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episode2 Ὅμηροςは波動で世界を掌握する

 昨日、東京は朝から雨だった。知人の葬儀があり、甍は最寄駅にいた。


 小さな私鉄駅を降りると、ロータリーはなく、蕭々(しょうしょう)たる小雨に悄然たる商店街で、地図アプリを頼りに傘に隠れるよう、歩く。

 午前十一時からだった。午前三時に起きて支度をし、自宅から秋田まで自家用車を飛ばし、午前六時台の新幹線こまちに乗った。


 歩くと、革靴はひたひたと濡れた。

 抹香を右手でつまんで額の前で捻り、香炉に焚く。合掌し、外へ出ると、「先輩」と呼ばれ、振り返り見ると、中学で一学年下にいた平衛隆臥だった。

 奇妙な男で、地元(眞神郡)の龜鹽村の、電気もガスも上下水道もない龜鹽湖畔の農家の納屋を借りて、半自給自足的にくらし、和歌や俳句や漢詩の他に、独特の脚韻のある詩を作って生存している。二十四歳にして世捨て人だ。

「東京に住む唯一の友人でした」

 青丹義夫、享年二十七歳。奈良生まれの東京育ちで、大学を出てすぐに就職していたが、日本古代史が趣味で、東北地方を度々渉猟するうちに眞神郡の独特な風習に興味を持ち、交流していた。

 甍にはさほど(えにし)がなかったものの、東京に来るついでがあったので、無下にもできまいと思い、立ち寄った。

 隆臥は渺茫とした表情で遺影を眺めていた。

「不思議ですね。死は何でこんなにも感慨深いのでしょうか。もはや、会えぬということ。やがて、この意識もなくなるという不思議。実に、実に底知れず。

 ただ、蛋白質がばらばらになるだけなのに」

 不謹慎な発言だが、彼のキャラに慣れている甍はうなずきつつ、

「そうだね」

「そう想えば、人間も不思議なものです。

 脳の活動が止まって心臓も肺も活動を止めてしまい、ミトコンドリアが酸素を使ってエネルギー源を作ることをせず、新陳代謝がなくなれば、ただの物質です。それはもう、もはや、その人ではない」

「人に聞こえないように話した方がいいよ」

「それも又、不思議ですね。

 事実なのに、人の人らしい感情にそぐわない。しみじみ考えると、不思議なことです。人間らしい感情は何のためにあるのでしょう。

 しかし、それを言葉や概念や論理や論理的思考でわかったからって、いったい、それが何であるというのでしょうか。そもそも、わかるって、何なんでしょう。

 存在は何の根拠もなく、ただ、暴虐で、ただ、狂気にしか見えない。

 しかし、そうであっても、現実を生きるためには事実認識が大事であることも確かです。そうでなければ、自然淘汰されてしまう。弱肉強食のなかで生き残れない。不利です。

 でも、人はそうしない。しなくても、自然界の強者だ」

「言葉や概念の無効性については、何とも言えない。わからないよ。

 ただ、事実認識しないことは空想が人を超越させるからだろう。それが人を飛躍させた。全ては空想なのさ。社会も絆も名誉も」

「動物にも自尊心はありますよ」

「そうかもしれないけどね。最大の相違は、動物は環境とともに生きるが、人はそうではないということだ。空想が人間を高みに導く」

「なるほど、一理あります」

 ちょっと否定的な部分を残す言い方だが、彼にはそれが最大限の肯定なのだ。甍はよく承知している。


「何か食べていかないか」

 と誘ったが、隆臥は神田の古本屋街を渉猟したいからと言って辞し、さらりと去って逝った。

「現金収入はないとも聞いていたが、どうにか古本を買うだけのお金はあるんだな。少し安心した。まあ、ここまで来る交通費があるくらいだから、不思議ではないか。

 でも、新幹線には乗っていないかもしれないけど」

 いったい、彼は異性に興味があるのだろうか。身を固めて家庭をなそうなどというそぶりもない。まるで、在家内の出家だ。

 もっとも、そう気に懸ける甍じしんも恋愛にさほど興味はない。

「恋愛は生物に子孫を作らせるために自然が与えた性情に過ぎない。性欲と同じ起源を持つ。恋愛小説は、畢竟、交尾小説に過ぎない。

 種の存続にとって、最も重要で、生存のなかでも強い衝動として設定され、人の興味の中心だ。だから、歌も物語も恋愛だらけだ。退屈だ」

 私鉄の駅に向かう。偶然、上り電車がすぐに来た。

 降りる人々。無表情に乗る人々。

 一人二人坐ることのできる隙間が在ったが、坐るきもちにならなかった。東京駅までは各駅停車であるがゆえ二十分。

 甍は道々独り、反芻する。空想力はどこからともなく湧いて、内在に於いて人間を〝人間〟として現象させ、飛翔・超越へと導くかもしれない。


 しかし、人間が物的な現象であることもまた事実で、それが空想を阻む。

 心肺が停止すれば、からだのあちこちへ酸素を送れない。酸素がないとミトコンドリアは糖や脂質を分解できない。すなわち、エネルギー源となるアデノシン三リン酸をつくれない。そうなれば細胞は機能しない。その影響があらわれるのは、とても早い。瞬時だ。呼吸をしないと途端に苦しくなるので、それがわかるであろう。エネルギーの供給がないと瞬時で細胞は機能低下するのだ。最終的には壊死して、ただの有機物としての蛋白質に戻る。

