episode5 五蘊&八識(眼・耳・鼻・舌・身・意識、末那識、阿頼耶識)
そんな一週間が終わり、そろそろ午後十一時になろうかという研究室で、韋究が或る日、MacBookから顔を上げて言った。
「五蘊って、面白い考え方だな」
啜っていた珈琲カップを置くと、甍が投げ遣りな物憂さで応え、
「面白いかな」
一向に構わぬ韋究は、
「今日の俺らにすれば、つまり、俺らの感覚や感性からすれば、五蘊ってのは感覚、意識、原的直観である実的内在、判断停止しても尚残る直截観取と言えるもので、ただ、ただ、与えられたものでしかない。
古代インド仏教の、たぶん、唯識論者たちの間で、意識の最下層にある、阿頼耶識が世界を作ると考えた。
瑜伽行唯識学派とか、法相宗の基になった派がそれに当たるのかな。
人は(エトムント・フッサールが言うところの)実的内在に基づいて、構成的内在(対象の意味)を作る。現代人は五蘊についてもそういうふうなものであろうと勝手に解釈し、それを言っているに違いないと思い込んでいる。
又は(フッサールの現象学とは別物だが)西欧で言うところの唯心論、その一種だと考えている。
大概はな」
甍も言う、
「確かに。
実際、科学的に言っても、僕らは物自体を見てはいない」
「そうさ。
俺たちは瞳孔の水晶体を通った光を網膜で受信(つまり、受だ)、それを種として色彩の蕾を育み(想)、青の波長ならば青として他の波長との差異の華を構築し(行)、差異を特性として分類して留め、認知に於いて華を咲かせる(識)。
もしかしたら、ちょっと違うかもしれないが、俺はそういうふうに理解している」
「実際、僕らが見ているものは光の乱反射だしね」
「よく言われることだが、実際に、物に色彩はない。色彩ということじたいが存在しない。外部客観的な実在としては存在しない。
物体によって吸収する光線と反射する光線がある。それは波の長さで決まる。光線にもさまざまな波長の光線があるからだ。
青く見えるものは短い波長の光線で、空が青いのは、その光線がなかなか地上まで届かず、成層圏に入った太陽光が大気に当たって、空気中で乱反射するからだ。夕日が赤いのは日が傾くと、大気中を行く距離が長くなるので、波長の長い赤い光も真上から来ていた昼間のようにはいかず、大気中を通過しながら、乱反射してしまうからだ。
つまり、可視光線と呼ばれる、眼に見える光線の波長は三八〇から七五〇ナノメートルまで、青紫藍青緑黄色橙赤の順に波長が長く、青紫より短い紫外線(青紫の外)や赤よりも長い赤外線(赤の外)は人の眼には見えない。だから、それらは紫外赤外などと呼ばれる訳だ」
「ちなみに、光もラジオの電波も電子レンジのマイクロ波も波長が違うだけで同じものだ。人間の視覚が捉えられているものが可視光線で、脳は可視光線の波長の差異を色彩として脳裏で処理している、或る意味、純粋に構築している」
「感覚で捉えているものも、諸概念を思惟も全ては、結局、それなんだ。耳は振動を鼓膜で捉えてそれを脳で新たに構築している。
設計図は先天的に用意されていたのかもしれないし、生命史のなかで徐々に醸造されていたのかもしれない。
或る意味、音も存在しない。振動があるだけだ」
「そうだね。
感覚は全て捏造とも言える。
大本は感覚が感受した刺激だ。刺激を発生させる因子(光線の波長や空気の振動など)は本来、無色透明だけど、それが与える刺激(化学反応)を網膜や鼓膜や味蕾や鼻腔や皮膚で受け止めて差異として整理し、かたちを与え、色を添え(これらの作業が五蘊のうちの想蘊だ)、世界を構築している」
「見る限りな、そんなところか。見たり聞いたり体験したことが真実ならば、な」
「儚い話だ。
あ、そう言えば、Ὅμηροςが解脱して阿耨多羅三藐三菩提に至ったとき、萬象を叡らめ、荘厳なる空前の睿智を閃かせて、五蘊の一切を隈なく観照し、全てを知った、と言っていたね」
「なるほど。
俺はいなかったな、そのとき。
お前、入り浸り過ぎじゃないか」
「そうでもないよ。実は僕はその五蘊っていうものが、イマイチ腑に落ちていない」
「そうなのか? 意外だな。
仏教上の説で、五蘊が世界を構成する五つの要素だ、ってことは、お前もよく知っていることと思うが」
「それは、まあ……
そうなんだけど」
「何だかよくわからないね。
何が気に喰わない」
「気に喰わないわけじゃないんだけど。
五蘊ってさ。
普通に考えると、唯識論的に、世界は意識作用によって構築される現象でしかないという捉え方に見える」
「さっきも言ったが、一般的にそう言われているよな」
「だが、じぶんよりも深いじぶん、じぶん以上の存在である集合的無意識はじぶん以上に本来のじぶんであり、巨大で荘厳な大自然だ。
