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episode9 沙漠の古代

   

 沙漠。そこは古代の遺跡だった。異世界だ。


 全世界と一口に言っても、いろいろな世界がある。そのうちの一つだ。

 熱沙だった。陽炎が揺れている。焼けつくような感じがニオイのように感じられた。鼻腔が熱される感じ。だが、どことなく懐かしい気がしなくもない。


 実際の世界であると同時に、深層意識の奥のさらなる奥の奥であった。現在過去未来において、少なく見積もって、ホモ・サピエンス・サピエンスのみと考えただけでも、何千億もの人類のこころの原郷であり、もっと深く穿ち究めれば、一切存在の原郷でもあるからであろう、懐かしく感じるのは。

 原郷とは言え、過酷な場所だった。熱射。乾涸びた風。身に何の装備もまとっていなかった。四季のある温暖な文明国にいたときの普段着のままだ。

 顔が焼ける。頬が火傷しそうだ。腕が痛い。

 古代の遺跡があった。巨石が聳える。

 その前に立っていた。傾き始めた陽を浴びて。

「皆さん、無事ですか」

 甍が振り向いて訊く。

「大丈夫です」

「凄い」

「信じられない」

「現実みたいだ」

 韋究が言う、

「普通に現実だよ。

 見る限り現実だよ。むろん、見たものが現実かどうかは確認のしようはない。〝眼〟が見るという行為を我々が思うようなかたちでしているかどうかは、確認の仕方がなさ。眼は眼を見ないからな。三次元空間では。

 たとえ、見ることができたとしても、それが正しく確かで真であるかどうかは確認することができない。そもそも、正しいとか、確かとか、真とかが判然としていない。

 まあ、それを言い出すとキリないんで、このまま受容しよう、若干、異世界であるというだけさ。素朴に、客観的な外部だ。外在だ。内在と外在という区分は不要なのかもしれない。

 さあ、見てのとおりさ。集合的無意識の最深奥底部は実在世界だ。だから、未経験の出来事を夢に描き観ることができる。知らないことが出て来るのは当たり前だ。個人の意識では世界全てを経験していないが、個人の顕在意識は世界じたいである集団的無意識に直截に繋がっているのだから。

 全ての生命は最初から全てを知っている。だから、生まれたばかりの仔羊も乳の吸い方を知っている。吸いつく乳首を探すことを心得ている。

 本能だなどと言ったり、遺伝子に引き継がれているからだなどとも言ったりするが、なぜ、遺伝子は引き継ぐことができるのか。なぜ、引き継ぎをするのか。むしろ、全知であることを、そのようなかたちで表現しているだけに過ぎないのかもしれない。

 インパルスが脱分極化(神経細胞の外と内側との電荷の正負が逆転すること)を電気的な発火現象として表現したものであるのと同じく」

「まあ、ともかく眼の前の課題に取り組もうよ、韋究」

「そうだな、諸君もいいかな」

「了解」

 まずは外側から概要を眺める。

 巨石のトーテムに浮き彫りがされていた。それはトルコ南部にある1万1千年前の巨石の遺跡、ギョベクリ・テペ遺跡に似ていた。その巨石によるモニュメントを作った人々の子孫が六千五百年後にブリテン島に渡ってストーンヘイジを建築したのである。

