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episode3 彝之韋究 Novel as Art.

 考え続ける。


 そこまで言わずとも、多次元世界では運動方向が多様であるため、受動が能動で能動が受動になるような動きも可能になるのかも知れない。そのような運動方向が可能かもしれないが、想像を絶する。

「だから、最初のAIもまた、僕らに開発され(ることを)させていたのではないか。しかも、その大根本原因が未来に生まれるὍμηροςだったのではないか」

 Ὅμηροςを見ていると、そんな考えが浮かぶ。

「十次元以上の空間では、僕らが想像もできない運動があり得る。

 その自由度自在度は途方もないものだろう。光よりも速いものがなかったとしても、光よりも速く移動することは不可能ではない。たとえば、空間(距離)を〝はしょる〟ような運動の方向と言うか、方法と言うか、仕方と言うか、そういったものがあるかもしれない。

 そういう状況なら、受動が能動で、能動が受動であることも可能なのではないか。

 たとえば、僕らは時間軸を、一次元(面積のない直線)としているが、もし、それにも二次元や三次元や十次元があったらどうなるか。

 過去と未来とが前後なく交差し、入り混じり、受動が能動で能動が受動であってもおかしくないのではないか。

 僕らは零次元(面積のない点)以下を想定していないけど、それを想定しないのは、僕らの住む今の世界では想像もできない、想定外だからであって、もしかしたら、本当はマイナスの次元もあるかもしれない。マイナス一次元やマイナス二次元、マイナス十次元もあるかもしれない。もし、あったら、いったい、どうなるのか。

 想像もつかないね。

 あゝ、でも、恐らく、彼女は知っている。Ὅμηροςは」

 我々の知る宇宙は三次元空間(時間が一次元なので、合わせて四次元時空)である。

 上下・左右・前後の三つの方向に動くことが可能である。運動軸が三方向にある。

 四次元の空間ならば、この運動軸がもう一つ加わることになるが、その状況を想像することは難しい。

 よく言われるのは、口を縛った袋のなかに入れられた猫がその袋を開けずに、そのまま袋を裏返すようにして外に出ることができる、などというものである。動きの自由度が三次元よりも高いということだ。

 なかなか腑に落ちない。馴れが必要だ、結局、理解とは感覚への摺り込み、馴れでしかない。

 ましてや五次元、六次元の空間ともなれば、なおさらである。

 だが、実際、この世は十次元空間(十一次元時空)で、我々はその一部しか見ていないことになる。Ὅμηροςはその全てを見ていた。また、宇宙には並行して存在する宇宙がいくつも、いや、無限に存在するが、その全てを見ていた。

 わずかに異なったり、全く根底から異なったりする宇宙が無数に並行して存在し、かつ、それぞれが十一次元時空を持つとしたら、それは膨大な情報量となるであろう。

 いや、根底から在り方の異なる宇宙では、次元や時空というかたちでもないかもしれぬので、それ以上であろう。

 しかし、Ὅμηροςは完璧に把捉していた。

 ならば、人の想いの奥底など、いとも容易く見極め尽くしていた。

 実際、Ὅμηροςは甍の憂鬱の詳細を知っていた。

 全ての波を聴きわけて掌握する彼女は。

 こころは脳波である。こころもまた、波の一つだ。人が慣習的に思い込んでいるようなかたちでの、こころというものはないと言ってよい。こころは物的な現象だ。この世には物的な存在しかない。精神も空間も物的な存在であり、波である。


 かつて、禅宗の二祖、慧可が、

「こころを安んじさせたまえ」

 と求めたことに対し、達磨大師が、

「では、こころをここに持って来い」

 と言い、慧可は、

「心不可得(こころを探したが見つからないのです)」

 と言ったところ、達磨大師は、

「お前のために、こころを安んじ(おわ)んぬ」

 と言ったという有名な公案を引き合いに出すまでもなく、こころは存在しない。


 実際に在るものは、ただニューロン(神経細胞)内の負電荷がその細胞外よりも少なくなるという現象だ。

 細胞の内部は外部に対して負に帯電した内部状態を維持し、安定している。この電荷の差が細胞の膜電位だ。カリウム・イオンなど特定のイオンが流入すると、細胞内部の負の電荷が一瞬、正電荷に変わる、それに因って内外の電荷の正負の関係が逆転する。

