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2022年5月14日

 新しい環境にも、少しずつ慣れてきた。春先には誰もが新しいことに向けて勢いづくものだが、5月に入ってもその勢いはまだ衰える気配がない。私の勉強も、順調に進んでいる。

今日も9時にハレルヤに着き、12時まで数学の問題や英語の長文問題を解いた後、お昼を挟んで再び勉強に取り組む。


 今日は15時過ぎからアカデミーで授業があるので、いつもより早めに一日の記録を野木さんに見せて退散する予定だ。


 今日は野木さんだけど、市貝さんや、佐野さんというフレッシュな男の先生が交代でシフトに入っている。塾の授業がない日は、20時半まで黙々と勉強する。そんな毎日の繰り返しが続いている。


 日々のルーティーンをこなしていると、ふと思う。こういう何もない日常こそが、なによりも尊いのではないか、と。それは、エッセイやら何やらに決して取り上げられない、華々しい成果も特別な出来事もない、だれが見ているわけでもなければ、誰の心のなかにも残ることのない日々。


 そういった日々を、あなたも私も確かに生きているということをここに示しておきたい。その日々という生きた証の積み重ねこそが私を合格へ導いてくれるし、何にだってさせてくれるのだ。


 そんなことを考えながら、半日の記録を野木さんに見てもらいにいった。ハレルヤ生の義務である。

私はおもむろに応接に出向き、


「すみません、これ、お願いします」


 とファイルを差し出した。


「あぁ、はい」


 先ほどまで読書に没頭していたらしい野木さんがこれまたおもむろに顔をあげ私のファイルを受け取るのだった。


「あー、結構勉強していますね。時間有効的に使えていると思います。休憩とかもこまめにいれているのですね。良いと思います」


1時間半やったら10分休憩、みたいに適宜脳を休ませるなどしている。これが私にとってはかなり効果的だった。


「今日はどのような内容を勉強されたんですか?」


 野木さんはその日勉強した内容を復習させる目論見があるようだ。


「そうですねー、数学はまあ普通に接点だの接線だの求めるなどして、英語長文は…うわさ話というテーマの文章を読みましたね」


「ほう。それで、どんなことが書いてありましたか?」


「あー、なんか、女性ってうわさ話、つまりゴシップを好むっていうイメージがあるじゃないですか。でも、実は男性が男性同士でいるときの方が、女性が女性同士でいるときよりも話題に占めるゴシップの割合が高いって話でした。逆に、男性が女性といるときはほとんど話さないみたいですね」


「びっくりしました」と付け足す。


「ふむ、それは面白いね。でも、そんなに驚くことでもないな。男性の方が、見栄やステータスに執着する分、他人の噂に敏感ですから。私自身、残念ながら男性として生まれてしまったから理解できます」


「野木さん、女性のほうがよかったんですか?」


「そうだね。どっちか選べと言われたら、女性かな。男性って、正直言って粗雑だからね。美しいもの、つまり女性の方がずっと価値があると思うよ」


「美しいものが云々って、それこそちょっと古くないですか?男はこう、女はこう、みたいに決めつけるのって時代遅れな気がします」


「古い?そんなことないよ。美しさというのは、時代や価値観がどう変わろうと普遍的な価値だ。それを否定する方が無理があるんじゃないかな?時代が変わっても、美しいものに価値があるというのは変わらないし、それが男性と女性の違いに現れることも事実だよ」


 形容詞なんて全部主観っていうし、時代や地域が変われば中身も違ってくると思うけど。だって、美しいって何を基準に?やっぱり時代や文化や地域によって変わるし、性別で分けるのも今の時代にそぐわないと思う。


「でも、今の時代、性別に限らず美しい人もいるし、男が粗雑っていうのはちょっと極端な気がしますけど…」


「いや、私はそうは思わない。普遍的な真理を追求するには、ある程度の決めつけが必要だ。曖昧な境界を曖昧なままにしておくのは、真理に近づく道から外れる。だから、僕はこれを譲るつもりはない」


