一緒にティータイムを……
しかし、現実のクロエはこう思っていた。
取られた。
そして悲しいことに、現実のクロエの方がずっと、純真無垢な令嬢や童話の主人公よりも推理力が高かった。
てってけてー。
猫は帽子をくわえて、走り出してしまった。
一歩も踏み出さないうちから、クロエは帽子の奪還を諦めた。学園でぬくぬく暮らしている貴族のお嬢様と、野生を生きる猫。どちらの足が速いかなんて、火を見るよりも明らかだ。無駄な努力はしない。効率的な努力をする。
夕方あたりに、もう一度散歩がてら、どこかに猫が帽子を落としていないか探してみよう。
見つけた。
それは、学園の中庭の背の高い木に、それこそ帽子掛けのように掛かっていた。
何度も言うようだけれど、春休みだ。中庭は学園の中でも特に暖かで美しい場所で、人気の高いスポットではあるけれど、流石にこの期間はほとんど人通りがない。朝から夕方まで、ほんの数人しかその帽子に気付かなくても不思議ではない。
クロエで多分、二人目だった。
一人目は、何と親切にも、ちょうどクロエが通りがかったそのとき、木に登って帽子を取ろうとしてくれていた。
こればかりは、クロエもはっきりと覚えている。目を閉じれば、瞼の裏にはっきりとその一人目の姿を思い出すこともできる。黒い髪の少年だった。当時のクロエから見てもはっきり小柄で、いかにも少年らしい丸いほっぺたをして、目だって月のように丸くて、美しい子猫のようだった。
で、登った木から降りられなくなっていた。
「…………」
「……ちがいます」
何が違うのかはさっぱりわからなかったが、目が合った少年はそう言った。
猫が木から降りられなくなるなら、その理由をクロエは理解できた。爪の向きの問題だ。上向きに行くときは木の幹に引っ掛けられるけれど、逆向きはそうはいかない。だからうっかり高い場所に行き過ぎてしまうと、降りられなくなる。けれど、と思う。人なら別に、登ったときと同じ要領で降りるだけなのだから、そう難しいことではないのではないか。
よく木を見る。
少年の掴まっている枝の根本が、折れかかっている。
なるほど、とクロエは思った。
大ピンチだ。
「お気になさらず」
と少年は言う。
線は細く、美少年と美少女の隙間くらいに入り込んだ彼は、きっと成長期もまだなのだろう。それでも状況の割にとても落ち着いた(落ち着きすぎている)話し方だから、クロエにはわかった。多分、高位貴族だ。それも跡取りとか、責任ある立場の。
「ただ単にこれは趣味で――」
そして大抵の場合、そういう子どもというのは自分の弱みを見せることをよしとしない。
すでにこの学園で過ごして二年が経てば、クロエもそのくらいのことはわかっていた。それが一過性のものであることも。一過性のそれを解くのが、この学園での楽しい生活であることも。
学び舎の友であれば、身分に上も下もない。
あるとすれば、後輩に対する気遣いくらい。
「そのままでいて」
クロエは、その木の傍に寄っていった。
そう難しいことではない。春休みに学校に残っているような生徒が、魔法のひとつも使えないわけがない。木に触れる。少しだけ、力を込める。
折れた枝が治っていく。
それが、少年にも見えたはずだ。
「もう大丈夫?」
訊ねれば、少年は帽子を手にするすると身軽に枝を降りてきた。
その動きを見ればわかる。元はきっと、自信があったのだろう。身軽な黒猫のような動きで、だからこそ見上げるような高さの木に登り、枝が折れたことでにっちもさっちもいかなくなってしまった。
降りてきた彼は、「生き恥を晒した」とでも言うような、いかにも多感な少年の顔をしている。
だからクロエは、言った。
「その帽子、私のものなの」
少年が顔を上げる。
「さっき、猫に持っていかれてしまって」
そう言えば、ゆっくりと彼は帽子を持ち上げる。
そっと、何かものすごく大切なものを扱うように、クロエに差し出した。