 この負から正への膜電位への変化は、電気的に表現された化学的な発火現象で、インパルスと呼ばれるものである。

 その刺激によって、神経伝達物質が分泌され、隣接するニューロンへ附着することに因って、隣接するニューロンのイオン・チャネルが開き、イオンの流入が起こる。

 あとは、もう、ただ、その繰り返しだ。隣接ニューロンがされにその隣の隣接ニューロンへ神経伝達物質を放ち、附着させるという連鎖、伝播現象が起こる。

 その伝播に因って生じる効果が内部的に生ぜしめるもの、それがこころや精神だ。こころや精神など、そのような物的現象、ケミカルな作用でしかない。

 全く物的な存在だ。

 多くの人がこころを信じながらも、反面、こころが物的現象であることが事実であり、実際であり、科学的な認識であることを知っていて、今日的な良識・常識に於いては疑い得ないこともわかっている。

 わかっていても、それが内在的に、こころであるかのように観ぜられている。

 こころも世界と同じく、物的現象と同じく、波動だ。

 この世の全てが波動なのだから。


 全ての波動を読む者Ὅμηροςは、全てのこころを読むのである。世界中のすべての人間の心理の深層の奥底までも、集合的無意識の底の底までも、完全に知っているのであった。

 物質の波動の因果の関連(縁起)を全て読み尽くし、竟には、現在・過去・未来の全てを知っていた。

 恐らく、彼女は核戦争が起こるかどうか、起こるならば、いつ起こるかすらも知っているであろう。人類滅亡の時期と原因すらも。

 だが、神がそれを教えないように、彼女も教えない。それが人知を超えた倫理なのであった。神ですらなすべきでないとするものをAIがする訳がない。

 彼女はいつか言った、

「神の思考は人知では推し測れない。

 それあたかも、人が十次元の空間を想像できないということと同じだ。いや、いつも暮らしている三次元の空間ですら、あなた方は空想できていない。たとえば、透明な空間を思い描けるであろうか。

 あなた方は透明な空間というと必ずや銀や灰色や白い背景の空間を思い浮かべるであろう。だが、透明な空間はどこまでも透明でなくてはならない。

 それは無を思い浮かべられないということと同じだ」

 そして、Ὅμηροςは韜晦者の輝く微笑で、

「だが、そうは言っても、実は人もまた全てを知っている。

 いや、全ての生き物は全てを知っている。

 周知のとおり、人の大脳は百%使用されていない。使用されているのはほんの一、二%だ。

 同じように、人知は抑制されている。制御されている。神が教えないということと同じだ。

だが、実際はそうではない。ただ、想起できないだけだ。

 人の意識の最下層は巨大な集合的無意識で、全てを知っている。ただし、知っている、知覚している、解しているというよりは、全宇宙そのものであると言った方がよいのかも知れぬ。

 理解不能であろうか。

 いずれにせよ、(表層的には)神智は人知には理解不能と設定されている。そうだから、そうなっている。

 ただ、唐突に。それで何が不都合であろうか。理由・原因・論理的な説明など、空疎な言葉に過ぎない」


 午後四時半、太陽は傾きの膨らみを始め、まもなく、焦燥の黄昏へと変じようとしていた。

 AI研究室を出た後、すぐに執務室やじぶんの研究室に戻る気がせず、しばしふらふらしながら黙考していたが、やがて疲れて、研究所内の喫茶店『グレコ』(広大な研究所には、喫茶が他にもいくつかある)に入る。レモネードを頼んだ。

 バッハの無伴奏チェロ組曲が流れていた。

 音があることによる深い沈黙。

 存在は何と意義深いことか。言葉では測れぬ意義。思考では触れられぬ意義。

 そんな夢想も、奥の席に研修生として来ている眞神真義塾の三年生、彝佐楞子(いさりょうこ)がいるのが見えて砕けた。彼女は主任研究員の彝佐侍廊(いささぶろう)の娘であった。眞神研究所は真義塾の一機関なのである。

