episode4 死と時間性 彝之靈(いのち)
黄昏の刻。
全てを飲み込むような黄金の一瞬。
天地の氣が大きく移り変わる時刻、陰と陽との分かれめ裂けめ、時空の亀裂の歪みから魔や魑魅魍魎があふれる。光の遷移は早く、たちまち星を鏤めた闇の帷がグラデーションを做す。没陽が漆黒の深みに溶けて逝く。
やがて、不穏な満月が存在をあきらかにし始めた。朧で雲を裾のように引いて、虚な髑髏の眼窩のようにも見える。
甍は不安に襲われた。どうしようもない、得体の知れない、いたたまれない不安だ。何もつかむもののない空間で、ただ、ロープのみを踏んで、千尋の谷を渡るような、実際に中華人民共和国にあるような桟道を、岩山の絶壁にしがみついて逝くような、身もすくむような、逝くことも戻ることもできない絶望的な状況の、不安。
以前はときどきであったが、最近は頻繁に在るような気がする。数えてないが。原因も理由もわからない不安。
世界そのものに違和感があり、どこに行きついても仕方がない、どうにもならない、ただ、丸裸で無防備に、安定もなく、どれも確かではない、いや、どう言おうとも、正確に言えない不安。
誰もが完全に安全ではない。当たり前のことだが、皆がそれを切実に日常的に感じているとは思えない。戦場でもない限りは。
平時は皆それを忘れ、明日が確かであるかのように笑い、生きている。
ああ、確かさをつかみたい。真理真実を具現化したい。真の幸せを。
それは民族の想いでもあった。
真理を探究し、真実を知覚する。究極を究竟する。それが眞神真義塾の真髄であり、歴史的に続く精神であり、研究所の設立目的だ。産業も科学も数学も物理学も関係ない。国の補助は一切ない。
大学のようだが、学校法人でもない。研究員たちは学士ですらない。
そもそも、眞神族は日本人ではない。
太祖イージュは、眞神族の初代王である彝玖邇の遠い祖先で、紀元前五万四千年前に眞神族をまとめたという伝説上の族長。最高神である彜韋彝彝爲啊ゑえ烏乎甕(いゐあゑえうをお。彝韋彝の三文字で〝い〟と読む。眞神族の最も聖なる音〝い〟を荘厳してそのように表記するのである。又、彝爲の二文字で〝ゐ〟と読む。別に、彜韋彝ヰ啊ゑえ烏乎甕、又は彝ヰ啊ゑえ烏乎甕という表記もある)の末裔であると伝えられる。
眞神族が日本へ渉って王朝を建てたのは、眞神暦七三六七年の戊辰年甲寅月朔(紀元前七百十三年一月一日)とされ、第三六六代王、神彝彌眞斗の時代である。上陸地が現在の眞神郡であった。
その発祥は紀元前五万四千年以前に遡る(古代エジプト人の祖先が現在のエチオピア連邦民主共和国、スーダン共和国あたりから移動して来たのが紀元前三万五百年頃、定住が紀元前一万二千年頃と言われる)。文献資料のみで、長い間、伝説の域を出なかったが、最近、南アフリカのカラハリ砂漠とナミブ砂漠の間に位置する洞窟で眞神文字が発見され、その顔料に使われた植物の分布年代と、生贄と思われる動物の遺骸の痕跡から、放射性炭素年代測定により、その年代が確認された。
ナミブ砂漠は世界最古の砂漠であり、ナミブとは、その地域に住む人の言葉で「何もない」という意味である。なお、カラハリ砂漠には、遺伝子解析の結果、人類の祖先、最古の人類とされているサン人が住む。
眞神族はその後、紀元前一万八千年頃から牧畜を始め、紀元前一万四千年頃に農耕を始めた(古代エジプト人ですら牧畜が紀元前一万年頃、農耕が紀元前八千年頃)。
農耕作業は独りで行うよりも、集団で行う方が効率良い。一人の仕事が一だとしても、十人の仕事は十ではない。十五であり、二十でもある。百ならば三百や四百かもしれない。
その理を覚り、眞神族は集団をなし、集団が大きければ大きいほど、富を生むことを知る。灌漑や貯水などの土木の技術や、種蒔きや刈り取りの時期を把握するための天文学も発達する。
又、人口の多さは軍力をも保証する。古代エジプト王国は肥沃な広い土地と、ナイル川の水とアフリカの日光とに恵まれ、巨大な農業国家となり、大人口を支えた。周囲の国に対し、圧倒的な人口を誇り、巨大な軍隊を編成した。兵士らは縦に百人、横に百人をならべ、一万人方陣を以て他国の軍隊を踏み潰した。