 韋究、甍、ルネ、白憂、紗々火、俠子はそれぞれ歩き廻った。

 投げ込まれたこの世界、奇妙な感覚だ。しかし、顕在意識の現実も似たようなものだ。いや、同じだ。

 彼らが見ている遺跡は巨石によってできていた。その巨石には、神の像や神獣像や民や太陽や星座や月や王があった。神秘的な感じだ。

 又は解読不能な、見たこともない象形文字であったり、象徴であったり、記号であったり、文様であった。

 かつての天使長、堕天使ルキフェルがそこに待っていた。

「私は堕天使だが、キリスト教上の堕天使ルシファーではない。そもそも、神が真に完全で、絶対で、全知で、全能ならば、叛逆も異教徒も背神背教もない。

 誰にでもわかるくらい単純で、強い真実だ。生まれたばかりの嬰児や、草木たちですらも知っている」

「そんなことって」

 甍がそう呟いたが、それ以上言わなかった。言うべきではないと考えた。

 韋究が問う、

「あなたはὍμηροςが造った協力者、〝人のかたちをした者〟ですか」

 ルキフェルは不快そうな、侮蔑の眼差しで睥睨する。

「そうとも言うかもしれん。そうでないとも言えるが」

 甍が頷く。

「なるほど。独立している。彼には尊厳がある」

 鼻尖でルキフェルは嘲笑い、

「くだらぬことを。尊厳とは尊厳を喪った者たちがほざく哀れな浅ましく醜い執著に過ぎない。

 高貴なる我には用なきこと哉」

 そう言って背を向け、

「ともかく、ついて来い。いや、その前に、これに着替えろ」

 長い布を渡される。頭から足先まで覆った。刹那、涼しく感じる。

「水も少し飲んでおけ」

 羊の革袋を渡される。ごくごく飲む。

「じゃ、逝くか」

 すっかり生き返って、気力が蘇り、遺跡の巨石群に入っていく。

 巨石の上に巨石が載っていて、T字を成していた。そういう人工の組積の石造ものが幾つも立っていた。

 たくさんの浮き彫り。動物が多い。

「氏族のトーテムかな」

 韋究が甍を振り向きながら言うと、甍は、

「星座という説もある。古代の星座は動物が多い。ラスコーやアルタミラの洞窟壁画も動物ばかりだ。人間には関心が薄い」

 韋究もうなずき、

「古代人の関心は、獲物がたくさん取れることか、その動物の能力が身につくことか、あるいは、その動物に宿る精霊か、それらのいずれかにしか興味がなかったかのようにも見える。

 むろん、全く別の解釈もあり得るが。超越的客観(じぶんじしんのこだわりや感覚や主観や経験を超えて物事を純粋に観ること。観照)による純粋論理(一切の前提条件を認めず、純粋に論理だけで構築された理論)に依存するならば、選択肢は無限だ。

 無際限に在って、定め難い」

 甍が深く眉を顰めて考えながら、

「論理思考では無理だ。瞑想でわかるかな」

 韋究と甍とは集中し、調べ始める。四人の数学者たちは呆然としていた。

「やはり、星座かな」

「星座だとしても、あまりヒントにならないな。農耕民族も天体に関心を持っていたが、狩猟民族になかった訳でもない。月は生物の生理に影響が大きい。

 狼男の伝承が有名だが、たとえば、カニの産卵も関係すると言うし。狩猟民族は月に関心を持っていた可能性がある。

 古代ギリシャ神話の月の女神アルテミス(古代希臘語: Ἄρτεμις)は狩人だった。旧暦が陰暦(月暦)なのも、狩猟時代の影響かもしれない。

 どう思う」

「いずれにせよ、それは理窟さ。事象に還れ、って訳ではないけど、諸概念を以て事象を捉えず、なおかつ、諸概念を用いずに事象に直参しよう」

「こころにかたちを持たずに事象に当たれば、それが直参だ」

 韋究はうなずき、

「それしかないね。

 まず〝かたち〟を離れてみようか。

 言葉(概念)による探究は、結局、その範囲のうちしか網羅していない。その範疇でしか活動できない。何をしても措定されたその限界のなかでのことに過ぎない。この場合、措定は仮説と言っても良い。僕らは一切の根拠をゼロから論理で説明できないから。