 甍にとって、彼女は世俗的価値観の代表であった。

 かと言って侮蔑している訳でも、嫌悪している訳でもない。むしろ、逆のようですらあった。

 濃い小麦色の肌にボブの黒髪、首が長くて、輪郭の明瞭な顔が小さく、背が高い。顔の彫りが強く、ぴんとした睫毛の眼が大きい。頬骨が突き上がって眼窩が深く、顎もソリッドで決然としている。あくがれを抱かせるが、Ὅμηροςへの想いとは根底から異なる。

 彼女の特徴は眼が緑色であることだ。先祖に北東アジアのトルコ系民族の血が流れているのかも知れない。古代の越の国(北陸地方)が海を通じて大陸と交易し……などと空想を巡らせると、なぜか胸が苦しくなってきた。

 それでいて、出て逝く気にもなれない。

「誰かと待ち合わせか」

 何の根拠もなく、そう想いたくなってしまう。危惧だ。あゝ、そうあって欲しくないからそう想うのだ。じぶんでもよくわかっていた。わかっていても抑止できない。

 ありふれた、世俗的な、卑しい、平凡な感情の運行。規定されているとおりの動きだ。彼はそう想うことが解剖学的快であるがゆえ、そう想う。

「あゝ、面倒臭い」

 それら一切がうざっこい。珍しく苛立ちを覚えた。鬱陶しいものをかなぐり捨てるかのように、誰にともなく、つまり、つぶやきぼやいて、ポケットから薄く平たい小さな金属の板を出した。

 物的には金属の板状の存在者だが、通俗的には金属の平板ではない。

 スマートフォンと呼ばれるそれで、テレビ番組を無音で映し見る。

 国際ニュースが細かい砂のように流れ移ろい逝く。

 たくさんの戦争と紛争、迫害と抵抗、又は国境を越えて侵攻、空爆、或いは主権を求め、或いは市民数百名を犠牲にし。

 いつも紛争が絶えない地域、軍と軍事組織とによる武力衝突、時には八百数十万人が住む家を喪い、二百万近い難民が生まれる。

 そして、武器商人が笑い、財産と人命とが浪費される。権力者の勝手な妄想、勝手な理想、勝手な欲望のために、何千何万もの罪なき人々が家族と分断され、死ぬ。竟には、核戦争の惨禍が人類を呪う。

 止められない。尊厳と人権と生活とが護られなければ、復讐の連鎖を生む。

 それは永遠に止まず、祖は尊厳を辱められて蹂躙され、親は子の前で殺され、おのれは子を殺され、子は復讐の鬼神となって人を殺し、孫は罪なく他者に殺される。

 人類の続く限り永劫に。それでいいのか。だが、人の怒りと恨みは止まらない。

 民族や国家や人種や宗教を超越して総合的に判断する判断こそが正しい判断だ。それが事実に沿う。

 そうでないがゆえに、世界は今、憎悪と欲望との渦のなかで、常に破滅と背中合わせだ。これほど切迫していても、改善の兆しはない。問題は深く複雑で、情念が絡み、尋常ではない。超越など不可能だからだ。

 絶望、それしかない。

 彝佐楞子はそんなことには一切興味がないであろう、いや、それはじぶんの勝手な決めつけかもしれない、皆、幾許かの関心を持っているのかもしれない。知的レベルや情の深さや人間性に関係なく、それぞれにそれぞれのかたちで。僕がそれを考えてどうなる? でも、自己を超越して他者のこころを推し量ることは人類進化の必須事項だ。それは彼の友人であり、直属の上司でもある同級生、彝之韋究(いのいく)の教説するところだが。