 野木さんって結構頑固なんだな。


 そうこうしているうちに授業の時間が差し迫っていた。私は野木さんに軽くお礼をしてアカデミーへと急いだ。


 毎週土曜日は芳賀先生の英語だ。これが私は、楽しくて楽しくて仕方がないのだった。夢見ていた普通の高校生活を取り戻しているみたいで。普通の高校生活ってのはまあ、授業とか勉強の質問を通して先生と対話することなんだけど。この間も言ったよね。


 手を洗ってうがいをしたら(アカデミーでは義務づけられている)、芳賀先生のもとへ一直線に向かう。


「こんにちは。勉強は順調ですか?」


「こんにちは。勉強時間自体は確保できているので、まあなんとか。あとは質をどんどんあげていきたいですね」


 芳賀先生の声はいつも冷静で、理知的だ。だからこそ、私も先生と話すときは少し緊張しつつも、自然と自分のことを素直に話してしまう。そんな会話をしながら、さっきの話を思い出していた。


「先生、今日長文問題で、男性同士の会話のほうが女性同士の会話よりもゴシップの割合が高いっていう話をやったんです」


「ふむ。面白いデータかもしれないけど、僕はそういう分類には縁がないかなあ」


 あれ、思ったよりそっけない返事だ。


「え、そうなんですか?結構意外だなって思ったんですけど……」


 結構興味深い話題だから食いついてくると思ったのに。先生はこういう話にあまり興味がないのかな。


「統計としては興味深い。ただ正直に言えば、性別で『ああだ』『こうだ』と一般化する議論自体に関心が薄くてね。人は人。それぞれ自由に考え、自由に選択し、結果に責任を負えばいい。そこに性別は関係ない」


「なるほど、そういう視点なんですね」


「うん。ゴシップの話にしても、何を話題にするかは当人が決めればいい話さ。他人の自由を侵害しない限り、性別で違いがあろうとなかろうと、それはそれぞれの選択なんだよ」


「自由とか、自己責任みたいなものが軸なんですね」


「そう。統計は面白い参考資料になり得るけれど、それを根拠に個々人を縛る理由にはならない。結局大事なのは、自分で選び、結果を引き受けるという姿勢だと思うね」


 芳賀先生は性差に関する話題には関心がないんだな。むしろ、もっと大きな視点で個人の選択や自由を重視していることが伝わってくる。野木さんももっとそういう風に、性別とかにとらわれずに考えられるようになればいいのに。


 こんなに意見が変わるなんて人間って本当におもしろいな。人の数だけアイディアがあるんだ。やっぱり外にでてよかった。


 どちらかといえば芳賀先生の視点のほうがが受け入れやすいなぁと思いつつ、野木さんの美学に共感してみたい自分もいることに少し驚く。要はあの人を分かりたいのだ。


 芳賀先生の授業も、文法問題、長文問題、英作文とルーティーンを淡々とこなしていくと、90分はあっという間に終わる。


「ところで、明日は模試のようだね」


「あー、はい。県庁所在地まで行かなきゃいけないんですよね、ちょっと億劫です」


「どれくらいかかるのですか?」


「高速使って車で二時間ですかね」


「それはそれは。気をつけて行ってきてください。なあに、いつも通りやればあなたなら大丈夫です」


 明日の模試に合わせて勉強のスケジュールを組んで淡々とこなしてきたわけだが、なにせ2年ぶりの模試である。不安な要素しかなかった。そもそも、模試に良い思い出がない。脳内は、ここ数年の、エントリーしても会場の前で足がすくみ、そのまま逃げてしまった記憶で埋め尽くされている。


 本当はまだ、受ける勇気、いうなればおのれの実力を思い知らされる勇気がなかったけれど、市貝さんに相談したらあの引き攣った笑顔で行かない選択肢はないと言われてしまったし、行くしかないのだ。

明日は現地まで車で送ってもらう。私は恵まれている。だから、明日は行かなきゃ。


「がんばります。ほんと、つらいんですけど」


 そう言ってアカデミーを後にした。

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