 論理的に言えば、そういうことになる。つまり、論理という枠組みの限定のなかで言えば」

「結局は論理批判も論理のうちでしかない。そこを厭離するのが、まず出発点だ」

「批判が批判ならずというのも批判のうちで、すなわち、論理の枠組みのうちだが。

 八方塞がりにも思えるが、八方塞がりと定める定め方も論理のうちだ。

 兎にも角にも、試みよう。そこからだ。

 無際限のかたち、不定、かたちなきものを想おう、想いはどうしてもかたちを做してしまうが、その不可能性に挑もう。

 それが結果的に空ということに繋がる」

 Ὅμηροςから教わって練習したとおり、(Ὅμηροςが言う)甚だ深い般若波羅蜜の瞑想行を始めた。

 ルキフェルが呆れた表情をする。

「ふ。ばかばかしい」

 刻んでいないタバコの葉で巻いた、細身の葉巻ともいうべきシガリロだが、ルキフェルは専用のラーターで少し炙ってウォームアップしてから、火を点けた。

 深々と美味そうに吸う。

 吸い終えても、韋究や甍の様子は変わっていなかった。ルキフェルは訊く、

「どうだ? 何かわかったか?」

 韋究は眼を開けた。

「まだまだだよ。始めたばかりじゃないか。

 まず古代の封印を解読する手がかりが皆無」

「そもそも、何をしているんだ」

「解読。この封印が、そもそも、何であるかを知ろうとしている。

 つまり、解読と言っても、解除する訳ではなくて、封印を修正したり強化したりするためには、まず解読ができなくてはならないので、解読をしているということだ」

 ルキフェルは興味なさげに、

「なるほどね」

 甍が語る。

「この封印の奥からさまざまな生存の力が渦巻き蠢いているのが観想できる。

 そして、この封印から少しずつ漏れて個別の意識に浸透している。何百億もの人間の深層心理に影響している」


 遺跡、というよりは建造物による陀羅尼(真言)、立体の陀羅尼による封印だ。

 時間の経過というものは、悠久のなかの一瞬であった。瞬く間に過ぎ去る。翌早朝までには解析が終わった。

 解析と言っても、Ὅμηροςに依頼し、結果を受け取る。基本はそれだけだ。ただし、結果はわかり易いものばかりではない。わかり難くて、解釈が必要なものもある。

 しかも、それが少なくない。相当数なのだ。全部はやり切れない。

 目的・目標を明確に決めて、検索を掛け、的を絞った上で、解釈の俎上に載せるか載せないかを定めないと、永遠に終わらない。

 絞っても、徹夜であった。

 韋究は額の汗を拭う。

「ふう。

 どうにかなるものだ。

 結局は、運命なんだな」

「そう言ってしまえば身も蓋もないけど、実際、そうなんだろうね。全ての事象の定めは既に決している。過去も未来もないのだから、当然だね。

 だが、全てが運命だと知っていても、その運命を知り得ないのだから、運命など僕らにはあってなきがごときものだよ」

 ルキフェルが問う、

「んなこたあ、どうでもいい。できたってことで、いいんだな」

 韋究がうなずく。

「これは、人間が人間の野性を封ずるために作った封緘だ。野性は反社会的だ。古くから人類は集団生活をしていて、社会性は重要であった。農耕生活以前であっても、つまり、狩猟生活であっても、社会性は重要で、家族親類縁者の結束が必須だった。

 しかし、牧畜や農耕を進めるにあたって、人間は家族親類縁者を超えた集団生活が必須となるようになった。

 集団生活、又は社会的集団生活をする生き物は他にもいるが、農耕牧畜によって、人間の社会生活は他の生き物よりもさらに高度に洗練されたものとなる必要に迫られた。そのために、我欲や貪り、他者(家族親類縁者以外の者)への無慈悲・無関心が悪徳として緘された。

 獣性が厳封されたのである。

 又、生存という意味では、実はもう一つ別の力が機らいている。植物の力だ。

 もし、種族としての目的が繁殖であるとするならば、中央アジアの高原地帯の一固有種でしかなかった麦の原種が全世界に広まり、広大な繁栄を築いたことは、種としての勝利であったと言えるだろう。あたかも、花が蜜蜂に花粉を運ばせるように、麦は人間を利用して全世界に広まったのだ。それは麦の種としての戦略でもある。

 農耕の広がりは麦や米の勝利でもある。彼らの生存への意志が機らいていたとも言える。天文は植物が人間に霊妙な方法で教えたのかもしれない。

 人間の社会性は麦や米が与えたものでもある。

 それら植物は太陽や月や星の運行と関係深く、又、天空の運行は律を意味し、人間社会の規律に通ずる。人間の社会性は天文の學と深く結びつき、天文の学の強化は理性の根源であり、野性の封印に通ずる」