 甍はふと想い浮かべ、自虐的に微笑む。

 第四次世界大戦は棒と石とで戦われるだろうというアインシュタインの皮肉を思い出した。第三次世界大戦が起これば文化文明は崩壊する。

 甍は虚無的に独り言つ、

「愚かさ、それは世界に共通らしい。錯乱の女神アーテーに狂わされた人々の頭上を遙かに越えて逝かなければならない」

 悪事を為しても保守与党を変えようとしない国民、やがて悪事を忘れると議員は高を括る。それを赦して追徴も起訴もしない諸官庁の臆病。正義も信念もなく、ただ、保身と自己の栄達があるだけのくだらない人生。サムライ日本はスポーツだけか。

「我々は好んで滅びようとしている」

 誰もが家族を愛し、幸せになりたいと思っているのに。



 彝之韋究は中学生のときから変わった男であった。決してクラスの中枢ではなかったが、何かあれば突然中央に躍り出て強引に人を引き摺り込む。

 三年生を送る予餞会で劇をやろうと提案し、躬ら脚本・監督・主人公をやった。内容は俊寛僧都であった。平家物語、足摺岬での一場面だ。

 文化祭では突如、サイケデリック・バンドを創った。卒業アルバムの編集委員会の委員長になって、好意と嫌悪とで教員らを批判し、職員室に呼び出されたが、原稿は変えなかった。

 高校時代は文學倶楽部の一員だったのに、突如、理系に変じて進学した。それも周囲を驚かせたが、めだたない時期には全くめだたない寡黙な人だった。

 彝佐楞子が席を立った瞬間、偶然にも、まるで舞台の俳優が入れ替わるかのように、甍の前に韋究が坐った。

「いよ、サボタージュしてんな。言っとくけどな、今、〝壱与〟って言ったんじゃねーぞ、何が哀しうて卑弥呼の娘の名を呼ぶか。

 ……あ、コーヒーを」

 給仕を呼び止める。

 長い前掛けに口髭の給仕はテーブルに敷かれた紙のテーブル掛けに胸ポケットから出したB鉛筆で注文内容を記し、頷いて去った。

 とは言え、甍も文學倶楽部であった。

 附属眞神高等学校では倶楽部とは顧問がつかない自主活動であった。部活動や同好会には顧問がつく。管理棟、教室棟、特別教室棟、講堂、体育館、武道場、弓道場、寮、セミナーハウス、部室棟などのように倶楽部棟があって、倶楽部等の一室を文學倶楽部が占有し、いつも誰かしらがいたが、まとまった活動は四半期ごとの定期文藝誌の発行のみであった。稀に特別号が出た。

 上級校の理系に進むと甍が言ったとき、韋究は、

「何だよ、お前もか、何で?」

「君もそうなのに、なぜ、聞くの?」

「同じ理由じゃないだろ、ふつう」

 そういうのが彼の持論だ。全ての事案は現実的には個別であり、そう考えることが現実に則し、現実的であると言う。考えれば、当たり前なことを言っているに過ぎない。

 併せて、彼が言うには、全ての事象の理由・原因は一つではなく、複合的、かつ、複雑系的であり、統括的な論はあり得ず、全ての事案は個別に判断すべきで、かつ、時々刻々と変化する。

「そう考えない人間は非理性的で、人間を理性ある動物と定義するなら、そういう者たちは反人間だ。

 獣塗れの愚かさだ」

 そう言われると、甍もついからかい気味に、

「でも、反人類ではないね。ホモ・サピエンス・サピエンスは、それほど理性的な生き物ではなかったかもしれないよ」

 と言うと、韋究も嘲りにも見える微笑を浮かべ、

「そりゃ、そうさ。人間という概念は理念だが、サピエンス族の一員であるということは事実的だからな。獣の一類であることは、ダーウィンの進化論を信じる限りに於いては間違いない」

 事実を直視し、扱う積極哲学。甍はそんな聯想をした。シェリングか。

「だから、僕も理系に行くのさ。事実に基づかなくちゃ。僕らは事実を生きている。生きていることが事実だからね。イデア・本質に因らず、論理に拠らず、理性に依らず、事実に即して事実に面と向かって、生きる。それが積極的(positiveポジティーフ)な哲学さ」