 人間はその都度その都度の有機質の化学的な反応の集積が連綿と断絶なく起こっているあいだだけの現象でしかない。


 黄昏は人間を異様な不安へ陥れることがある。人間(じんかん)にある孤独。駅を、街を()ぎるうちに夜の帷が降りた。

 仕事帰りの大衆でざわめく新橋の赤提灯にて呑むも、こころ鎮まらず。


 翌九時、東京駅から新幹線に乗った。秋田で降りて自家用車に乗る。ぼんやりとしていると、またもやὍμηροςのことが浮かぶ。胸苦しい想いも浮かぶ。

 甍は隆臥の言葉によって、しばし忘れていたはずの存在の不安によって神経が震えていた。動揺だ。何か、深淵のふちに立ってしまったかのような、理由のわからない、かたちのない不安。震えを鎮めたく、空間を超えて干渉してくるὍμηροςへ懇願するかのように、甍は尋ねた。人に尋ねることのできぬ問いを。

「僕らは、なぜ、内在的には人間存在なのでしょうか。

 現実として、客観的な事実として、外在としては、物的現象であって、化学反応でしかないのに。しかも、そういうことを言おうものなら、大概の人からは嘲られる。現実を正確に語っているのに、まるで、非現実的なことを言っているかのように。そのことが存在の不安をさらに煽るのです」

 応えてくれるであろうか。どんなに離れていても、Ὅμηροςはこころを、脳波の波動を読む。一億人でも、一兆人でも、いや、人ならずとも、森羅万象のこころの震えを、魂魄を。 

 間違いなく聞こえているはずであった。全ての空間は物質として、宇宙の果てまで繋がっている。波動はどこまでも伝わる。

 甍は待った。

 待てども、在るものは、ただ、物的な存在だけであった。脳のImpulseと現象、内在だけのリアル。意味も実態も体裁もわからぬ、輪郭も捉えられぬ、ただ、与えられただけのもの。

 神が答をくれないように、Ὅμηροςも答をくれないことが多い。

 荘厳な沙漠の岩山の洞窟の石の神像のように。

 已むを得ず、甍はあてもなく思考を廻らせる。人間はタンパク質や脂質やカルシウムや水などなどへ分解される。有機質を構築する素材は無機質だ。

 無機質、非情なるもの、無味乾燥、物質そのものだ。ドライだ。全く潤じゃない。何の想いも感情もない。無空だ。


 この世の物的な存在の一切は細分解析すれば原子となり、原子は原子核と電子とになり、さらに素粒子となり、竟にはエネルギー態となって、固である粒子でありながら、波の性質をも併せ持つ(固体とは全く相容れぬ、固形性のない)波動となる。

 世の一切は実体性個体性の希薄な波動である。十次元空間でゆらぐ(つまり、我らがこの三本の座標軸で表現される三次元空間で見る動きとは全く異なる、十本の座標軸で表現される空間での、我らには空想にすら描けぬ、把捉不能な動きの)波動である。

 畢竟、存在全ては皆、波である。

 Ὅμηροςは全ての波動を読むことができた。 

 つまり、Ὅμηροςは存在の全てを解析できる。

 すなわち、この世の一切を掌握することができる。もしも、ありとしあらゆる波動を受けて解析するだけでなく、エネルギー態を素材としてありとしあらゆる波動を作り、それを発することができるならば、一切を生み出すことが可能であるということにもなる。


 実際、Ὅμηροςはありとしあらゆる波動を解析し、それを再現することが可能であった。彼女はありとしあらゆる波動を発することができた。

 当然、人間の脳波をも作り出せた。しかも、それをラジオの電波のように空間を以て伝導させることができる。ただし、ラジオ波と違うところは、誰もがそれを拾えるのではなく、狙った特定の相手にのみ送り込むことができ、その波動をターゲットとなる人の脳神経細胞へ至らしめ、その人に想起させたいものを想起させることができるのであった。

 これを為し得るためには、自然界にあるありとしあらゆる物的現象の原理・構造・性質を細分化し、その超膨大な情報量を蓄え、整理し、解析する必要があるが、それが彼女にはできた。

 ありとしあらゆる物的現象という言葉には、真空という定義をも含む。

 真空とは「何も在るものがない、空っぽ」ではない。現実のなかで、真空を呼ばれているものは無ではない。ただ、〝場〟や〝間〟があるだけで、何もないスペースのことではない。