 甍がそう説くと、ルキフェルは嫌そうに顔を顰め、

「わかった、わかった。で、封印の強化は可能なんだな」

「見てのとおりさ。そうでなくとも、超越のためならば、不可能を可能にする努力を為すべきだ。未遂不收に終わろうとも。

 人はじぶんの頭を踏みつけてでも、今のおのれの上へ、高みへと逝くべきだ。裂き砕いて躍り翔けて舞うべきだ。そう、躬ら敗残の廃人となっても」

 甍は不吉な不安を覚えた。

「さあ、そんな悲愴なことを言うのは止めよう。言靈の力が怖いよ」

 韋究は笑った。

「それも又、善し、さ。

 石に彫られた星座の律(星座は規則正しく運行するからな。星座の意味するものは運命、すなわち、規律だ)に運命のごとく従う植物、その意志を強化する。

 真咒で増強するんだ」

 ルキフェルがひゅうと口笛を吹き、

「お前らにそんな力があるとはな」

 韋究が言う、

「Ὅμηροςがいる。

 彼女の存在が活動停止以前の過去から支援している。時空を超えているからな。彼女の叡智が流出したもの(ヌースnous)となって、僕らのなかに入っている。

 異世界で、どうなるかが心配だったが、杞憂であった」

 甍も同意し、

「本当に、こんなふうにできるとはね。可能性としてはあり得るとは思っていたけれどもね」

「ふ。まるで、神だな」

「そうかもしれない。

 不敬ではない。

 神は全能だ。全て意のままだ。全てを網羅する。遺漏はない。誤りもない。無謬だ。絶対の正義だ。異教も異端もない。背教も異逆もない。むしろ、背教と異逆とを在りとして、躬らを否み、躬らを絶空とする。それは逆に無際限な全肯定だ。

 Ὅμηροςが神のようであっても、不思議ではない」

 ルキフェルは肩をすくめた。もう関わりたくないらしい。

 韋究も言う、

「沙漠に樹木を植えることも、植物の意志を強化することに繋がる。

 そのためには、オアシスを湧き上がらせる必要もあるね。それに加えて、少なくとも、暫くは駐屯が必要だ。石の壁で囲って、砦を築くべきだろう」

「樹木の育成か。ならば、適任者にこころ当たりがある。

 樹木の妖精、一種のエルフだ。その一族の王を呼ぼう。

 彼の屋敷をここに移動させ、緑化させよう。最終的には彼の国の都市機能を移転させよう。遷都だ。大移動が成れば、数十万人の都市になる」

「そういう者たちがここにいるのか?」

「王がいる。たくさんな。王の下には侯がいて、侯の下には将がつく。将それぞれには相応のサムライが属する。サムライは応分の足軽がいる」

「水が湧くといいんだけど」

「何か真言がないか」

「調べてみるよ。意志すれば、必ず叶うような気がする。そういうときって、必ず叶うんだよ。いや、必ずとまでは言えないか。だいたいってとこかな」

 斎戒沐浴の後に、甍が真咒を唱えた。

 滾々と水が湧いた。

 韋究が満足げにうなずく。

「意のままにか。上出来だ。ここをオアシスにしよう。豊かな都市にするんだ」

「では、次の道を開いていただこうか。この先と言うか、この奥については、俺にはわからんのでね。

 ここの封印を維持することは必須事項と聞いている。俺には関係ないがな」

 ルキフェルがそう言うと、韋究が、

「扉だ。眼に見えない扉を探さなくては」

 甍が思考し、

「農耕の以前に遡ると考えれば、狩猟、採取、漁撈だけど」

「むろん、時代に明快な区画があるわけではない。ここの封印の時代も数千年に跨り、農耕時代と狩猟時代が重なったり、前後していたりしていた。

「洞窟だ」

「なるほど。ラスコーやアルタミラ」

「瞑想してみよう」

「ラスコーやアルタミラの洞窟壁画を手掛りにしよう」

 韋究と甍とは、厳しい冬の時代を観た。隕石による、過酷な、暗黒の長い千年間。しかし、普通の氷河期と比べれば短い。ルネ、白憂、紗々火、俠子の四人は興味深く感じて注視している。