紀元前八千年頃(眞神神統記に拠る眞神元年、齊暦元年、西暦で言えば紀元前8079年。ちなみに西暦2023は齊暦10106年)、遂に王朝が建つ。
眞神族の古来の最高神いゐあゑえうをおの真義に還るべく、世界を真実の世界へと戻すべく、暗黒と非情と無明の激暴流に筏を泛べ、棹を差すように、心機を以て、世界を建築すべく魂を滾らせる、彝玖邇という偉大なる王が現れ、眞神之国を建国した(古代エジプトで集落を作り始めるのが紀元前五千年頃とされる。その原始王時代はさらに紀元前四千二百年以降のことだ)。 なお、眞神之国の場所は特定されていないが、一説には、現在のチャド共和国、もしくは中央アフリカ共和国あたりと言われている。
彝玖邇の系譜は、彝之家として現代まで続くことになるが、〝い(彝)〟は聖なるものを顕し、当該する概念がないため、ナミブと同義ともされることもある。
周辺に巨大王国や帝国ができ始める時代になっても、彝玖邇の王の子孫たちは巨大国家を作ろうとしなかった。
多くの成功した権力者たちは、財を増やそうという欲望、尽きぬその欲望と、自己肯定の頂点を目指す権力の欲望と、巨大化し続けなければ滅ぼされるという自己保身の本能から、より巨大な国を目指していた。頂点に達して眼の眩まなかった者はいない。忌むべきかな、自己荘厳。
愚かな帝国が次々生まれた。
信頼で結束された眞神族たちは、権力を争うことがなかった。全ては龍肯の叡智のためであると言われる。
そして、戦いを愚かな浪費として避けた。他国の人々は言った、「それが避けられないから、皆、戦うのだ、国を護るため、国家の栄光、王家の栄光のために。外交策などで、いつも善く收まるものか」
真にさようである。常に旨くいくとは限らなかった。
真理の力を求め、眞神族は遁げることを択んだのである。
世界最古の民族、世界最古の国家は史上空前絶後の莫大な富を有していた。
莫大な富を持つ眞神族は征服の対象とされた。周辺国からは錬金術を持つと見られていた。エジプトの王やアッカドの王が彼らの富を狙った。彼らは大陸を東へ移動した。それは東の涯に聖なる文字と同じ形をした岩山が屹立すると聞いていたからだ。
日本海を渡って、その聖なる山をも見つける。それが眞神郡の眞神山である。
正確には山と言うより、正立方体の奇妙な大巖。六面が等しく正方形で、十二辺の長さが等しい一個であった。地上に出ている部分だけを見ると、やや縦が短く、少し潰れたせい立方体に見える。一個の巌であるその山は、その上に、大きくて自然な形状の巖を一つ載せていた。
それは横に長い巖で、おおよそ立方体だが、その下になっている大巖に比すれば、切断面のような劃たる立方ではない。起伏があり、凹凸があり、裂け目があり、孔があり、罅割れがあり、見た目も実際も、全くの自然石だった。
龍神が逆立ち、稲妻のようなかたちの亀裂があり、彝龍之裂と呼ばれた。祭祀の痕跡があり、古代信仰の対象であったことが偲ばれる。
面積は大巖の切断面より大きく、巧く真ん中に置いてもはみ出すものであったが、大いにずれて載っているため、はみ出す部分は黒い流旗のように、棚引いているかのように見えた。
ちなみに、大巌は〝い(彝)〟を表す眞神真古文字I(紀元前二千七百年以降は、Ⅱ と表記され、紀元前五百年以降はI。紀元三世紀以降は、彝。紀元十世紀以降、い、イ、〆 )に似ている。
「これぞ真究竟の真実義である。我が民族の未来永劫の勝利は遂げられた」
それが紀元前七百十三年のことであった。
周王朝が大陸から交易を求めたり、侵略しようとしたり、何度か接触や交渉や侵攻があったが、結局、中華民族は断念した。
時代が下ると、東夷として、大和朝廷の征伐の対象となった。眞神族の力を削ぎ、巨万の富を掠取せんとする朝廷との緊張は深まって逝く。