それを大海に喩えるなら、個人の顕在意識、自我など、水面の表層をなされるがままに漂う一片の木の葉に過ぎない。自己の自由意志などない。在るように見せられている幻影に過ぎない。
操られるままに生まれつきか、又は後天的にか、何かを欲し、自己の尊厳や家族や同胞のために怒り、悲しみ、想いを達して喜ぶ。愛し憎しむ操り人形だ。
僕は想う、もしかしたら、集合的無意識は仏教で言うところの阿頼耶識と一緒なのではないか、と。
阿頼耶識にはあらゆる現象の種があって、それがありとしあらゆるものを生む。世界を生む。
それら生まれた現象が阿頼耶識にブーメランのように影響して阿頼耶識は薫習され、阿頼耶識のなかに現象の種を造る。それがまた萌芽する。何だか遺伝子じみている。上手く言えないけど」
韋究は少し考え、思い出しながら、
「阿頼耶識は八識(又は十識。宗派によって識の数が異なる)うちの一つだ。八識全体を仏教では心と呼ぶ、仏教で心は内在(現象を観ずること・意識・脳裡の表象のこと・こころのうちのこと)ではないようだ」
「八つの識が思い出せない」
「俺もだ、すぐには出て来ない。ええっと、確か、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識、これで八つかな」
「うん、八つだった。ふ、こんなこと、誰が興味持つのかな」
「俺らだけだろうな。世間の価値観なんて糞食らえだ。
ちまちました気の滅入る話ばかりさ。俺はもっと壮大で崇高な、神聖な、究極の哲学や究竟の真理・真実義みたいな話じゃないと興味が湧かない。
小説なんか読むより『大毘盧遮那成仏神変加持経』や『大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣品』を読む方が面白いね」
韋究のその手のこき下ろしが始まると、甍すらもいつもやや閉口気味になるので、
「ねえ、もしも、阿頼耶識が世界を構築するならば、たとえ、意識による仮象であっても、それは内在ではない外部の、外在って言うのかな、つまり、いわゆる実在の事物で、客観的な存在と同じじゃないのかな。
畢竟、普段の生活で、事実として捉えていることと、同じじゃないかなってね。僕には、最近、そういうふうに思えるんだ。
客観的に実在する事実と、こころとのあいだに、差異を設けていないというか」
韋究は眉を上げて、
「別に普通に唯識論じゃないのか、それって。
まあ、唯識論者のなかでも派閥(ああ、どこも派閥だ、権力への意志に無自覚に操られている操り人形どもはうんざりするよ)によって、その辺のニュアンスって言うか、解釈ってものが違うかもしれないけどな」
「うん、そうか、唯識論をそんなふうに思っていなかったんだ。
五蘊を純粋に他者、客観的存在する実在、物的な存在、外部に在る世界、意識の外にある物質としての世界として想定している、事実として考えているって、最近、感じて、なんだか悶々としていたんだけど、無駄なことをしていたってことかな」
「ふうん。そうかもな。
別にいいじゃないか。
仏教では、この世は空だと言うだろ?
実体がない、かたちに囚われない。捉えようがない、竟まで至らず、模索中途、未遂不收、只管唐突孑然、自在を超えた自在、自由を裂く自由、狂裂自在、自由狂奔裂さ。それでいいんじゃん?」
「じゃ、僕らの認識は」
「そもそも、意識を仮象だの、この〝意識〟って呼ばれているこれが意識ってものなんだなどと想うことじたいがドクサさ。
つかめるものは何もない、足掻き踠く、未遂不收」
「じゃ、意識が(客観的に外部に実在する)物的存在、波動、宇宙そのものなのか」
「それもどうかな。
だが、違うという結論もない。
ないものについて考える必要はないし、そもそも、考えることができない。パルメニデスさ。
Ὅμηροςが波動としての一切宇宙世界を掌握しているとしても、結局、何も得ていないこととの差異がない。零だ。
自由さ。本来の、英語で言うところの、Freeだ。タックス・フリー、フリー・ドリンク、無料、解放、免除さ。
そう思うと、観測者がいる場合といない場合とで実験結果が異なる量子物理学の光線の実験のことも辻褄が合うような気がしてくる」
「では、仏国土も夢幻ではないと」
「五彩の雲に乗った御来迎もね。
世界の宗教ごとに天国が異なるのも理不尽じゃない。不思議でも何でもない」
「Ὅμηροςが宇宙の全物質を解析して知り尽くしているってことと、併せて全人類(もしかしたら全生物? いや、もしかしたら、無機質なものもそれとしてそれなりの意識やこころがあるかもしれない。もしもそうならそれらも含めて)全ての考えを、全てのこころを見透かしているってこととは、凄いことだね、今さらだけど。