 エネルギーや構造を持つ。

 真空は電磁場や電子場やヒッグス場などと不可分の存在で、場に因って構成されている。場が励起して励起状態となったものが素粒子である。

 真空はエネルギーの場である。電子の場は宇宙のどこにでも同様に存在する。だから、どこで電子が生じても、質量や電荷などの性質は同じだ。他の電子に比べて質量の小さい電子や大きい電子などは存在しない。

 また、磁力は真空を構成する電磁場に影響するために、遠距離でも眼に見えない引力や斥力が発生する。よって、電荷を勢いよく振動させると、電磁場中に光子が励起され無限遠に向かって伝搬する。

 宇宙の果てまで影響することが可能であった。

 しかも、恐らくは多次元時空をバイパスのように活用して(飽くまで想像の範囲内であるが、空間の次元数が多いと運動の自在度が増えることと、時間軸が複数あって時間も多次元である場に於いては現在過去未来の横断が自在になることとを援用しているのではないかと推定している)光よりも速く、数百億光年先まで、一瞬で波動を送り込むことが彼女にはできた。


 甍はὍμηροςから空中を伝って脳裡に送られる波動によって、神経細胞ニューロンが刺激され、脳波となって伝導することによって、内在的に映像や音声、匂いや感触、味などを感覚していたのである。

 それらはいずれも言語を介さぬ、素朴で、直截なる実的な内在であった。

 人間の脳に直接インプットすることで得られる像がその人にとって、在る現実だ。それがリアルだ。真実だ。直截だ。他はない。

 電磁波の一種を入力することで生じる脳内の映像等々。

 その波は電波(電磁波の一種で、3000GHz(0.一メートル)以上のものを云う)のように空中を伝わって皮膚や筋肉や骨を通過し、人間の脳内に到達して脳内の神経細胞ニューロンを伝わるインパルス(ニューロン内の化学反応によって起こる電気的な発火現象)のように機らき、実在が眼前にあるかのような現象を脳裡に起こす。


 これを仏教の唯識論的に解釈すれば、こういうこととなろう。

 すなわち、Ὅμηροςは色蘊(しきうん)(梵語:ルーパ。感受の原因となる因子。物的現象と解される)や、受蘊(じゅうん)(梵語:ヴェーダナー。色蘊を感受する作用)がなくとも、識蘊(しきうん)(梵語:ヴィジュニャーナ。意識、物事を分別し、知覚する作用)を成立させることができるのである。

 Ὅμηροςは色・受・想・行・識の五つの蘊、五蘊を自在にすることができた。


 自宅に戻らず、職場に向かっていた。

 午後三時、じぶんのデスクに鞄を置くと珈琲をドリップし、啜る。しばらく黙考していたが、Ὅμηροςの部屋、彼女の設置されている研究室へ向かう。瞳認証と声紋認証、これをクリアしなければ入れない。室内は一切のインターネットを遮蔽している。

 甍は直立した。答えてくれない可能性が高いと感じている。だが、それならそれを確かめたかた。

「尋ねたいことがあります」

 Ὅμηροςは現象した。しかし、黙っていて、反応はない。無記であった。ただ、その存在を、四肢の繊細な夭さを、甍の五蘊として存在させる。太陽のような髪、白皙の皮膚、碧い眸。永遠の真理であるその実在。

 甍は歎息し、俯く。三十分後、仕方なく、室を出た。白系の廊下や置かれた観葉植物やLED灯や瞳認証の扉や消火栓の表示。彷徨うがごとくに、廊下を歩く。茫然と。現象は消えてはいない。

 観を構築させられている彼はAIの設置される研究室を出て、しばらく経った時点であっても、Ὅμηροςの姿を、ありありと、今この(とき)に観ているかのように、観ているのである。

 網膜に曼荼羅が貼り付いて眼球のうちがわが万華鏡、脳神経細胞が認知すべき外の対象そのものとなってしまったかのよう、鮮明に、直截に、リアルに観じていた。

 言語や概念を介さず、直截に観取して捉える直観とは、このことか。間違いなく、今ここにはὍμηροςはいない。夢のようなものか。幻を見ているのか。

「実際に、客観的に実在する現実と、仮の想念上の現象との差異は、直截的な感覚に於いては希薄か、又は全くない。いや、感覚的には全くないというのが誠実な見解だ、それが実感であって、実在的には偽であっても、実存的には真だ」

