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2022年4月14日

 また新しい環境が増えた。そわそわしていたのか駆け足で階段を登る。そして今度は少しの緊張感でゆっくりと扉を開けた。


「おはようございます…」


 昨日市貝さんが挨拶を大事にしていると言っていたので、自分も慣れないながらやってみた。

すると、予想だにしない重低音の声が返ってきた。 


「あ、おはようございます」


 応接のほうからだ。ハレルヤは自習室、応接、休憩スペース全てが一つのフロアにあるので、誰がどこで何をしているのかが玄関からでも丸わかりだ。


 声の主がのっそのっそとこちらに近づいてくる。


「体験の三和さんですよね」


「はい…」


「野木です。よろしくお願いします」


 男だった。その風貌は、髪はボサボサで無精髭、ガリガリで長身といったところか。腰を曲げ内股で歩く様からは哀愁すら漂ってくる。無いな、と思った。


「よろしくお願いします…」


 どうやら野木という男はここの講師で、主に文系科目の質問に答えてくれるらしい。


 挨拶を終えると、男はまたのっそのっそと内股で応接のほうに戻っていった。


 私は気を取り直して席に着く。かなり広い机を独占できて気持ちが良い。昨日もらった紙を広げ、指示された通りに勉強計画を立てる。どの参考書をどんなペースでどのように取り組むのかを記入していく。これは午後に来る市貝さんがみてくれるらしい。このガントチャートという勉強の計画書を元にすべてが進んでいく。


 まだチェックしてもらってないが、とりあえず自分で作ったガントチャートに従って、数学、今日は積分の勉強をする。


 最高の自習環境を手に入れたのだ。先のやつれた男のことなどとうに忘れるくらいには勉強が捗った。


 お昼を食べ終わると、ちょうど市貝さんがやって来た。


「三和さんこんにちは!ガントチャート書けたかな」


 そう言った市貝さんは胡散臭いまである張り付いた笑顔を見せた。もしかしたら本人は、すごくフランクな割にコミュニケーションは得意じゃないのかもしれない。その笑顔から、無理しているのがひしひしと伝わってくるもの。


「あ、はい」


「じゃあ向こうでチェックするから来てもらってもいい?」


 こういう類の相談は基本講師がいる応接で承るらしい。私はトボトボと市貝さんのあとを追う。二人してソファに座る。


「ふんふん。なるほどね」


 市貝さんが私のガントチャートと睨めっこする。


「かなり詳細に書いているね。三和さんってもしかして自習得意?」


 学校に通えず長らく自習を迫られていた経験があるからか、計画のほうはウケが良いみたいだ。療養期間とはいえ、気力がある日は勉強していたから。


「ただ地理の参考書が決まってないね」


「あ、はい。地理は初めてなので何をやっていいか分からなくて、保留にしていました」


 T大の場合、二次試験に社会が二科目必要なのだ。私は長らく日本史だけを勉強していたので、もう一つ選ばなければならなかったところを、覚えることが世界史より少なさそうだからと、習ったことのない地理を選ぼうとしている。


「地理は野木くんに任せるしかないなー」

 

 ええ、あの人と話さなければならないのか。


「本棚に無さそうな場合、ウチって全然生徒と本屋行って参考書見て決めたりするのね?」


 斬新なシステムだなぁ、と感心していた矢先。


「ちょっと野木くんと本屋行って探して来てもらおうか!」


 嘘だろ。


「野木くん、ちょっと三和さんと本屋行ってきてくれない?」


 市貝さんが隣の自習スペースの野木さんのほうに声をかける。




 いや、気まずすぎるだろ。


「地理なんだけど、野木くん地理もやってたもんね?そうだよねー、じゃ、よろしく!」


 私は内心焦っていた。


 見た目からして話を振ってくれなさそうなのに、引きこもっていたゆえコミュニケーションが久しぶりで不安な私にどうしろと言うのだ。


 そう言われると自習席で本を読んでいた野木さんがまたのっそのっそとこちらへ向かってきた。趣味の悪い真っ青なショッパーを携えて。


「じゃあ行きましょうか」


「はい…」


 外は雨で、すべらないように気をつけながら階段を降りた。私がいつだかコンビニで買ったビニール傘なのに対して、野木さんの傘はビビットカラーの水玉模様で、真っ青なショッパーと合間って異様に見えた。