だからクロエは、それを受け取る。学園に入って二年。慣れた調子でそっとそれを受け取って、こう告げる。
「取り戻してくれてありがとうございます。勇敢な騎士様」
クロエからすれば、何気ないアルバムの一ページだ。
しかし思い出は思い出だから、その一ページを大事に大事に取っておいた人間が他にこの世にいたとしても、そう。おかしくはない。
◇
たとえば、こんな調べものがあった。
両親に手紙で訊ねてみたのだ。
今回の婚約のお話、実際に会ってみて私には不釣り合いなほどの良縁に思えたのですが、そんなに頑張ったのでしょうか。細かい文面は色々と修飾しながらも、クロエはそんな手紙を送った。こちらにいるうちの返事は期待していなかったのに、すぐに来た。「良縁」という言葉が効果的だったのかもしれない。今すぐ娘の背中を押して、あわよくばそのまま押し込んでしまえというように、父母からのすぐさまのお返事はこう。
そんなに頑張ったわけではありませんよ。
広くお声掛けさせていただこうかと思い立ってすぐ、向こうからのたってのお望みということで、こちらからお願いするまでもなく決まってしまいました。
後はこう、「よっ、憎いね!」だとか「いつの間に?」だとか「私は以前からあなたはとても素晴らしい娘だと思っていました」というようなことが書いてある。あらあらそうですか。手紙を畳んだその夜、窓から月を覗いてクロエは小さく息を吐く。
それならそうと、最初から言ってくれればいいのに。
他にはたとえば、こんな調べものがあった。
レイハルがある朝、珍しく怪我をして仕事場にやってきた。大して深い傷でもなかったけれど、すんすん泣いている。実を言うと俺は、心は強いんですが痛みに弱いんです。クロエは訊いた。それならどうして騎士なんて難儀な仕事を選んでしまったんですか。レイハルは答えた。いやまあ、周りがみんな騎士になるって言うから何となく……。共感を覚えたクロエは、かすり傷に消毒液を噴射してレイハルを絶叫させながら、ついでに訊いてみた。
ちなみにこれまで、ディラン様は他に浮いた話なんかなかったんでしょうか。
あれだけの美男子でいらっしゃるのに。
レイハルが最初に見せた仕草は、まずガッツポーズだった。それから意気揚々と説明してくれる。それが全く浮いた話なんてないんですよ。学園に通っていた頃はさぞかし女性の皆さんに人気があったと聞いていますし、今でも社交パーティなんかに同行すれば――クロエ様もご存知でしょうが――それはもう注目の的なんですがね!
でも、とクロエは訊ねた。
それだけ人気の方なら、どうして今までどなたも婚約者の方がいらっしゃらなかったのでしょうか。
「そりゃあ――」
そして、レイハルはじっとクロエを見る。
目が合うと、慌てた風に両手を振る。いやいやいや。こんなことは一介の騎士の口からはとてもとても。しかし何しろ、次期筆頭騎士を自認する私としてはクロエ様にはこう言わなければなりませんね。
騎士団一同、クロエ様を大歓迎です!
そしてたとえば、最後にこんな他愛のない話があった。
「でも、どうして?」
休日の夕方のことだ。街の雑貨店を見て回って、帰ってきた。一緒になって結構歩いたというのに、リーナはまだ椅子に座りもしない。代わりに、お茶を淹れてくれている。茶葉は擦り切れ三杯に、ミルクを少し。ティースプーンをくるくると回して、彼女は言う。
「そりゃあ、そういうことでしょう」
レイハルと同じこと。
「そうじゃなくて」
でも実のところ、このクロエの「どうして」は、レイハルに向けた「どうして」とは違う。リーナがテーブルにお茶を置く。隣に座って、と言えば隣に座る。
クロエが訊ねる。
「どうして今なのかなって」
学校から卒業して、もう何年が経っただろう。
同級生は、続々と結婚していった。両親が焦って勝手に結婚相手を探す年になった。別に、普通に働いて暮らしている平民から見れば、不思議な年齢じゃない。でも、貴族としてはちょっと遅い。
そんなに前から好きだったなら、どうして今になって?