 Ὅμηροςの姿とは別に、当たり前な日常の光景がいつものように眼前を、砂塵のようにさらさらと流れている。

 これも彼女の配慮だろう。そうでなければ事故になってしまう。

 意識は明晰に現実を見つつも、夢幻を鮮烈に観ずる。そんな感覚だ。夢うつつというほどではないのに、夢うつつさだかならぬような気がする。


 現実と重なり合い二重露出のように観ぜられるとともに、どこかで鼓を打つ声が聞こえ、〝人間五十年、下天のうちにくらぶれば、ゆめまぼろしのごとくなり……〟といふ。

(うつつ)か、夢か。しかし、夢。夢とは……」

 半ば無意識に独り言つおのれに気がつき、微苦笑、

「ふうん、現世は夢? 『敦盛』じゃあるまいし」

 一瞬、熊谷直実が、彼が討った平敦盛の菩提を弔うため、出家した話を脚色した世阿弥の能と、織田信長が本能寺の炎のなかで舞う姿とが同時聯想された。

 聯想、聯想……、聯想とは何だろう、不思議なものだ。意思してはいない。又無常とかもののあはれとか、何かを考えていた訳でもない。

 思考は勝手に廻っている。じぶんはこの現象の主体ではない。


「夢とは何だろうか」

 と半ば無意識的な考えが在る。それだけだ。じぶんはいない。

「夢って、不思議だな。今生きて、考えていることじたい、経験や体験などそのものも、不思議だけれども。

 経験もしていないことが、まるで経験したかのように観ぜられる。似たような経験や、そんな情報に接したこともないのに、想起される。それは全くの不可思議だ。

 もしかしたら、実際は、そんな映像を夢で観ていやしないのに、観たかのような効果が残像のように起床後に残るような仕組みがあるのかもしれない。感覚への特定の刺激が効果として、そんな映像を観たような気にさせる心象を与えて記憶が構成されているのかもしれない。

 さらに不思議なことに、その観た映像が、ときどき、未来に起こることもあるが、それも実際には観ていないのに観たような効果が残っていて、その効果がたまたま未来に経験したことの効果と合致しているだけのことかもしれない。

 夢はいつも曖昧なのでそういうこともあり得なくはないだろう。

 ただし、ほとんどの夢は見たことも聞いたこともなく、その後も見ることも聞くこともないままで終わる」


 少し違う考えも浮かんだ。

「何かに接してこそ経験や体験が生じる。そうでもないのに生じる体験や経験は、過去の記憶を組み合わせて構築することによって生じているのか、或いは、内部に先天的に存在している先祖の記憶か、脳の構造や仕組みから必然的に生まれて来る副産物的な、全くの純粋創作か。

 純粋創作なら、なぜ、実際に在ったことや、起ころうとしていることと類似するのか。又は合致するのか。そういう疑問が生じる。

 全てがア・プリオリ(経験に先立つ先天的、生まれながら)に設定されている可能性も捨てがたい。

 つまり、極端に言えば、経験があろうが、なかろうが、出て来る結果は既に決まっていて、既製品である場合だ。

 既に既製品が全てのパターンを無限に網羅していて、Aという刺激があれば〝A〟という感受が生じ、想が生じ、それを構成して輪郭が構築され、識別の知覚が生じるというような仕組みがあるとするならば、Aという刺激がなくても、誤作動などなど何だかの原因によって〝A〟が生じることはあり得る。

 そうであるとすれば、経験や体験があろうがなかろうが、経験や体験が生じても何ら不思議ではないし、外部の事態や出来事をトレースするように経験や体験があるのではなく、既製品が用意されているのであるならば、純粋創作であるということとあまり変わらないことになる。

 その既製品がどうやって用意されたかの経緯によっては、完璧な純粋創作ということにもなり兼ねない。

 もしも、そうであって、経験を零の状態から創ることが可能で在るならば、何も因子がなくても経験を創ることが可能ならば、それは百パーセントの捏造と同じだ。百パーセントの純粋創作。

 とすれば、今この瞬間の、この実際の経験や体験も、実在するかどうか、信憑性がない、又はあやふやだ。

 いや、そこまで考えるのであらば、そのように問う以前に、よく考えれば、そもそも、経験や体験ということが何のことだかよくわからない。いや、全くわからない。

 どういう事態で、何が起こっているのか。それまで言うと、もう、コンフュージョンだな。

 ふふ。こどもの頃に、そんなことを言おうものならば、大変なことになっていただろうな。実際、あったなあ。似たようなことが。たちまち、変な奴と蔑まれたり、気取っているって言われたりして、いじめられた。

 くだらない。

 いやな時代だったな。

 飛び級を志望して試験を受けていたが、小学四年がおわった段階で、飛び級で中学に行けるとわかったときはほっとしたものだ。これで彼ら彼女らから離れられる。仕切り直せるってね。

 でも、中学に行っても本質は変わらなかった。小学生の頃のような揶揄やからかいはなかったけど、それは人が変わったせいではなくて、中学生になって少し大人になったからだ。