「いざ、戦をしようぞ。しかし、勝利は得策ならず。敗北に巧みをもって平安を築こう。ここを永劫の地と定めた以上、この地での争いをこれで最初にして最後としなければならない。
勝てば相剋は永遠となってしまうであろう」
眞神軍は火々禽之柵の戦いに敗れ、仏教への改宗を命ぜられ、又、朝貢する関係となる。眞神族は年貢として朝廷に莫大な金を提供する約束をした。以来、眞神の特権は護られた。しかし、搾取は年々厳しいものとなる。
その後の武士の時代、頼朝や家康の時代はさらに過酷であった。
特に、江戸幕府の施策は屈辱的でもあった。百貫の金塊を毎年納めるというはよしとしても、言語や文字の禁止、文物の焼却、聖地眞神山の封印は民族の尊厳を毀損した。理由は、怪しげな霊威で、都の帝の神徳を曇らせたというものであった。
眞神の王家はその時代、古代に支城として使っていた尖刀石山という、大岩を積み木のように積んだ砦に、屋敷を構え、町を作り、一万年来の戒めを護って只管時節を待った。
そして、予め時勢を見抜いて幕末以前から長州藩と誼を結んでいた眞神人たちは、明治十三年、遂に自由を勝ち取ったのである。眞神の御山に還った。
日本仏教への信仰は強いられたものであったが、眞神族は本来、仏教を崇敬していた。南アフリカ、中央アフリカ、エジプト(BC6000)、リビア(BC4500)、クレタ島(BC3500)、マケドニア〜ガンダーラ地方(BC2500)、インドを経て後、海を渡り、日本に来た眞神族だが、紀元前千五百年頃、ヒマラヤ山脈に近い北インドに残した思想が仏教の源の一部になっているとも言う。そのようなゆかりがあったことも崇敬の機縁であった。
眞神郡龍呑村に龍峯寺と云う古刹がある。
創建は崇神天皇三十四年で、竺法護が翻訳した『維摩経』、『光讃般若経』、『十地経』、『正法華経』を、最新の経典として、天平雀存が西晋(中国)の洛陽から、持ち帰ったことを機に建立された。眞神の神の御社がその祖型である。
なお、竺法護は鳩摩羅什以前の訳経僧で、西域(敦煌)月氏の家系である。鳩摩羅什以前の訳を古訳と云うが、竺法護は古訳界のビッグネームであったゆえに、眞神族からも、大いに注目されていた。仏教が日本に渡来する遙か以前である。
ちなみに、眞神の彝之斗々武は生前の仏陀と天竺で直截会い、談じている。
枯渇することのない巨万の富によって、国家の補助なく、企業との提携なく、何処からの資金供与もなく、自由に研究できる立場であった。
古代からの既得権で、その大部分が税を免ぜられている。特に王政復古以来、大和朝廷との約定が復活、有効化し、以降は時々の政権に左右されない。
そうでなければ真理の探究などという研究が、こんな大規模な施設でできようか。
論理による思考を超えなければ、Ὅμηροςを理解できない。
いや、Ὅμηροςを理解できるとは思っていないが、彼女が、いや、解脱が求むべきあるべき姿であることは、直截的に明晰判明であった。
翌朝、ミーティングの前に二人は打ち合わせた。
「昨今のことではないが」
と、韋究が言い掛けると、すぐに甍が、
「もう何十年も前からだよね」
韋究は顎に手を当てながらうなずき、
「うむ、量子コンピュータなどの大本となっている量子論がこの百年餘りの間に、ニュートンが唱えた古典的な時間や空間への意識を、普通の人が未だに抱く現実認識を根底から変えるようなテーゼを示し続けている。
だから、新たな認識の領域に入る必然性があった訳で、俺たちの研究所でも、かなり前からそう言い、言われ続けているが、一向に進んでいなかった」
翌々日から早速、大会議は再開された。
何事も慣例や諸規則・諸手続きに捉われぬ眞神流のやり方だが、それにしても迅速な動きだ。幾条かのことが即決した。
「実在が客観的に他者・外部として実際に存在するということを絶対基礎として進む客観的科学の解釈を是正し、実証主義的な科学的見地から脱却する」
「実体の不在性、諸概念やありとあらゆる名称に相応する実体があると決め込む考え方の根本是正」