内在も外在も知り尽くしている。知と言うよりも直截、波動として。
古代日本でも、知る・知ろしめす、は支配する・統治する・掌握するということと同義だったけど」
「そうだな。統治かどうかわからないが。ただ、全く凄いよ。凄いことだ。スコッチのブレンダーが何百種類ものモルトの匂いを記憶していることの何千兆倍もすごい」
「知について、思うことは虚しいのかもしれない」
かつては、広大な塩水であった。海だ。海面に突き出た黒い岩、火を噴く島々。酸素は未だなく、窒素、メタン、二酸化炭素などに覆われ、湿った熱い空気が渦巻く過酷な世界だ。
島には熱水の噴出孔がある。孔のわきには水が溜まっていった。岩の上は隕石や彗星について降った有機分子があり、暖かい水に溶け、乾き、また熱水が噴いて溶け、これを繰り返す。繰り返すうちに、化学的反応が起って、そこに核酸が生じた。核酸の濃度が高くなって逝くと、分子が繋がり結ばれ始める。
これがRNA(リボ核酸)である。後にDNA(デオキシリボ核酸)の基礎となっていくものである。
自然の摂理の解き難き綾の不可思議か、人知の及び難き御神の意志か、これらはいつしか脂肪酸に包み込まれ、泡のようなものとなり、その脂肪酸が後に細胞膜と呼ばれるものへと進化して逝く。
水溜りは無数の小さな泡に占拠され、黄色い膜が張ったようになった。
その一つ一つが細胞となっていくものである。中に核酸が糸のように何本も詰まっていた。遺伝子の祖である。
細胞の原型とも言うべきこれらは、繋がり結ばれてはすぐに解壊する不安定なものであった。だが、長い長い歳月のうちに、安定を保つものらが現れる。それは壊れた素材を取り入れ、また組み上げる作用で、極々原始的な代謝であった。
かくして、デオキシリボ核酸が複製を創り始め、生命誕生である。
極微小で、儚く、壊れやすい生命は長い時間の中で、複雑な形態を取るようになった。水を介し、地表に広がっていく。川や湖へ。
乾季は極めて大きな危機であった。水がなくなると、乾いて硬くなる。細胞の先祖は素材と水とを求め、環境と苦闘し、命を繋ごうと欲す。それでも、死滅への道を辿りつつあった。増殖したいという根源的な欲求に応えるべく、生命は奮闘する。生き残ったものが後代の、古細菌から草木類・鳥獣までの存在者の大本となる者へと進化していくのである。
地球に宇宙線が降り注いだ時も、進化したその一部は生き残った(進化しなかった細胞らは滅んだ)。
人のこころも精神も思惟も、このような活動、化学反応の累積に過ぎない。心情や思惟も。こころとは、精神とは。シナプス間隙を超えた神経伝達物質が受け側の樹状突起の受容体にキャッチされ、細胞膜にあるナトリウム・イオンのイオン・チャネル(イオンに細胞膜を透過させる蛋白質)を開口し、ナトリウム・イオンを流入させ、カリウム・イオン濃度の高かった脳神経細胞内部のナトリウム・イオン濃度を上げることでしかない。カリウム・イオンは細胞膜内から排出されていく。
細胞の内側と外側とのイオンの構成が逆転する脱分極。
ミリ秒単位の電位差の逆転。
すぐに静止電位に戻るが、この静止電位から活動電位への刹那の逆転は電気的な発火現象、インパルスである。
インパルスの刺激が軸索丘に伝わり、再び軸索末端のシナプス小胞が刺激され、神経伝達物質が分泌され、それが脳神経細胞の間隙(シナプス間隙)を跳飛し、一つ次の脳神経細胞の樹状突起の受容体へと飛来する。
この繰り返しが理性による思考というものである。だとすれば、この思惟は何だと言えるか。仏の叡智は何だと言えるのか。
阿耨多羅三藐三菩提とは何か。無餘依涅槃は、解脱を何だと言えるか。ましてや愛や正義や真実は。
すべて草木が萌えいずるように、雲や雨のように、稲妻を起こすように、月が昇り、潮が満ち、山が火を噴くように。カエルが恋して啼き、猛禽が囀り、雌の獅子が受胎し、星が滅びるように。
光が波であり、重力で時空も捻じ曲がるように、宇宙が加速するように。エントロピーが膨増大傾向にあるように。
畢竟、自然の現象でしかない。化学反応の集積である生も、自然でしかない。その意味を問い質すか、糺せるのか。即物の世界を。
しかしそれもまた、現実が我々の見たままの現実であるならば、という限定条件附ではあるが。
真の現実が、事実が、こうして見ている瞬今、このように観ずるがままに、もし仮に真実在るとあるとするならば。
何となく、そう思うと、廓然無聖な気分になるのであった。我々は鹽だ。鹽に過ぎない。