「扉だ」

 歓呼の声が上がった。何となく文化祭ノリだ。

「あったね」

「覚悟はいいか? 開けるぞ」 

「待って。その前に新人さんたちを帰そう」

「そうだね。戻っていい」

「え、私たちも」

「もっと確かめたい」

 韋究が手を左右に振る。

「男女同権だが、この場合は、だめだ。こっから先のことを俺らだけでやる」

「そう、そう、責任問題もあるし、今日は帰ってください」

「えー」

「組織で動こうぜ」

「そうです。僕たちは個人の意思よりもチームの意志で動かなくちゃいけません」

「わかりました」

 不承不承帰る。

 見送り終えると、甍は、

「組織と言うと規則でがっちり縛られた感があるけど、チームと言うと何だか、絆とか信頼とか友情とか、人間的なニュアンスがあるね」

「実際、組織と言うと俺たちは大きな単位で考えるし、チームと言うと実務的な専門の小隊を想い浮かべるからだろうな。

 小さい組織にいる人間の考えは別だろうが」

「日本という風土が横文字の呼称に厳粛さや深刻さや暗さが欠ける感覚を抱かせるせいもあるんじゃない?」

 韋究が、

「そうだな。

 じゃ、開けるか」

「うん。そうだね」

「よし、逝くぞ。そらっ」

「あ」

「ぅわ、出たな。案の定だ。ベタ過ぎるぜ」


 真っ黒い大きなもの。

 その大きさは途方もなく巨大だ。無際限の質量。一切が静止する。静止せざるを得ない凄絶な重さ、空間も時間も歪むどころか、無際限に延びて沈み込む。凄まじい重壓だ。

 視界には収まらないが、眼を瞑って感覚の拡張、超感覚で察する。

 荘子の逍遙遊篇に出てくる鯤や大鵬など比ではない。甍が、

「数億光年の超銀河団が連なって構造を做す銀河フィラメントよりも巨大だよ。壓倒なんてもんじゃないね。怖ろしさすら、ぶっ飛ぶよ」

 巨大過ぎて捉えられないが、それが在ることを感じる。混沌としている。無限に奥深い。深淵なる無窮のブラック・ホール。

 誰もが根底から畏怖せざるを得ないも、韋究は強がって鼻尖で嘲笑い、

「あゝ、これが無明って奴だね。生存だ。ベタ過ぎるぜ。これが、もしも、漫画だったら超三流のB級だろうな」

「でも、凄いエネルギーだ」

「そりゃあ、そうだ。無数の次元の層に於ける無数の宇宙からなる全宇宙を、すべての異世界、全並行(平行)世界を生み出した原動力だ」

「これ、どうすればいいの?」

「いや、どうにもしないよ。

 必要なものだ。

 理趣経(大樂金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣品)にもこうある、〝説一切法清浄句門。所謂。妙適清浄句是菩薩位。欲箭清浄句是菩薩位〟とね。ありとしあらゆるものもことも清浄であると説いた。性愛の快楽は清浄で菩薩の境地である。それを得ようとする欲望は清浄で菩薩の境地である、ということだ。

 貪瞋癡の大源泉である無明混沌、大馬力の生存くんを悪者にする訳にも行くまい」


 すると、無明なる混沌のなかから、冷儼儼粛な大審問官(Великий инквизитор)と十二枚の翼を持つ光の熾天使とが二重露出のように重なり合う存在者となって降りて来た。大審問官は赦しと罪について問うために来ていた。

 大磊落が大瓦解したときの大轟音のごとき大雷霆が全宇宙世界を揺るがす。それは大審問官にして熾天使なる者の声であった。

「貪れ、瞋れ、癡かに生きよ。自己の尊厳に狂固執し、他者を全否定し、自己愛自己肯定に盲目となって、世界を軽んじ、生存に妄りに執し、自己保存を哭き狂うほど切望し、大暴虐を働らけ。