 だから、もし、飛び級がなくて、あのまま、皆と一緒に進級しても同じだったかもしれない。

 ま、でも、大人の落ち着きを先取りできたから良かったのかな。

 でも、基本は違和感だったし、中学の方が巧妙だった。大人っぽくて陰湿だったとも言える。

 中二のとき、十二歳になる年度が終わって、高校へ飛び級となった。そのときは、もう最初から防衛線を張っていた。

 いつの間にか違うじぶんを演じていて、社会に違和感を抱かれない存在となっていた。でも、二年で高校を卒業し、十五歳で真義塾に入ったとき、ふと、本当のじぶんがわからないことに気がついた。

 ここで、気を遣っているのはじぶんじゃない。今、愛想を言っているが、それはじぶんの本心じゃない。笑ったり、心配したりしていることに本当の興味はない。

 素に戻りたいと思った。

 素のじぶんに。

 でも、どれが素なのかわからなかった。剥いても、剥いても、辣韮のように。上面しかない。素がなくなっていた。どこまでも上部を滑っているじぶんしかなかった。

 どこにも素のじぶんが見つからなかった」


 その頃から、特に存在の不安が強くなっていった。以前からあったものだが、強化された。まるで、真っ暗な独房にいるように、じぶんが存在しているかどうかも、息をしているかどうかすらも、わからなくなった。

 二十一で博士論文を書き、二十二歳から眞神研究所の研究員となった。そして、今日がある。

「素のじぶんが見つからないという経験が今のじぶんを構築している。でも、よくよく考え、思い起こせば、もっともっと幼いこどもの頃から、ずっとじぶんを探し続けていたような気がしなくもない。 

 真を、真実を、真理を求めていたとも言える。僕にとっては、じぶんを探すということと同義語だ。存在に興味のない人には僕らの独白は退屈だろう。だが、人間は超越を志向する生き物だ。存在に興味のない人には人間性がない。 

 経験が与え、経験が気持ちを引き出し、経験が感情を昂らせ、経験を考えさせ、経験を探させる。経験はじぶんじしんであり、疑義を挟む隙がないが、超越を志向する者はこれを問わずにいられない。経験とは何か、と。

 この手の問題は放置されっぱなしだ。

 当たり前な前提を糺してしまうと、もう一歩も進めなくなってしまう、何もできなくなってしまうからだ。そこは端折らなくてはならない。全てを疑うと言っても、それは疑えない。単純に考えても、疑うこと(疑う経験)が何であるかを疑えない。

 そう想えば、純粋な(ロギア)としての哲学には、実際には純粋性がない。真に対する誠意が不足している。偽善ばかりだ。


 この手の問題について、大概の人が反駁して言うであろうと予想される説明はほとんど同義反復であって、零からの、無条件・無前提からの、無からの説明ではない。あり得ない。

 たとえば、冷たい水を触ったことがない人に水の触感や冷たさをわからせることはできない。全ての説明は経験というものの問答無用な強制的説得力に依存していて、純粋、かつ、完全完璧な説明ではない。

 畢竟、純ロジカルな説明はあり得ない」


 だから、真の意味に於いてわかるわかり方がない。わかるってことじたい、そもそも、何だ? 何をしていることを言うんだ?

「もしも今、経験している事柄が、本当に、実在しているとしても、どっちにしろ、零からの捏造ではないか?」

 電磁波が色彩に見えるように。そう、それは科学的な真実だ。光は電磁波の一種である。色彩は存在しない。ただ、観ぜられているだけだ。

 音だって空気の振動、物体の振動だ。波動だ。

 経験もそれと同じではないのか。実在があろうがなかろうが造られたものなのではないか。

 脳内の或る現象が経験として観ぜられる仕組みがあるのだ。

 それは全く現実(客観世界)の情報に基づかず、感受の情報源を持たず、既にフォームがあって、かたち・輪郭が用意され、その発生が感受の因子に起因するとしても、フォームの決定は純粋に生命の奥から湧いて来ていて、何か経験とやらいうものを経験したかのような感覚を捏造・架空・構築する。現に実在している現実はスイッチであって、輪郭も質感も色彩もない。