まあ、とリーナは言う。
たった一言、的確に。
「待ってたんじゃないですか?」
◇
「お疲れさまでした」
とラッカメイが言う。
花束まで渡されて、拍手までされる。少し困った顔で、クロエは言う。
「一月程度の派遣でここまでしてもらうのは、初めてです」
「我々もここまでするのは初めてです」
正直に彼女もそう言うものだから、かえって気が楽になって、クロエは朗らかに笑った。
あっという間に、派遣の期間は過ぎていった。魔獣狩りの繁忙期は終わり。騎士団の規模の割には治療院は平和なもので、むしろ普段の診療所としての役割の方が大きかったように思う。
「でも、私たちも安心しました。クロエさんとはこれからもあるでしょうから」
ラッカメイが遠回しに言ったのは、あまりはっきり言ってこの場をこじらせないようにという配慮だろう。だからクロエも、ただ頷く。ええ。
「それに、私も次の派遣先が決まるまでは、少しこちらでゆっくりしているつもりですから。何か困ったことがあれば、呼んでください」
ぜひ、とラッカメイは頷く。ふたりで言葉を交わし合う。
どうぞ、これからもよろしく。
挨拶を終えて、治療院を出る。宿泊所に置いた荷物は、すでにリーナの手配で全て引き払っている。だから、向かうのは直接。
治療院の隣にある、騎士たちの宿泊所。
「こんにちはー」
リーナが先に立って、挨拶をしてくれた。
騎士のひとりがどたどたと奥から走ってくる。レイハルだ。ああどうもどうも。リーナも返す。どうもー。レイハルはクロエと目を合わせて、すぐに察する。ディラン様ですよね。ちょっと待ってください。呼んできますから。ああいやそうだその前に中に入って座ってお待ちください。おい誰かお茶!
座ってお茶を飲んでいると、背後に重たい空気。
振り向くと、リーナが暗い顔をしていた。
「どうしたの」
「いや……新しいことを始めるときって、緊張しないですか?」
それはそう、とクロエは頷く。はあ、と溜息すら吐くように、
「どうします? 私の仕事ぶりがへなちょこなばかりに、侯爵家でクロエ様も一緒に見くびられちゃったら」
仕事は終わり、自由な時間が訪れる。
というのは、平民の治癒師であればの話。仕事をしている貴族というのは、仕事の合間に貴族をやる。だからこれからクロエは、いよいよ仕事も終わり、ディランも身体が空いたということで、示し合わせて侯爵家に向かう。そこでしばらくの間を過ごして、関係者との顔合わせに励むことになる。
実はリーナの言う通り。
新しいことを始めるときは、緊張する。特にクロエも例外ではなく。
「そのときは……」
けれど、と彼女は思う。
「『ダメなメイドだこと!』ってリーナに全部押し付けちゃおうかな」
「えーっ! 庇ってくださいよぉ!」
そこまで言うなら仕方ない、と偉そうにクロエは胸を張る。それでほっとしたように、リーナも顔をほころばせる。それを見て、クロエも一緒に笑う。
新しいことを始めるときは、いつも緊張する。けれど、とクロエは思っている。彼女は人間関係で無理をしない。寝て起きて食べて、それなりに仕事をしていれば、大抵のことは気にならない。
だからまあ、何とかなるでしょう。
「すみませーん……」
コンコン、と扉をノックしてレイハルが戻ってきた。
おずおずとした様子で、開け放ったままの戸の隙間から顔を覗かせる。はいはい、とリーナが彼に歩み寄ると、こそこそと内緒話が始まる。ここでの滞在期間中に、ふたりはふたりで交流を深めたらしい。ちらちらとレイハルはこちらの顔色を窺っているから、何か言いにくいことがあるのだろう。クロエは知らんふりをしてあげて、リーナの口から報告が上がってくるのを待つ。
「お嬢様、ラッキーです」
最終的に、そういうことになったらしい。