「あらゆるドクサの洗い出し、明晰判明・疑いようがない確信・当たり前という構造への批判、真否という設定への批判、懐疑という存在への疑義、その在り方への根底的な問い直し」
「Logic・Logos・理というものじたいの起源及び根拠の不明、不完全性、及び思惟について検討し、従前の根本認識を批判する」
「科學・数學・哲學・宗教・藝術の融合。大統一」
「新たな地平の探索、発見」
「古代宗教の探究。その起源と構造」
「弱肉強食の過酷な野生のなかを生きていた人間が連綿と続けてきた古代の密儀の意味、その実効性、功利性を究明する。
なぜ、どうやって、それを観取したかを追求する」
それらを突破口にしようとした。
早速、韋究と甍とが動く。
神社仏閣を中心に各宗教施設や遺跡、歴史的建造物、博物館や美術館など、国内外を問わず、古代の図書館を渉猟する賢人であるかのように廻り、新しい思考への突破口を探した。
韋究は密教に傾倒した時期もあった。
密教の立体曼荼羅などに興味を示し、言説ではつまらなくても、エポケー(判断停止)によって、
「仏・菩薩・明神・天神・天などの木彫像による立体曼荼羅や絵図による金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅から直截観取される何かが会得できまいか」
又、禅宗にも興味を寄せて参禅などし、枯山水に何かを観ずるも、
「先人を超えることすら叶わない」
そうぼやく。結局、成果はイマイチで、
「何となく、今まで得られなかった視点は得たけれども……。
ふ。そんなに簡単にできれば、何十年も修行しないよな」
飛ぶ鳥を見て、韋究がふと言った。
「鳥は、なぜ、飛べるようになったのだろう。なぜ、飛ぶなどという、突飛な、途方もないことを思いついたのだろう」
それに甍は努めて応えようと、
「鳥の骨は空洞でスカスカ、非常に軽量だ。軽くて空気を捉えやすい羽で覆われている。脚も細くて軽量だ。
全て飛ぶことに特化している」
「それは俺ら人間の意識、言葉、概念、イデア、考えさ。人間のロジックだ。
コンダクターがいないのに意思があるかのように見えて、不思議に思えるんだ、人間には。鳥本人が意図しているとは思えないし、しかも一代ではなく、何代にも渉る作業なので、到底、鳥本人の意思ではあり得ない。
突然変異と自然淘汰、その無数の繰り返しのうち、生き残れた者が今生き残り、また滅び去り、変化しようとしている、そういうふうにしか俺ら人間には見えない。
だが、実際は、全く違うことなのかもしれない」
「そうかもしれないけど、それはもう想像を絶するよ。やはり僕らは真理に到達できない運命なのかもしれないね。
僕らの眼には、まるで、何か意志があるかのようにしか見えない。あたかも、設計者がいるみたいに。
考えて計画しないと、とてもできそうにないことだと想ってしまうことじたいがドクサなのか。生の意志のようなものがあって、生き残ろうとしていているようにしかみえないことが」
「しかし、確かに偶然の積み重ねと考えることも、不自然だ」
「神の意志かな」
「まあ、意志というものを俺らの意志と同じように考えると違和感があって、そういうふうに考えたくなるのさ。だが、それは逆だ。
むしろ、先方がオリジナルで俺らの意識が末端だ。異種亜流非本来だ。
実態の実在のあり方に合わせて考えるべきで、通常の人間思考や論考で考えるべきじゃない。
鳥が飛ぶことを直截観取で、言語や概念に変換せずに、実在のままに思考し、考えるんだ。それは、我々が普通に想うところの考えではないが。
直截取得する、それが直観だ」
彼はそう言った。
比叡の山を訪れたとき、甍がふと言った。
「小林秀雄の文章に『無常ということ』というのがあったが」
韋究が汗を拭って不機嫌に、
「あったよ。それがどうした」
「うまくいかないからって」
「喧嘩腰になるなってか? まあな。それも又善し、さ。で、何だよ」
「日吉大社の辺りを」