 私たちはどちらも足が遅いから、トボトボと道なりに歩き出した。先に話を振ってきたのは野木さんの方だった。


「文系ですよね。志望校はどこなんですか」


「あー、T大目指してます」


「私の大学ですね。まあ良いところなので。目指したら良いと思います」


 さりげなく志望校の先輩であることを吐露されてしまった。あんまり関わりたくなかったけど、志望校に関する情報源としては有用かもしれないと思い始める。


「何を学びたいとかはありますか?」


 浪人生にこの問いはもはや必然であった。私はかねてからの思いを、先月アカデミーの塾長に聞かれたときと同じように口にした。 


「ケアの先生とかいっぱいいるんで良いと思いますよ」


「そうなんですね。…まぁ、受かるか分からないんですけどね」


 2年間寝たきりで何も勉強していないのに等しいのだ。正直言って無謀だった。すると野木さんは、


「私も浪人していたのですが、まあなんとかなりますよ」


 と言ってくれた。


 なんとか、なるのかなぁ。第一志望に届かなくとも収まるところに収まれば良いなとは思うけど。

そして、しばしの沈黙。こういうとき、なんとか気まずい状況を打破しようとして、変な話を振ってしまうのが私なのだ。


「浪人期って孤独でした?」


 こんなことを聞いてしまうのも、私が自分のことをそう思っているからなんだろう。


「予備校に行っていましたが、孤独っちゃ孤独でしたね。賑やかではなかったかな」


「お友達とかとは連絡取ってるんですか?」


 野木さんが私に聞き返す。


「あんまりとってないですね…。高校の友達がいるにはいるんですけど、みんな気を遣ってくれているのかな、あんまり連絡はこないですね。私からも受験生だからって、しないようにしているので」


 だから、受験が終わったらまっさきに友達に連絡を取りたいと思っている。待っててくれる人が果たしているのかはわからないけれど。


「浪人生だとなかなかとろうと思わないですよね」


 西口の本屋を目指してあのセンスのない地下通路を渡っていく。私たち以外誰もいない暗がりの地下通路では、私のか細い声ですらも少し響いて伝わる。


「地元の受験とは無縁の友達には、なんていうか限界?すら感じちゃって、もう連絡取ろうって思わないんです」


「ほう。というと?」


「話が合わなくなってしまった地元の友達がいるんです。同じ世界にいるのに、同じ言葉を使っているのに。社会っていう一つのコミュニティに属しているはずなのに、なんていうか世間話ができないんです」


 気づいたら、最近思っていたことを整理するかのように口に出していた。


「友達は自分のいる小さなコミュニティ内での話しかできなくて。話が合っていたのは、私が彼女と小学校という同じコミュニティに属していたからだと分かったんです」


「小さなコミュニティを抜けてしまってから話が合わないと。社会という大きなコミュニティには属しているはずなのにです、か」


 野木さんが私の主張を確認するように反復した。すると。


「それ、面白いね。リオタールって知ってる?」


「いえ……聞いたことないです」


 私が首を振ると、野木さんはちょっと嬉しそうに話しだした。


「ジャン=フランソワ・リオタールという哲学者がいるんだけど、彼は『ポストモダンの条件』という本の中で、大きな物語は終わったって言ったんだ」


「大きな物語、ですか?」


「うん。たとえば科学が世界を救うとか文明の進歩が人類を幸福に導くみたいな、すべての人に通じると信じられてきた壮大な理念。それが、社会をどこへ向かわせるかという問いに対して、正当性や共通の方向性を与えていた」


「つまり、昔はそういう話を誰もが信じていて、社会の土台になってたってことですね」


「そう。でもリオタールは、近代以降、特に20世紀後半になると、そうした物語の正しさが疑われるようになったって言う。人々は、『本当に科学は世界を救ったのか?』『その進歩は誰のためだったのか?』って問い始めたんだ」


「確かに、同じ社会にいても、皆が同じ未来を信じてるようには思えません……」


「そう。今はもう、社会を一つに束ねる共通の物語が機能しない。代わりに、人々はそれぞれの小さな物語ーー自分の経験や属しているローカルな文脈の中でしか語れなくなった。三和さんがさっき言ってた、友達と話が噛み合わないっていうのも、まさにそういう物語の断絶って捉えられるかもしれない」


 野木さんのとっさの返しに圧倒されながらも、私たちは本屋に着いた。


 参考書自体はすぐ決まった。野木さんの勧めで記述も学べる参考書を購入する。


 するとすぐに帰路に着く。私たちは自然とさっきの話の続きを始めた。最初に口を開けたのは私だった。


「大きな物語が終わったって、なんだか寂しい気がします。皆が同じ未来を信じられた時代って、今よりつながりがあった気がして」


「そう思う人は多いと思う。でも、大きな物語はたしかに希望をくれるけど、同時にこうあるべきという圧力にもなる。ルソーって知ってる?」


「えっと……社会契約説の人?ですよね?」 

 私はすかさず答える。


「その通り。ルソーは『人間不平等起源論』の中で言ったんだ。人間は自然状態では自由で平等だったのに、社会の発展によって所有やら階級やら不平等が生まれたって。そしてそれを正すために、一般意志という概念を提案したんだ」