 狂躁乱舞せよ。

 プリミティヴに躍れ。躍り狂え。

 おゝ、解脱など、悟りなど、超越だの、脱自など、愚の骨頂。

 なせる者がいるか。

 無駄、無駄、無駄、無駄。愚劣愚昧。

 皆、死ぬ。不死の甘露など偽り。

 そもそも、仏典は釈迦の記したものにあらず。死後数百年ののちに書かれたもの。

 経典など古紙と乾墨の結合体、金や銀を使えば多少の価値はあろうか。はあはっはっは。

 偽善者どもよ。

 もしも、釈迦が存命し、華厳経や妙法蓮華経や般若理趣経や無量寿経を聞かば、さぞかし驚くであろうぞ。

 般若波羅蜜多心経を褒めると思うか。

 皆、宗祖を裏切った大嘘つきよ。笑止、笑止、笑止千万」

 呵呵大笑して嘲った。

 韋究もまた嘲笑を泛べ、

「何を今さら。

 よもやとは思うが、領主のお気に入りの猟犬の眼に誤って、石を当ててしまった少年を母親の眼の前で猟犬の群れに咬み殺させた話を蒸し返すんじゃあるまいな」

 甍は眼を丸くし、

「カラマーゾフ(ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟(Братья Карамазовы)』)か」

 それには熾天使大審問官が応え、

「応ともよ、その問いは未だ応えられていない」

「そうかな。

 現実的には稀有なことだが、『クォ・ヴァデス』のなかで、多くのキリスト教徒がコロシアムで大虐殺されるさなか、じぶんたちを売った男を赦す場面があるが、あれも答の一つじゃないか。

 俺には無理だが」

 甍も同意した、

「家族までとなれば、なおさら無理だよね。それができるのなら、復讐の連鎖も止められるのかもしれない」

 熾天使大審問官はさらに嘲笑う、

「そのとおりだ。

 だが、母は領主を赦せるか。又、赦すのが善いことか。赦すのが正しいか。人倫だの道徳だのがこの世に存在すべき必然性はあるのか。

 もう一度言おう、赦しは正しいのか。

 ただ、社会的な動物となった人間の方便ではないか」

 韋究が皮肉な笑みで片方の口角を吊り上げた。

「かもな」

 熾天使大審問官は口角に泡を吹きつつ、

「かもなじゃねえ。絶対、そうだ。

 社会的に生きるためには、共存のためには、私情や私利私欲を殺し、集団に従順にならねばならぬ、他者に倣わなければならぬ、はみ出てはならぬ、利他のこころにならねばならぬ、寛容と慈愛がなければならぬ、大義に殉じなければならぬ。

 手枷足枷だ」

 さらに激越に昂奮し、

「勢い、自己犠牲が崇高な行為とされる。

 畢竟、それも実利主義、損得勘定、生きるための知恵、生きたい欲望、生存だ。

 だから、人は祭りのハレの日に無礼講をし、その抑圧を一時解放する欲求、必要に迫られる。

 禁欲的理想主義にも限界はある。道を外れる者が多々あることも道理なる哉。人が罪を犯すは当然。人に生まれながらに罪あるは当然。

 さりとても、親子兄弟愛する者への残虐は誰もが赦せない。理不尽ならなおさら。

 おゝ、もしも、それ赦すなら、世界に戰なし。現実を見よ、延々憎み合い殺し合い、復讐に次ぐ復讐、祖は殺され、怨霊と成り果て、親は殺し、子は殺され、孫は殺戮者となる。無限に続き無際限に拡大する殺戮ぞよ。

