2022年6月25日
私は夏が好きだ。ありとあらゆる生命がもっとも輝きを放つ季節だから。6月に入り、夏の到来に胸をときめかせた。だが、今日という日はごめんだ。常軌を逸した暑さだったからだ。
スマホに備わっている天気予報は、最高気温が40度であることを示していた。異例だ。だから、その年の6月のことはよく覚えている。
今日は芳賀先生の授業が先生のご都合でお休みた。だから、授業がない日同様に20時半まで勉強していた。朝来るだけでかなり体力を消耗したが、来てしまえば涼しい空調のなかで悠々自適に勉強ができるので、この夏も頑張って通いたい。そう決意を新たにした今日も終わろうとしている。
「精神が不安定なところもあると聞きましたが、何かお困りのことはないですか?」
今日は野木さんのシフトの日なので、今日の進捗を見せに行った。一通り確認した後で、野木さんは私のメンタルを気にかけているようだった。
「うーんそうですね…」
特にこれと言って悩みはないと思いつつ、うっすらと脳裏に浮かんだことを口に出していた。
「強いて言えば自己のアイデンティティーが揺らいでいる気がして、ちょっと危機感覚えてます」
「これまた厄介そうですね」
「それで、最近自分がなんだかわからなくなってきているような…。ほら、私ってあんまり個性がないじゃないですか」
「え!?それはないだろう。個性がない人は、毎回あんな場所をびっしりと文字で埋めませんよ」
あんな場所と野木さん言ったのは、パソコン上の、登校と下校の時刻を手打ちで入力する画面の、ひとことコメントが書けるスペースと言ったら良いものか。面を食らった様子の野木さんは続ける。
「内容もありきたりなら凡夫だったのかもしれませんが、『蘇我氏忙しい』とか、個性の塊だろう」
まあ、言われてみればそうかもしれない。ちなみにダジャレだ。
「なんだ、そんなことか。それなら当分は悩まなくても大丈夫そうですね」
呆気に取られましたよ、とでも言いたそうだった。
「あのスペース埋めてくの、変ですかね?あんまりやらないほうがいいのかな…」
「いや、大変ユーモアに溢れていて楽しませてもらっているし、続けてくださいよ」
それにね、と野木さん。
「多くの人は空白にするわけですが、その空白を見て、あー去年は三和さんて人がいたなーって思い出せるでしょう」
何もないところに意味を見出せる人間らしい感想だな。しかし、今後自分のことを思い出してくれるという話しに、なんというか心がじわじわする。あったかい気持ちはこれだけで良い。
「大事な話を忘れていましたよ。模試、帰ってきましたよね?どうでした?」
「あー、まあ判定から言えばEでしたよ。書いた大学は、O大だけCでした」
私の顔は相当バツが悪そうだったことだろう。しぶしぶさっき印刷した模試の結果を渡す。
「ふむ。まあ大丈夫。私もひどかったですからね。高校時代世界史しかやってなくて、それと国語以外は壊滅状態だったなあ。それでも受かりますよ」
意外だ。野木さんは現役で突破するオールラウンダーのような風格で、実際いろんな教科の質問を受け付けているから。というか。
「世界史しかやってやってなかったんですか…?なんていうか…豊かですね……」
羨ましいな、という言葉が溢れそうになるのを堪える。私も日本史が大好きだったけど、受験のために優先度が高い数学と英語ばかりやっていたから。日本史をやるのを我慢してまで。だから、ちょっとずるいなって気持ちもあった。
やっぱり私では到達できない野木さんの美学みたいなものがあって、正直そこには惹かれていた。
「三和さんがちょっと真面目すぎるだけですよ」
「一理ありますね。好きの気持ちを無理に抑えて英数ばっかやってたら、結局どれも中途半端になっちゃったし」
「悩ましいですね」
そんな調子で今日も長く暑い一日が終わった。