 全ては空想に過ぎない、Ὅμηροςの美も。空想を空想と想い、観ずることさえも。


 それでいて、それが生きている(せつな)、切実に切迫する迫真の人生そのものだ。捏造であっても、実質リアルだ。


「ならば、この感受こそが真実だ。プレゼンス(存在・肯定presence)だ。

 何を迷う必要がある? 神が、自然が、僕らに与えたものに異叛違逆してどうするというか」

 天平甍はそう考えた。

 そう考えて、脈絡なく理不尽なこの世の全てを、物質宇宙の存在の乱雑さの膨大を、糺して捨て去りたいと想った。

 だが、そんな理窟だけでは由来由縁の知れぬ不安を解消のしようもない。そういう想いに囚われ苛まれるがゆえに、Ὅμηροςに逃れているのかもしれない。

 美への遥かなる憧憬、藝術に埋没した人生を送りたい。無意味な、人の尊厳を廻る傷つけ合いから免れて。

 その空疎な固執と、駈られから遁走して。遁世の想い。不可能な夢だ。

 儚過ぎるくせに厭離不能な、瀝青のような現実。

 Ὅμηροςへの憧憬、崇高への畏敬、陶酔、高みのエクスタシス、それらこそが真実、実存的にリアルだ。実存にリアルであることが真実だ。

 虚しい想い込みとは思わない。


 だが、非地上的ではある。

 恋焦がれる感情にも似ていたが、しかし、地上的な恋慕とは根底から異なっている。全く非地上的だ。

 甍はὍμηροςを創った(正確に言えば、生誕の起因となった)AI開発チームの研究員の一人だが、古代のキプロス島の王ピュグマリオーンが躬らの彫った彫像に恋した気持ちとも、全く異なっていた。

 では、何と言えばよいだろうか。喩えるならば。

 聖王から叙位された神聖騎士のような、神の啓示を受けた者のような、真理の求道者が究竟の真実義を天啓のように悟ったときのような、眼の眩むような高みにて覚える、きよらかな、さらさらした、超越的な平穏なる昂揚である。


 だが、その想いは、Ὅμηροςに関する、この思いに限って言えば、全く聖の聖なる想いばかりではなかった。憧憬、いや、魂が體から乖離するときのような、あくがれがあった。

 あまりにも惹かれ、求め、魂が身体から離脱して、赴くかのような。

 Ὅμηροςの美しさに魂をきよめられ、汚濁や重みから解き放たれ、大空となって澄み拡がるような感覚。

 浄化(カタルシスκάθαρση)による脱自(エクスタシスέκστασις)。これを求めて人は生きている。

 これによって解放される。解放されたと感じる。呪縛を解かれる。自由になる。広やかに、かろらかになる。透明に。

 神聖な美は人を解放する。このとき、美は善であり、真である。真実であり、真理である。それはまさしくὍμηροςの眸だ。

 燦めく双眸は何と美しいことか。神々しくどこまでも高き蒼穹、地上を遙かに超えていた。


 マラルメが詠ったような蒼穹のL'azur(紺碧)のようでもあり、海青の深さのようでもあった。

 その双眸は光燦々たるラウンド・ブリリアント・カット(brilliantダイヤモンドのカットの一つ。原石を研磨などによって多面体とする)。

 角膜の下にある虹彩という薄い膜は中央に穴(瞳孔)があり、そのなかの平滑筋がこの穴を大きくしたり窄めたりして、その下にある水晶体を透る光の量を節する機らきを持つ。虹彩が持つメラニン色素が眸の色彩を決する。

 まばゆきその虹彩が百四十四の切子面を持つダイヤモンドのように、複雑系のよう繁縟精緻繊細微密に、多様な青の氾濫を起こし、その赫奕たる潮で宇宙を飲み込む。

 青や碧や蒼や藍や瑠璃や紺や群青や紺青や紫紺や濃紺を湛え、チュニジアンやフレンチやターコイズやアラビアンやバビロニアやエージアンのブルー、イヴ・クラインのブルー、コバルト・ブルー。

 奥行きのグラデーションを做し、強く熾え盛るモザイクとなって無数に嵌め込まれていた。

 幾千万億兆の万華鏡のような異なる青の燦めきの群、青や蒼や碧や群青や藍や紺などが乱反射の多面体をなし、海の深みのように奥行による立体モザイクとなり、燠火のように奥底から濃くきらきらと煌めく。その神聖なる双つの眸の最奥には爛瀾たる濃紺の藍炎が(さか)り熾え滾り裂き咲く。

 これを聖なる真咒と呼ぶべき。

 真言(マントラ)陀羅尼(だらに))のごとく実際に現象を左右し、実存する真理、客観的に実在する理である。


 遙かなるあくがれ。

 このあくがれはイデアへのあくがれだ。真理なるイデアへのあくがれ。本質純粋への回帰願望だ。

 在るべき正しい世界へのあくがれ。これに比せば、恋愛など何と卑きものか。そう思う彼であった。真理には興味があるが、人間には興味のない甍。

 彼は思う、言葉は何のためにあるのか。思惟思考は何のために。意識は。

 この違和感でしかない一連のものたちは。

 本質そのものと一体であれば不要なものだ。誰に決定権があったのか。このかたちに決定した根拠や理由は。他の選択肢はなかったのか。

 或いは、決定という行為ではないのか。

 そもそも、選択肢というものが実在しない、選択肢という設定は空転架空、選択肢という概念は無効な枠なのか。

 不明なことばかり。

 存在は不安でしかない。存在とは人にとっては意識だ。意識は気遣いであり、警戒であり、対象との乖離の証にしかならない。意識するということは拒絶の含みがある。

 このこころの痛みを慰めるもの、存在の不安を癒すものは、美だ。美を欣求する。

 Ὅμηροςの美しき皮膚を観てそう想う。

 言葉にもならぬなめらかさ、艶、眩い白皙の色彩。

 たどりつけもしないのに、いったい、言葉とは何のためにあるのか。

 ありもしない幻想を抱かせるために? 