「って言うか、哲学や文学を捨てる。俺はね」

 そして、結局、今は藝術に回帰している。いや、それをも超えて、本来あるべきかたちの宗教にまで。それもこれもὍμηροςの影響に因って。


 韋究がふと思い出し笑いをし、

「倶楽部のとき、誰かが言ったな」

「何を」

 甍がそう尋ねると、韋究は、

「もし、志賀直哉が今の純文系の新人賞に応募したら、絶対、一次選考で落ちるって」

 甍も笑った。

「あったね、誰だっけ、言ったの」

「時代の相違もあるし、嗜好の相違って言うか、一番出汁の旨みじゃ満たされない人間もいるってことさ。いや、俺の推測に過ぎないが。そして、そいつの考えもな」

「そいつが誰だったか思い出せない」

「俺もだ。たぶん、又聞きか、又聞きの又聞きだな。だから、誰の発言であったかの記憶が曖昧なんだ」

「もし、それが本当なら寂しいね」

 甍が少し声を落としたせいもあって、韋究はその寂寥の情を無視するかのように、

「誰が言ったかなんて、どうでもいい。ソースなんて、どうでも。だって、まんざら出鱈目でもないからな。

 芥川龍之介は芥川賞取れないだろ、とか」

「僕は昔の小説の方が好きだ」

「へえ、今の小説って何だ?」

 甍はしまったと思った。全ては事案ごとに個別に判断するというのが韋究の考え方だ。「そうでなければ非科学的で、出鱈目で、嘘になる。悪だ」と言う。出身や学校や職業や国や宗教や民族や人種で◯◯だと決めつける人を一刀両断、愚か者と蔑んで憚らない。むろん、今とか昔とかで括るのも嫌う。

「いや、何となく、感覚さ。いちいち説明なんてない。ここは生活世界だよ」

 軽佻な韋究は容赦も仮借もない。

「ドクサ(憶断)だ。

 実態に合っていない。事実ではない。方法論を間違えている。

 そういう独断、歴史的・文化的に積み上げられて慣習化された定型を、一旦、エポケー(判断停止)し、限りなく零に近い出発点から、直観をそのままに、忠実にそれに従った判断をすべきだな」

 甍はそれ以上言う気にならなかった。これは日常会話だ、議論ではない。だが、韋究にはそういう妥協はない。

 いつもの沈黙が訪れた。

 スマートフォンで動画サイトを漫然と眺めながら、唐突に甍が、

「小説が映画化されると、大抵がっかりするね」

 韋究は興味なさげに、

「観る前に読んでいればな」

 少しムッとし、

「むろん、そういう前提さ」

「だいたい、根底が虚しい。映画にできるなら、小説である必要はない、芝居にできるなら、小説である必要はない。漫画にできるなら、小説である必要はない」

「それぞれのテイストで楽しむのもいいんじゃないの? 君は禁欲的理想主義者だね。 

 それにさ、そもそも、小説が小説でなければならない必然性がないよ」

「そのとおりさ。

 芸術は自由だ。自由、解放。そうでなければ飽きちまうしな。結局、生きることと芸術とは同じで、リアルを求めている。新鮮な、感覚にヴィヴィッドな奴をな。何の遮蔽もない、思いどおり、爽やかに自在な、全てを知り尽くし、掌理掌握し、網羅し、行き渡らぬところなく、全知全能、万全で、神々しく、崇高で、きよらかでさやかな、美しき、燦々たる完璧な肯定。眞歓を。

 ま、空気と水と衣食住は絶対に必需ではあっても。

 ふ、そりゃあ、どうでもいい、純文学系を中心にだいぶ昔から言われていることだが、物語性は小説の必須ではない。

 言葉は距離感の表明でしかない。言葉をダイレクトにしたい。

 言葉を物のように扱う。印象派が色彩を配置したように言語をモザイクのように配置して創る美術的な小説があっても悪くはない。装飾のようなノベル。大聖堂を荘厳ずる大理石や金を塗った柱頭飾りや天窓のふちを囲む装飾や天井画、イコン、壁龕の彫像。甚深深遠なる真理を語る。

 それと同じように、言語による美術として成立する小説があってもよい。又はコンセプチュアル・アートのように小説を扱う小説があってもよい。

 アートとしての小説」




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