リーナがにんまり笑う。さあさ、と彼女に手を取られるようにクロエは立ち上がる。すみません、とレイハルが恐縮しながら言う。リーナに背中を押される。なになに。訊いてみれば、もちろん答えてくれる。ああ、そういうことなら。クロエは言われた通りに、宿舎の奥に進んでいく。ある一室の前で止まる。執務室、のプレート。
その扉の先で、ディランが眠っていた。
ごゆっくり、とリーナは最後に余計なことを言って去っていく。ちょっと、とクロエは一応釘を刺しておくけれど、一応以上のものでは全くない。
すっかりお疲れとのことだった。
レイハルは起こしてみようと試みたそうだが、恐ろしい攻撃が飛んできて命の危機が発生し、諦めたそうである。真の獅子は眠っていてなお兎を食らう……という話なのかは知らないが、とにかく起こすことができなかったということだ。
でも、クロエ様なら起こせるかもしれません。
とまでレイハルが言ったかどうかは定かではないが、リーナが翻訳に入ったことで、そういうことになってしまった。クロエの方としても、それほどやぶさかではない。直属の騎士からのお許しも出たことだしと、この宿舎の奥まで踏み込んだ。
寝息も立てずに、ディランは机に突っ伏して、眠りに落ちている。
美しい横顔だった。そしてその顔に、クロエはかつての面影を見て取った。ああ、そうだ。確かにあのとき私の帽子を取ってくれた男の子は、こんな美しさだった。白い頬も、長い睫毛も、紙の上に流れていく黒髪の艶やかなことも、全て記憶に覚えがある。違うところと言えば、やはりあの頃よりもずっと成長して大きくなったこと。肩幅は広く、顎はしっかりとして、指はクロエのものよりもずっと長く、
その指先に、一本のペンが挟まっている。
クロエが贈ったものだ。
たくさんのプレゼントを貰って、何かお返しをしたいと思ったのは満更嘘でもない。昔の貴族であれば、真心のこもった手編みの何かでも渡したのだろう。けれど申し訳ないことに、こちらも仕事があった。そして残念ながら、貰った分に見合うだけのプレゼントを返そうとすると、ノット伯爵家の財政は破綻する。そういうわけだから、ひとつずつ。これを連絡の口実にでもして、些細なものを少しずつ。
そのひとつ目が、ペンだった。
一応、申し訳程度にレイハルから聞いた『好きなもの』を参考にして、表面に猫の装飾があしらってある。
男性が使うには可愛すぎるかな、と思わないでもなかった。けれどこうして見ると、なかなかディランの雰囲気に合っている。自分の見ていないところでも使ってもらえているならよかった。とはいえ、今日だって自分は自分で贈ってもらった服を着てここまで来たわけだし、ディランとしては礼儀として使っているだけで気に入っているというわけではないのかも。
いや、自分はこの服を気に入って着ているけれど――
「あ」
手が出た。
と言って、別に寝ているディランの頬をぶったとか、そういうわけではない。クロエは咄嗟に手を動かして、ディランの手を掴んだ。理由がある。彼は寝ている。ペンを握ったまま。それが少しだけ動いて、机の上の紙に触れそうになった。だから汚れがつかないように、咄嗟に。
そのままペンを引き抜くか、紙を引き抜くか。
どちらかを選ぶなら、ディランの身体に接していない紙の方だろう。そう思うから、クロエは紙を手に取る。
そのときふっと、『クロエ・ノット様』という宛名が見える。
魔が差した。
ディランはたくさんのプレゼントをくれた。けれど、メッセージカードはどれも『あなたへ』の一言だけ。対面しても寡黙な方だし、文面でもそうなのだろう。そう納得していたからこそクロエは、一体その手紙に何が書かれているのか気になってしまう。
いやでも、ダメでしょう。