「あー、そうだったな。青葉が太陽に光るのやら石垣に苔のついているのやらを眺めていたんだよな、確か」
「そうしたら、突然、『一言芳談抄』の文章が浮かぶ」
「浄土宗の高僧の法語ってのか、片言隻句ってのか、そいつを不詳不明の遁世者が百五十だか、百六十だか、集めた書だよな」
「鎌倉後期、吉田兼好も読んだと、書いてあったね、『無常ということ』のなかに」
「思い出した。
偽って神巫の真似をした若い女が十禅師社の前で鼓を打って「とてもかくても候」と歌ったって話だ」
「青葉や石垣を無心で眺めているときに、その短い文章がその時代の絵巻の残欠でも観るように浮かび、文のセンテンスが古図の細い線をトレースするように心にまざまざと染み渡った、っていう文章」
「生死無常の有様を想うに、現世のことはとてもかくても候、来世を救いたまえ、っておちだよな」
「オチって……。美しい文章だと思わないか」
「どっちが」
「どっちもさ」
「異論はないが、今それが何だ?」
「同じ場所にいるし、追体験のような、時空を越えた感覚が繋がる」
「ふふん。
さすがに思い込みだな」
「それでも真実はあるさ。
それが真実であるかどうかはリアルであるかどうか、真であるかどうか、直截であるかどうか、ヴィヴィッドであるかどうか、鮮烈であるかどうか、超越であるかどうか、光燦であるかどうか、自在狂裂であるかどうか、自由狂奔裂であるかどうか、生命であるか、いのち(彝之靈)であるかどうか、それで決まる」
「なるほど、もう、それは冷暖自知で、本人にしかわからないよな。そこまで疑いようもなく原的で、リアルだっていう訳か」
「そうだよ、不思議だね。なぜ、そんなことが起こり得るのか」
「そうかな、さほど不思議に思わない。実際、俺らは三次元を遥かに越える多次元、七次元や八次元の空間、十次元の空間とか、もしかしたら、それ以上の多次元空間を生きている。
時間すら一次元ではないかもしれない。そうならば、過去は未来かもしれないし、過去も未来も同時進行しているのかもしれない。自由さ。
そんなことがあっても、不思議はない」
「時空を越えて。時間や空間というあり方を超えてか」
「それはわかり切ったことだろう。
実際、思惟や体験などの知覚は光よりも速く、時空を越える。古代インドでも、思惟が何よりも速いことは意識されていた。意のように速く、と喩えられる由縁さ。
意識は多次元世界で融合している。
それは哲学を新たな地平へ導き、芸術に新しい知覚の扉を与え、神や霊や宗教へと繋がる。
大本を辿れば、そもそも、その動機は、哲学・芸術・宗教の動機は、一体だ。いずれも真を目指す。人が一番必要とすることを。最も強く欣求することを。
それは魂を浄化し、超越させ、救う。カタルシスとエクスタシスだ」
「そのメンバーのなかに、是非、科学を入れたいね」
「直にそうなる。いずれも人の営みだ。人の目指すところは、結局、同じなのだ」
「いずれは、か……」
甍はその後も一人何かを考え続けていた。
帰りの新幹線で黄昏を見ながら、唐突につぶやいた。
「時間性って、凄いよね。それに不思議だ、改めてよく考えてみるとね。いつも当たり前に見過ごしていることなのに」
「何だよ、急に」
「不思議なことを、いくら考えても、いくら問うても、正解はないだろうね。もう、それはそれでしかないんだ。
考え甲斐のあることを考えようよ。たとえば。
過ぎ去って逝くということ=終わりがある、ってことだ。終わりがないならば、過ぎ去って逝くことなんかに気がつかないだろう。
運動、変化、終焉。そのなかで一番強いのは終焉だ」
「人間にとってはな」
「生存にとってさ」
「ふうん、まあな」
「もしかしたらのもしかしたら、物にも。いや、存在全てに」
「それは……その可能性を零とは言わないが、確かめようがない。人間についてしか語れないな」
「見たものが見たままならね」
「それも確かめようがない。
どうやったら、確認や検証になるんだろうな。どんなかたちであれ、検証した結果を見るのも眼だからな」
