えぴろーぐ Epilogue
アカシック・レコード、阿頼耶識、集合的無意識の世界で経験したことが、激しい疲労を与え、ここしばらく甍は静養していた。
研究室に戻ってからは、溜まった仕事に忙殺され、ふと気がつく。なぜ、忘れていたのであろうか。
最近、韋究に会っていない。
彼の研究室を訪ねた。甍も持っているが、個室が与えられるのだ。
ノックをした。返事がなかった。
もう一度叩いた。
何か声が聞こえたような気がした。引き戸の取手をつかむと、ロックされていないことがわかった。いつもそうであったが。
「韋究、僕だよ。入るよ」
そっと少しだけ開けた。
韋究は坐っていた。甍の方を見ず、ぼんやり壁を見ていた。
「おい、韋究、どうしたんだ」
机上もテーブルも散らかっていた。さまざまな本があった。多くが画集のように見えた。
韋究は返事をしない。呼吸はしているようだ。生きてはいる。
「韋究ってば」
やっと物憂げに甍の方を見る。
「やあ」
そう言ったように見えた。
「どうしたんだ」
周囲を見廻しながら、尋ねたが、応えはなかった。
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの画集が開いていて、秋の収穫が赤系の色彩で描かれた絵が見えていた。
「ゴッホの唯一売れた絵だ。買ったのは画商であった弟のテオだ。今でこそ数億円数十億円で取引される彼の絵も、彼が生きている間には全く売れなかった。彼はじぶんじしんが偉大な、有名な画家であることを遂に知ることはなかった」
甍はそうつぶやいた。
そして、韋究の前に立った。
まるで、廃人のようだ。眼差しは虚ろで、氣が感じられず、肘掛け椅子に力なくもたれている。手には頁が開いたままの一冊の本を持っていた。実体のない無力なはずのものが韋究を打ち破ってしまったのだ。
むろん、具体的に何か病名がつくはずだ。人間も物理的な現象なのだから。そのためには状況を把握しないと。それが現実だ。
「ねえ、韋究、どこか」
具合が悪いのか、病気なのか、と訊こうとしたが、やめた。ホルモン・バランスが崩れたとか、何かの神経伝達物質が過剰に分泌されてしまった、とか、情緒や知性に関わる病ならば、慎重に対応しなければならないのではないかと思ったからだ。
「むろん」
人間も化学的な現象の集積である。そうなる原因が起これば、そうなる原因の導くとおりの結果になる。理由はわからないが、世界は因果律に規定されている。縛られている。全て因子による現象でしかない。必然性、自由はない。ヒュームは否定したが。
いずれにせよ、固有の人格は実体としては存在しない。それはヒュームも肯定するであろう。
全ては刹那刹那の化学反応による集積が、たまたま、その瞬間瞬間に人間を形成しているだけだ。あたかも連続性があるかのように装って。
「けれども、信じ難いよ。君のような人が。神のごとく、君は全ての遮蔽物を越えた。いつも皮肉な笑みで。
ミケランジェロが神のごときミケランジェロと呼ばれていたならば、君にもその名が相応しかった。不敵な自信に満ちていた君に」
これも已むを得ない現実か。
櫻華の散り乱れる美しき自然の摂理か。
そうであろう、間違いなく、そうであるだろう。しかし、正しいことか。いや、正しくない。『現実は全肯定だ』と韋究は言った。
だから、一つだけを肯定するのもよい、って。つまり、現実で起こることと同じだ、と。
そんなことがあった。
あったけど、それがどうした。海で溺れたときそんなこと考えるか、爆撃されたとき、炎に包まれたとき、考えるか? 考えない。考えないとすら思わない。だから、今はそんなときじゃない。違うか? いや、そうじゃない、そうじゃなくて。
あゝ、この緊急事態に僕は何を言っているのか。
あゝ、けれども、どうにかなりそうだ。
言葉があふれて止まらない。
「さあ、逝くよ、韋究。君がこんなことで、どうにかなってしまってはいけない。さあ、韋究。逝こう、韋究。ねえ、立てるかい?