そう思って、目を逸らそうとする。すると逆に、目に入る。机の横にある小さなゴミ箱。そこに、いくつもの便箋が捨てられている。どれも紙は同じだ。だからクロエには簡単に想像がつく。ディランが何枚も何枚も、手紙をしたためようとしては納得がいかずに捨ててしまったところ。いつまで経っても完成しなくて、結局いつも「あなたへ」の一言で妥協してしまうところ。
ディランはすうすう寝ている。
向こうは約束に寝坊しているのだから、なんて言い訳もある。
見ちゃった。
『クロエ・ノット様
あなたにペンを執ることは、これが初めてではありません。いつものあの、そっけないメッセージカードのことではなく、私はこれまでも何度も、あなたにお手紙を差し上げようと考えてまいりました。
しかし、いざ向き合ってみると妙に恥ずかしくなってしまうのです。その羞恥心を超えて最後まで書き切っても、それに封をするまでの間に、あるいはそれを誰かに渡すまでの間に、「こんなものはあなたにお見せできない」と思い、いつも屑籠に捨ててしまうのです。
だから、もしかするとこの言葉があなたに届くことはないのかもしれません。
私があなたと会ったのは、実はこれが初めてのことではありません。
学園の中で一度だけ、春の日差しの中で、あなたに声をかけていただいたことがあるのです。
その頃の私は幼く、未熟で、取るに足りない子どもでした。おそらく、あなたの記憶に留まっていることはないでしょう。しかしながら、私にとってあなたは、それ以来ずっと、憧れの方でした。
陰ながら、あなたをお慕いしておりました。
といって、何か行動を起こせたわけでもありません。私もこれで、幼い頃より侯爵になる定めを自覚して生きてきた人間です。のぼせ上がって勉学を怠るなどもってのほか。そう自分を律して……けれど、学園の中であなたを遠目で見るたびに、つい心を浮かせていたものです。
卒業してからのあなたのご消息は、調べずとも自然に耳にしておりました。
あなたはひょっとするとご存知ないかもしれません。失礼ながら、ここしばらくの間、少なからず言葉を交わさせていただく中でわかりました。あなたはご自身の評判について、大変無頓着でいらっしゃる。あなたにとって地道で堅実な仕事が、どれだけ人の目から見て頼もしく、心を安らがせるものであるか、どうやらご理解が浅い様子であるとお見受けします。
本当のところ、だから私は、もっと早くにあなたに結婚の申し出をすることはできました。
あなたと結婚するとなって発生する問題など、多くの人々に妬まれることくらいです。学園を卒業する前から、私はおこがましくも頭の中で思い描いておりました。卒業し、次期侯爵の肩書とともに、あなたの目の前にすぐさま跪き、長年の思いの丈を述べ、その手を取らせていただくことをです。
しかし、いざ人に指図し、多くの責任を取る立場になることでわかることもございます。あなたが真剣に仕事に取り組んでいること。真剣に仕事に取り組む人間は、その仕事に誇りを持っていること。ひょっとすると、私のような者からの求婚が、あなたの人生の邪魔になってしまうのではないかということ……。
人からは、果断な性質であるとよく言われます。しかし残念ながらそれは、的を射た評ではございません。私は悶々と、長々と考え込んでおりました。
とっくに一人前の人間になっておきながら、結局はあの木から降りられなくなっていた少年のように、噂を聞いてはあなたを心に思い描き、あなたがいまだに「クロエ・ノット」のままであることに、何度も胸を撫で下ろすような日々を送ってまいりました。
だからこそ、この婚約は、私にとって無上の喜びであるのです。
ノット家があなたの婚姻の相手を探していると耳にしたとき、一も二もなく飛びつき、むやみやたらと贈り物を用意し、いざお会いするとなれば柄にもなく浮かれ切って、気の利いたことのひとつも言えなくなっているのです。