「一般意志…」


「うん。それは簡単に言えば、全員の私心を超えた、公共の利益を目指す意思だね。ルソーは、これを通じて市民が主権者として生きる、自由で平等な共同体を構想した。でもそれもまた、一つの大きな物語なわけで、現代では実現が難しくなってしまった」


「じゃあ、そういう理想の共同体も、今ではもう現実的じゃないってことですか?」


「そうかもしれない。今、僕らは正しさや秩序そのものを疑う時代に生きてる。たとえば、フーコー。聞いたことある?」


「いえ……」


「フーコーはそうだな…権力とは何かを問い直した。従来のように支配する主体があって力を行使するって考えじゃなくて、権力とは社会のあらゆる場所に遍在し、人々のふるまいや思考を構造的に形作っているって提唱したんだ」


「たとえば…なんでしょう?」 


「病院や学校。規律や常識。見えにくいけれど、そういう仕組みの中で私たちは普通を内面化していく。それがフーコーの言うミクロな権力構造なんだ」


 無意識のうちに、誰かに従ってるわけでもないのに、型をなぞって生きているような感覚があるとか、なんかそういう話になった?


「デリダは…あ、聞いたことあります?」

 

 不意に発せられた固有名詞に、私は首をかしげるしかなかった。


「いえ……あまり……」


「デリダも似てる部分があるけど、彼は言葉の不確かさを徹底的に追求したんだ。どんな言葉も、よく見ると定義が曖昧で、揺らいでる。脱構築って考え方で、あらゆるものの前提を問い直す思想だね」


「つまり…」


「絶対的な意味なんてものは存在しないってこと。正しさや真実も、誰かの立場や文化の上に築かれたものであって、不変じゃないってこと」


 野木さんの言葉を咀嚼してみる。


「つまり、権力や秩序そのものも解体されつつある、ということですか?」


「そう、その中で私たちは、小さなコミュニティや個々の関係にこそ生きる意味を見出すべきだと思うんだ」


「でも……それって、あまりにも個人的な世界になりませんか? 国家みたいなものを無視したら、全体として社会が立ち行かなくなる気がします」


 私の素朴な疑問を聞くと、野木さんは少し歩みを緩めた。


「もちろん国家や公共性を無視するわけじゃない。ただ、ホッブズが『万人の万人に対する闘争』を避けるためにリヴァイアサンを構想したように、強大な国家は時に個人を抑圧する。だから、個人とコミュニティのバランスをどう取るかが大事なんだ。現代では、その答えを見つけるのが難しくなっているけど、少なくとも僕は、目の前の『あなた』との関係こそが最も大切だと信じているよ」


 野木さんは、やっぱり個々の関係性を重視しているんだ。それが社会全体の秩序や安定よりも、もっと本質的で大事なことだと考えているんだろうな。


「そうなんですね…なんだか、世界がちょっと違って見えてくるような気がします」


「そう思ってもらえたなら良かったよ。大きな物語が終わっても、僕たちは新しい物語を生きていける。それは、国家や社会の枠を超えた、もっと個人的で、でも本質的な物語なんだと思う」


 新しい物語か…それが私にとって、そして野木さんにとって、何を意味するのか、これから考えていかなくちゃいけないのかもしれない。


 新しい知識に次ぐ知識。野木さんは容赦なく、つまり噛み砕くことなく説明をくれる。私はこのときインプットするだけで精一杯だった。リオタール、ルソー、フーコー、デリダ、ホッブズ。心の中で反芻していたら、気が付けばハレルヤに着いていた。


 私は軽く野木さんにお礼を言って自習室に戻っていった。 


 誰かに知的に支配された経験は、これが初めてだった。それは、とても豊かな体験だった。それは、胸が高鳴る体験だった。気づけば私は、第一印象とは裏腹に野木さんという人間に強い興味を抱いていた。


 何をしていて、どこに住んでいて、どんなことに興味を持っているのだろう。  

  

 それ以上に得るものもあった。ずっと引きこもっていて、すっかり喋れなくなってしまった私は、この一方的な会話に希望を見出していた。


 あんなふうに喋っていいんだ。自分の語彙を遺憾なく発揮して。


 それは、うつ病になる前の自分を取り戻すような―、いや、改めて自分というものを獲得していく過程の第一歩を踏み出したような感覚だった。


 ほかには、T大に行ったら、こんな人ばっかなのかな。それはそれで素敵なことじゃないか、だとか。


 一度は朽ちてしまった人間関係の輪が、また広がっていく体験は良いものであると思えた。新しい人間関係に希望を見出して、私はまた勉強机に向かうのだった。

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