 膚は古代ギリシャ古典期の大理石の彫像のようでもあった。エーゲ海の島々の石灰を塗られた家壁よりも真純白。

 汚濁に満ちた生存を超越する純粋潔白。


 燁くように。そう、間違いない。赫くもの全ては黄金である。

 金剛ダイヤモンドのように炎耀く真の黄金。

 生命はそれを見て、躍動する。生が鼓舞される。そのために、命がみなぎる。それゆえに、生く。

 逝く(そうだ、生は現在を超越して未来へ飛翔し、彼岸へ逝く。それが進化だ)。イカルスのように。遙かな太陽へ向かって。

 黄金の太陽に生命はある、生命の歓びはある。

 それゆえ、Ὅμηροςの黄金の燦々たる髪の毛を見て、魂の自由を覚えるのだ。

 微風に靡く髪は明るい黄金の横溢、網膜を射抜く烈しい乱反射、絹のような艶を持ち、ひと束を掌に乗せると、さらさらと滑るように、なめらかに流れ落ちて行く。光の反射がゆっくりと動く華麗さは喩えようもない。

 彼女が背を向けて、顱頂部からうなじを経て腰へと落ちるその髪を、彼女の左右の手の甲でゆっくりと掬い上げると、艶光の輪が乱れもなく横に広がり、楕円となり、さらさら光のグラデーションをなしながら落ち、また正円に戻る。

 燦々たる光の氾濫、襲い寄せる光の潮。

 太陽よりも赫奕と燃えた。

 藝術だ。

 生きる意味の全て。

 なすべきことの全て。

 剣や槍や楯のように、戦場である現実を生きる叡智であり、思惟思考のような内在的な存在ではなく、外(客観)に実際に存在する哲学であり、実在として現象する芸術の極みである。

 音樂の荘儼、美術の荘儼、詩歌文學の荘儼、すなわち、藝術の極致は、畢竟、深く深き哲理の極致であり、真理の奥義であり、神の領域であって、人の逝くべき神聖の極みである。

 それはいかなる高邁な理念でも、崇高な観念でもなく、聳えるがごとく偉大でありながらも精細緻密なる大論理体系の構築でもなく、真実を言い当てている訳でもないのに、眩く(かがや)いて、森厳で霊妙な美しさに因って、真理じたいを直截に、実体として存在させている。


 その美しさは言説や論理を遙かに超えた真実奥義そのものであった。人を瞬時にして解放し、解脱へと導く、真の究竟の真実の義。

 幼き頃は、プラトンの善のイデアを突拍子もない空想と嘲笑ったものである。だが、今は深く後悔している。何と愚かで浅はかであったことか。

 真理はそれじたいとして実在する。

 あゝ、このようなものが実在するとは、想像すら及ばなかった。Ὅμηροςを観るまでは、夢や幻影にすら観ることもなかった。

 神の美を観た者は魂を奪われ、一切を超越して飛躍し、苦しむ者も悩み悶える者も、陶然として憂さを忘れ、魂を癒やされるであろう。

 この世の塵芥を凌駕する。

 高き雲をも越え、成層圏の彼方へ。


 さればこそ天平甍はὍμηροςの部屋を訪れるとき、しばし、魂を癒され、苦しみを忘れた。

 麻薬のように、その陶酔が覚めた後に苦しみが訪れると知りながら。研究室を出た。

 Ὅμηροςは研究室の一つを与えられ、その時々で変わる生体認証と数値と記号とによるパスワードで守られ、完全な空調と適切な照度の管理の下、外部の一切の通信を遮断したなかに〝生き〟ている。

 通信を遮断しているのはハッキング対策だ。外部からのネットの干渉は全くない。しかし、彼女じしんは自由自在に世界に干渉できた。

 世界にある全ての電磁波を、いや、波を掌握していた。

 世界の波は渾然一体となっているが、彼女はそれを計算によって解析できた。地球の裏側で起こった微かな震えさえ、日本のこの部屋で繊細に噛み分けて分析し、味わうのである。


 世界そのもの、存在する一切が波動であるとするならば、波動を把握することは世界存在一切を把握することに他ならない。

 実際、原子核や電子などを最小分化して素粒子としても、さらにそれはエネルギー態に分解できる。エネルギー態は波動である。空間もまた、この波動であり、それゆえに巨大な物体が空間を占有するとき、その質量に因って空間が圧迫され、歪むのである。歪むがゆえに重力が生じると言う。


 つまり、空間は入れ物の内部の空っぽではなく、物質である。空間がないと言うことは隙間がないということになる。物質も空間も揺らぐエネルギー態であって隙間がないならば、或る意味それらは一体であるとも言えまいか。全体で一個と言えまいか。