こうした私の行動は、あなたからご覧になれば不可解極まりないことでしょう。いっそ、不審がらせているのかもしれません。家中の物慣れた者に助言を求めてもいるのですが、「それくらいでちょうどいい」等とわけのわからぬことを言うばかりで、到底改善の兆しもありません。しかし、できればご承知おき願いたいのです。これらすべては私からあなたへの純粋な好意に基づくものであり、決してあなたを怖がらせるためのものではないことを。日々私は自己を手厳しく観察し、あなたのより良いパートナーとなるべく努力を重ねているということを。
惜しむらくは、その努力を上回る速度で私が日々、あなたを好きになっていることで――』
二回読んだ。
それからもう一度読んで、計三回。
クロエは、すうすう眠るディランを、そっと眺めてみる。
人から好かれるというのは、まあ、一般に幸せなことなのかもしれない。
実像と離れているときには少し困ってしまうかもしれないけれど、少なくとも今、目の前で眠る彼は『実物』と会ってからも幻滅しないでいてくれているようだし、なおさら。
けれどクロエには、ここまで一途に人を恋しく思うということが、わからない。
嬉しい、楽しい、幸せだ……。その程度の感情のことなら、もちろんわかる。けれど、悲しかったも腹が立ったも、一度眠って起きれば、けろっと忘れてしまうような性質だ。根が大雑把なのかもしれない。そんな彼女だから、ここまで長く、丁寧に人を想い続けるというのがどういう気持ちなのか、わからない。たった一目会っただけの相手に、これだけ憧れるのはどういう理由なのか、よくわからない。
けれどここには、たくさんの印がある。
きっと何度も推敲していたのだろう、目の前の手紙に記された、たくさんの書き直しだとか。
屑籠に積み重ねられた、何枚もの便箋だとか。
クロエの身を包んでいる、趣味に合った服だとか。
眠っていてなお、彼がぎゅっと握って離さない、黒猫のペンだとか。
今ここに、自分がいることだとか。
手紙を、ゆっくりと机に置く。
寝顔を見ながら、考える。
いつかは通るだろうだと思っていた道だ。細かいことをクロエは考えないけれど、大まかなものは流石に見えている。両親から結婚の催促が来たときも、「はいはい」以上のことは思わなかった。二十五歳。恋知らぬままでここまで来れば、恋知らぬままで行くこともあるだろう。そう思っていた。
だからこれも、本当に『そう』なのかはわからないけれど。
ただこの部屋に満ちる春の陽気が心地よかったから。夕暮れの、黄金色に滲む日差しが美しかったから。白いはずの紙がきらきらとそれに光って、流れる時間が優しくて、すう、すう、と膨らむ彼の大きな身体が、妙に温かく見えたから。
一度眠って起きれば、けろっと忘れてしまうような思いかもしれない。
それでもクロエは、ふ、と微笑んだ。
「可愛い男の子」
がたん、と机が揺れた。
驚いた。ぴょん、と思わず跳ね上がってしまいそうなくらいに。けれどクロエは、恥ずかしくはない。思っていることをそのまま言っただけだから。
恥ずかしがっているのは、向こうの方。
「……いくら何でも」
耳まで真っ赤。
だというのに、何の悪あがきのつもりだろう。まだディランは寝たふりを続けている。口は動いているのに。言葉は発しているのに。耳まで真っ赤にしているのに。目はつぶったまま、感じた恥ずかしさを誤魔化すように、拗ねた子どもみたいに意地を張って、彼は言う。
「『男の子』という歳ではありません」
クロエにとっては、思ってもみない反論だ。
だから、ちょっとだけ呆気に取られる。すぐに気を取り直す。彼の一生懸命な指摘を受けて、珍しくそんな細かい言いぶりなんかを気にしてみて、じゃあ、どう言おう。
結局思いついたのは、言われたばかりの言葉。
もう一度、今度は思い切り笑って、クロエは言った。
「可愛すぎる人!」
(了)