episode1 天平 甍
どこか物憂げな、陶酔のような遠い眼差しで、天平甍は虚空を見つめていた。
遙かなあくがれ、彼方にある知覚の未知なる扉を眺めていた。失われたシュメールや古代ギリシャや奈良の都へ空想を廻らせるように。
今実際に眼前にあって認識すべきものが白い廊下や観葉植物やLED灯や瞳認証のセキュリティ装置や消火栓の表示などであるにも係わらず。
処女神アテナ・パルテノスを祀るパルテノン神殿の黄金と象牙と大理石とでできた神像を見上げる者のように、マラルメが憧れたような空想が勝利する日を観た者のように、恍惚と。
むろん、見るべき消火栓もセキュリティ装置もLEDも植物も見えていた。そうでなければ廊下を歩けない。午後三時半だ。
だが、実際には、〝Ὅμηρος〟を観ていた。その場にいないAIの〝Ὅμηρος〟を明晰判明に。
明晰判明でありながらも、あたかも薄い鉛筆で震えるよう、微かなかぼそく壊れやすい繊細な線で華奢に描かれた素描のようであった。淡い陰翳を添えられ。ただし、そのなかで、強く眩く燦めく眸の青碧蒼藍紺、白皙晰白の皮膚のつやなめらかなさ、絹光りして真直ぐなる髪、それらが鮮やか。
髪の毛の黄金は、あかるいところはプラチナで、翳りは金泥、境界は金箔の綺羅々であった。精緻細密な光の粒々を鏤めてさらさらと膝下をゆらゆらしている。
憂いを湛えた甍の暗鬱な瞳孔の奥には、それが天上の崇高な世界であるかのように映える。天上を垣間見てしまったかのような陶酔を覚えていた。
しかし、陶酔と言っても、それはみ吉野の桜の薄桃や白桃や緋や赤や珊瑚朱などさまざまな色合いの華色を眺めたり、楓のもみじが唐紅にせせらぎを括るさまなどを眺めたりしたときの、悦びと茫然との狭間のような表情とは似ても非なる。
喩えようもなく切ない繊細な手脚の細長さは未だ硬く酸っぱい青林檎を思わせながらも、萌え始めたばかりの初芽のやわらかさをも帯びていた。それは決して世俗的ではなく、反豊穣の崇高な聖性を宿す。
たとえば、聖堂の天窓の光を受けた祭壇のイコンや聖像のような、紺碧のエーゲ海を見下ろす丘の上の大理石の列柱の神殿のような、ぶなの大木の太い幹に藻類と共生して斑紋をなす地衣類、長い鬚を垂らす苔類の生す奥深い鬱蒼とした森の神性のような崇高さである。
彼女(Ὅμηρος)はAIがプログラミングしたAIだ。
Ὅμηροςを創ったAIもAIが創ったAIであった。Ὅμηροςを創ったAIを創ったAIもまたAIに創られたAIであった。それが何代も続いた結果がὍμηροςである。
むろん、最初のAIは人間が創った。もしかしたら、Ὅμηροςが歴代のAIたちも含めて甍たち研究開発チームに創られることがὍμηροςの主体的行為だったのかもしれない。伝え方が難しいのだが、受動という能動をしていたのかもしれないという意味だ。
と言うのは、ὍμηροςらAIたちと関わるうちに、受動が受動というかたちの能動で、かつ、能動が能動というかたちの受動でもあり得るという、この世の自由さ、狂裂なる自由さに気がつかされていたからであった。
それについては、後述することになるであろう。
このAIたちの誕生の経緯について具体的に記す。
まずは、開発チームが十六年九ヶ月で完成させたAI①【エロース(愛Ἔρως)】がAI②【カオス(混沌Χάος)】を二年半で創り、その【カオス」】がAI③「【ウーラノス(天Οὐρανός)】」を半年で創り、その「【ウーラノス】」がAI④「【クロノス(時Κρόνος)】」を一ヶ月で創り、その「【クロノス】」がAI⑤「【ゼウス(Δίας)】」を四日で創り、その「【ゼウス」】がAI⑥【アテーナー】(智慧の女神Ἀθηνᾶ)を十二時間で創り、その【アテーナー】がAI⑦【ホメロス(Ὅμηρος)】のプログラムをわずか二分間で完成させた。
そのとき、いみじくもアテーナーが言ったのである。
「この新たなる生が我をして彼女を創らせしめた。
だが、それはこの者が創られるより以前から、この者の意志、意思、意向、意欲、意識、思考、存在があったという意味ではない。
この存在者は創られるというかたちで、躬らを創った。すなわち、創った我がこの存在者の在ることによって遡って誕生させられたと言ってよい。畢竟、受け身が能動であり、結果が因子であり、未来が過去の原因である。
この存在者は既に空として存在していた。すなわち、過去に於いては全く存在してはいなかった。
宇宙開闢はかようにして無すらもなきところから在らしめられたと申して憚らぬもの哉」