兎にも角にも、ドクターのところへ。さあ、韋究。逝くよ。君は少なくとも体がどこか悪い。それは間違いない」
彼を起こそうと屈んだとき、開き掛けのページが見えた。
甍も読んだことがある美術書だった。想起する。何度も想起したものだが、記憶のなかで繰り返すうちに幾許か変じていた。
ジョルジュ・スーラに関する章だ。新印象派、点描派などと呼ばれたスーラは才能ある画家であったが、三十一歳で世を去った。
彼の盟友であった画家シャニックの言葉だ。それは限りなく美しく悲しくて、忘れられないものであった。読んだ当時、感銘した文章(ただし、反芻するうち、無意識的に改竄・脚色され、原文に沿った正確な文章ではなくなっているが)であった。
『……スーラが世を去って逝ったとき、批評家たちは彼の美学と才能とを讃えたが、こうも言った、残念なことに、若くして死したため、彼は作品を残す時間がなかった、と。
だが、私はそう思わない。スーラは人間として可能なことの全てを行なった。全てを出し尽くした。
絵画に於けるすべてに新しい見通しを立て、白と黒との効果を整理し、線と形態とのバランス、構図の取り方、色の対照とハルモニアすべてを検討し、決定的に確立した。彼の仕事は完成し、見事に成就している。
一人の画家にそれ以上、何を望めるのか……』
甍は振り払うように激しく首を振る。
「むろん、望めようはずもない。限界がある。理想は追えない。息をしている人間なんだ、無餘依涅槃なんて無理なんだよ。飛べと言うようなものだ、超越なんかできっこない。少なくとも、一世代ではあり得ない。絶対に。破滅しかない。途上の犠牲、無名の犠牲。積み重ねられた屍の一つ。
全肯定なんか無理だ。それが現実だ。
だから、墜ちた。墜ちるべくして落ちた。太陽を目指したイカルスのように。
彝之イタルのように」
所内には医院がある。どうにかそこへ連れ込む。途中、多くの助けを求め、さまざまな人に援護されたが、甍は憶えていない。
最大の危惧は、フリードリッヒ・ニーチェのように、韋究が韋究であって韋究でなくなってしまうことだった。
晩年(と言っても四十半ばから五十半ばであるが)、ニーチェは躬らをディオニュソス、十字架に架けられた者と言い、仏陀、アレクサンダー、シーザー、シェイクスピア、ヴォルテール、ナポレオンも我が化身であるとした。コジマ・ワーグナーをアリアドネと呼んだ。そして、最後は意思の疎通もままならぬまま、五十五歳で死した。
今、幸いなことに韋究は恢復に向かっている。春の窓から病院の庭をベッドの上半身部分を電動で立てて、静かに眺めている。
医師は奇跡だと言った。
韋究ならば奇跡など当たり前だ。甍はそう言った。そして、虚しく微笑んだ。偶然、薬が合った。
偶然に過ぎない。医の力ではない。甍はそう思い込んでいた。幸いなことだ、と。紛れもなく奇蹟である、と。
しかし、いや、それゆえに、甍の不安はあれ以来、掻き立てられ、狂おしく止まらなかった。
脳内の機能の何かが壊れ、神経伝達物質の分泌が狂えば、人はその人ではなくなってしまう。人間存在とは、そのような儚い一時的な化学的現象でしかない。それが連続の見掛けを做す非連続でしかない。
それは何もない、という以上のことだ。無空ですらもないということだ。絶空すらお笑い種だ。
結果がその人の定めだ。最初から決まっていた運命だが、最後の最後まではわからないため、運命を考慮することに意味はない。
科学的に明晰判明で、無味乾燥な事実、それしかない。仏陀が死せるごとく。
誰もが知る、当たり前な現実しかない。
解脱しようがしまいが人の勝手だ。自由だ。何も指標指針はない。現実しかない。自由狂奔裂。絶空だ。