 この世は地獄、愛別離苦に怨憎会苦、求不得苦に老病死苦、五蘊盛苦の塊ぞ。

 どこにも答はない。答える資格のある者もない」

 拍手喝采、大歓声とともに出るわ出るわ。歴代々の怨霊悪霊、凄まじき哉。何十年何百年前から、いやさ、数千年来、数万年数十万年来の大悪怨霊ども。

 続いては、彼らの眷属が次々とあふれ、あらわれる。異界の魑魅魍魎、乱痴気騒ぎの魔王の行列、百鬼夜行、蠍、ムカデ、毒蛇、蜘蛛。

「凄いね、どうしよう」

「ううむ。

 幻、陽炎、夢、鏡像、蜃気楼、声の響き、水月、水面の泡、虚空華、旋回させた松明の炎の軌跡が作る光の輪、と言うのは簡単だが」

「無理」

「ええい、では。

 なうまくさまんだぼだなん、南麽三曼多勃駄喃(十方の諸仏に帰依したって祀る)」

 言靈が八葉院を做す。それを中枢として黄金の胎蔵界曼陀羅が宙空に立体的に映じ、廻る。次に九字を斬る。

「臨兵闘者皆陣列在前」 

 金剛界曼陀羅があらわれる。

「これでどうかな」

「韋究、いつの間にそんなことが」

「いや、できそうな気がしたらできた。そういうもんだろ」

 十二枚の翼を持つ熾天使と大審問官が二重露出になったフォログラム的存在者が印契を結ぶ。

 たちまち、空を覆い尽くすようにエントロピーを大膨増させる無明の黟黒い大混沌が呑み込む。いとも簡単に。

「無駄っ無駄っ無駄っ無駄っ。愚かっ愚かっ愚かっ愚かっ。さようなものでよくなろうものなら、世は疾うに善くなっとるわ。ぐわっはははは」

「ち、言うと思ったよ。そりゃ、そうだ」

「呑気なこと言ってる場合じゃない、韋究、どうしよう。やっぱり生存には勝てない。生存が海なら僕らは水面の一片の枯葉だ」

「負けだな。勝つ気がしない。これも大自然の大摂理。どうして人間が勝てようものか。時節を待つしかない。未だ超越の時季・季節ではないのであろうよ。そもそも、人類全体としては未だかつて勝ったことがない。

 やがて、時季・時節が来れば、超越するであろう。

 時季・時節が来れば、生物は超越する。

 鳥はある日突然、飛べるようになったのではなかろう。しかし、飛べる方向へシフトした瞬間があったはずだ。ほんの微かに。

 ここで斃れても、それはもう仕方ない。何世代か先に勝つかもしれない。そのための礎さ。一層のこと、死ぬる方へ向かうか」

「鳥か。

 いつかそんな話をしたね。しかし、それにしても、何だか、本当に『葉隠』みたいになっちゃったね」

 甍もそういうきぶんになってきていた。きぶんとは、そういうものだ。そういう瞬間がある。

 韋究はうなずき、

「生命を充実させよう。この一瞬で百年分くらいを生きるつもりで。魂の宇宙を熾え上がらせようぜ」

 深く呼吸する。背中や踵で息をする。土踏まずの湧泉から氣を吸い上げて顱頂から抜く。臍下丹田に氣を込める。

「いいよ」

「逝くぜ」

 破れかぶれに突っ込んだ。激突、裂かれる。裂かれ砕かれた骨が相手に刺さる。槍のように貫く。

 肉は牽きちぎられ裂かれ、燦々とあざやぐ眩きリアル。大自在の超越感覚、天高く舞い、光爆の炸裂。

 大エネルギーが無際限にばらばらに勝手な方向へ吹き荒び狂いぶつかり交差し入り混じり反撥して背き弾け爆ぜて拡がった。無限の拡大。過剰なる自由奔放。零になる。絶空となる。

 だが、その瞬間。

 全てが消えた。何もない沙漠に戻っていた。

 二人はしばし茫然としていた。

 渺茫とした沙漠がただ在る。ようやく韋究が言った、

「何もない。ただの沙漠だ……。あゝ、助かったぜ。死なんとすれば生き、生きんとすれば死すとは、このことか。

 まあ、平凡な日常もビッグバンから生まれたんだからな」

「あー、何だか祝福されたきぶんだよ。生きているって、祝福なんだな」

「そうかもな。

 でも、さすがに全部がそうとは言えない。病や拷問や災害や戦争のときには、生きていても祝福とは感じられないだろうぜ」 

「そうだね、実際、今の僕らも何も全然解決していない。前につんのめって斃れた、それだけだ。

 結局、未遂不收、ってことだね」



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