「結局、何をしても、皆、いい加減なものなんだ。それじゃ、人間についてのことだって語れないね」
「そうだな」
「であっても、やはり、死は、終焉は気になるものだね。たとえ、幻でも偽りでも嘘でもリアルだよ」
「終焉か。結局、誰もどんな真理も求めていない。ただ、永遠に生きていたいだけなのかもしれない」
「むろん、そうさ。
生存は生き続けようとするからね。だが、それでは死を超越できない。生き続けようとすれば死は超越できない。生きんとせば死し、死なんとせば生く。生命は超越する。
〝武士道と云は死ぬ事と見付たり〟という言葉は至言だ」
その有名な一節は、
「二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付ばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也」
と続くものであった。
韋究も顎に手を当て、
「圖に當たらぬは犬死などといふ事は、上方風の打上りたる武士道なるべし、か。ただ、潔く死なんとするが武士道という考え方は、まさに真実義。
生命の究極は、畢竟、死であると言える。
そう言やあ、さっきの『無常ということ』に生きている人間は何を言い出すやらしでかすやらわかった試しがない、そこへいくと、死んだ人間ははっきり人間のかたちをしているっていう趣旨の文があったな」
甍もうなずき、
「そうだね。
それは結局、過去、歴史には動かし難い美があるという想いに至った。新しい解釈にやられるような脆弱なものじゃないって言っていたね」
韋究は少し上を向き、
「歴史は解釈を拒絶して動じない。美しく確固として、死を超越している。
既に死んでいるがな。或る意味、死人に口無し、か。
ふ。死が真に生きること、そんな理不尽もありかもな」
甍は否定的だった。
「僕は否定する。たとえ、間違っていたとしても。
全てをわかるわけじゃない。正しいと思って、間違ったことを言うことも絶対あり得る。でも、わからないから、じぶんの思うところを言う。古来、『人堂々果敢すべし、人義しきとおもふを為す善し※』とも言うし。※眞神の古言。
むろん、考え抜く。それで行動する。それしかできない。それが現実だ。神は全部を肯定するかもしれないし、全てを否定するかもしれない。でも、何かを肯定し、何かを否定することもある。
つまり、起こったこと全てが現実じゃないか。どうあろうともね。かたちなんかない。自在狂裂さ。それが本当の全肯定だ。現実は全肯定だ。
いつか君が言っていたよ」
かつて、韋究はこのように言っていた、
「なあ、甍。現実は起こったことが現実だ。そうだろ、起こったのに現実じゃないって言うか?
それは全肯定ってことだ」
「現実が全肯定? それはおかしいよ。全否定も、一部肯定も、一部否定も、現実にある。全肯定なんかしていないよ。一つのことしか肯定しないことも、一つの現実だろ」
「だからだよ。
それらを全部肯定するから全肯定なんだ。一つしか肯定せず、他を全部否定することも肯定するんだ。それが真の全肯定さ。
だから、仏教を否定して、イスラム教を肯定することも全肯定だ。それも排除しない。
それが全肯定だ。
実際、現実がそうだ。現実は好き勝手にいろんなことを在らしめる。
それが実際の世界だ」
甍は反論した。
「でも、それはロジックのマジックだ。
確かに、理論的には(理論に依存する限りにおいては)全肯定であるならば、そうかもしれないけど、現実感覚としては違和感がある。理論的には確かに一筋通ってはいるけれども」
だが、韋究は言った。
「まあな。
全肯定や全網羅という言葉は、桁外れな定義なので、合理的な狂気を招く。理論に依存する限りにおいては自己破綻する。
要は論理上だけの絡繰り、空回り、球体の内側をぐるぐる回るような、内輪話だ。内部事情に過ぎない。
狭いカテゴリーのなかの業界・界隈に限定の与太話さ。
だが、論理の都合上の空疎な自己破綻を活用して理論に縛られない自由を表現することができる」