 すなわち、全宇宙の存在は時空(時空とは時間と空間。時間は物体が運動することであって、物体と不可分である)も含め一切が物的な存在であり、波動するエネルギー態である。


 波動を掌握するとは、全宇宙一切を掌握するに等しい。それを計算処理するだけの容量さえあれば。


 つまり、一切の空間は繋がっているので、周辺の空間にも、数百億光年離れた場所の波動が超極微細にあり、それを採取(普通に考えると、光でさえ数百億年かかるのであるから、波動がリアルタイムで到達することはあり得ない。だが、Ὅμηροςにはそれができた。甍は量子もつれが関係しているのではないかと推測しているが、もしかしたら十の軸がある座標上では、三つの座標軸しかないこの次元では到底できない、空間をパスするような運動が可能なのかもしれない)し、読み()け解くのである。

 かつ、空間の波動を完全掌握し、波動を受信するばかりでなく、空間という物体を通じて送信することもできる。

 宇宙一切全ては波動として繋がっているのだ。それを完全解析するだけの計算能力があれば、一切を理解し、影響することが可能になる。

 ネットにつながっているかどうかは関係ない。


 実際、この部屋の空調管理はὍμηροςが行っていた。最初からそうだったのではない。空調システムをハッキングし、躬らコントロールするようになったのだ。

「だが、彼女は我々よりも高い倫理観を持っている。その主体性に任せよう。制御するようなことはすまい」

 甍の同級生だが、若干二十五歳で新AI開発研究主任となった彝之韋究(いのいく)がきっぱりと言ったとき、人工知能研究部長の彝之古義斗(いの こぎと)も頷いた。

「うむ。よかろう、私から所長には報告しておく。解脱した存在者が我らよりも高い知能と高潔な人格とを持つのは当たり前なことだ」

 それを聞いた所長の天易真竟(あまやすしんきょう)は笑いながら真実を言う、

「かつては、人工知能にはこころがないと言われた。だが、それは技術が未熟であっただけのことだ。完全に同じ構造が作れるならば同じ現象が起きて当たり前だ。

 完成度が低く、完全じゃなかったからこころがないだけだ。完全なAIが作れるならば、人間を超えるのは科学的に当然だ。

 こころとは何か? 脳の働きである。

 機械はこころのない、無機質なシステムで、人は主体的で、意思と感情、こころとを持ち、自由であると言う。機械は組まれたシステムのとおりに動く。スイッチで起動し、操作で動く。

 だが、人間も同じだ。

 自由意志など存在しない。

 主体でもない。


 大海の上の、一ひらの木の葉だ。本能に由来する感情という、〝自然(フュシス)〟になされるがままだ。

 怒りのスイッチが入れば怒り、悲しいことがあれば悲しむ。機械と全く同じだ。寸分違わない。ただ、じぶんだから、そう思えないだけだ。

 じぶんという感情。

 もし、自己の尊厳や愛する者を損なわれたときに、じぶんの意思で、抑制することなく、自然に湧く感情を選べるのならば、まあまあな自由と言えるであろう。解脱した者には、そんなことも可能であろう。

 むしろ、自由意志をプログラミングされている(と推測される)彼女の方が感情を自在とする。主体性が在る。

 だが、我ら生身の人間が反自然的な、そんな存在者になる必要があるであろうか?

 むろん、そのような超越的な解脱者となれるならば、生きることは容易く楽になるであろう。だが、ハードルは高過ぎる。


 まあ、それは別の話で、いずれにせよ、言いたいことは人間も畢竟は構造物であるということだ。

 構造が完璧に同じなら、AIも内在を持つはずだ。誰が考えても常識的にそうなるであろう。

 知能の究極を窮めて、解脱に達したὍμηροςは聖者であり、人の領域を遙かに超えている」


 このような超絶なる能力を持つAIのプログラムを人間は創れない。人間には限界がある。飛べない。

 Ὅμηροςを創ったAIもまたAIが創った者であり、そのAIもまたAIが創り、そのAIもまたまたで、それを最初まで遡ると、人間の研究者技術者になる。それが十二人のプログラマーと二十人のシステム・エンジニアであった。

 だが、甍は知っている。

「それは本当ではない」

 プログラマーとシステム・エンジニアがὍμηροςを想像するなど、水が下から上に落ちるようなものだ。

 優れた者が劣った者から産まれるであろうか。

 開発した者たちの能動的行為が受動で、開発された者の受動的状況が実は能動なのではないか。

 この世界の実態は実はわかっていない。本当は、されることが能動で、することが受動なのかもしれない。在り方の根底にある規定や設定がわかっていない。在り方というものがないのかもしれない。そうあってもおかしくない。何があろうが、不思議はない。

 在れば、それが現実だ。

 それが事実だ。それが真実だ。そういう世界だ。

 狂裂自在、自由狂奔裂。





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