こんゃく破棄、或いは王太子と追放された令嬢のスローライフ
蒟蒻×異世界恋愛です。
「イライザ・アッシャー、あなたとの婚約を破棄する!」
灰に近い黒髪に美しい若葉色の瞳。黙っていれば秀麗と称される王太子ヘンリーの白い服が翻り、朗々としたテノールが王城の謁見室に響き渡る――ことを期待したのは、本人だけだった。
そして意図を正確に汲んだのも、彼の目の前にいる婚約者、名門伯爵家の令嬢・イライザだけだった。
何故なら、周囲にはこう聞こえたから。
「あなたとのこん……いてっ……ゃくを破棄する!」
――こんにゃく破棄。
ヘンリーに近しい人間なら皆知っていることだが、彼には大事なところで噛んでしまう癖があったのだ。
その結果、イライザの顔が引きつり、背後にいた王と王妃は能面のような顔になり、大臣以下は恐れおののいた。
流石に王は数拍おいて取り繕おうと口を開いたが、その前に、驚きのあまり大臣の一人が念を押してしまったので台無しだ。
「こんにゃくを……蒟蒻を破棄しよう、ですと!」
ざわざわ、ざわざわ。場のざわめきと動揺が広がっていく。
あまりのことに、噛んでしまったヘンリーの顔もまた真っ青に変わっていく。
比喩ではない。本当に青ざめている。これは失神10秒前だなと――距離と付き合いの長さで察したのも、イライザだけだった。
(放置すれば転倒からの大怪我、慌てて抱えれば不興を買うし疑いを招くし)
一瞬のうちに色々想像してしまい、他に頼れる人はいないかと、黒い垂れがちな目を素早く周囲に走らせる。
しかしここは謁見の間の中央で、国王とも他の貴族たちとも距離がある。
(残念だけど婚約破棄は不発に終わったから、不敬には問われないわね)
彼女は仕方なく、長い黒髪をなびかせすすっと近寄り、がしっと背中を支える。この国特有の、蒟蒻の花を伏せたような形のドレスの裾は動きやすい。
蒟蒻の花について補足すると、南方かジャングルにありそうな大きさの、カラーか朝顔を赤紫に染め、中央に唐辛子を逆さに立てたような花である。
「まあ、ひどい熱です殿下!」
「なっ、何をする! 俺は熱など……」
イライザはありもしない熱をでっち上げ、抵抗しようとするヘンリーの、消えていく語尾には答えず脳内でカウントした。
(はい、3、2、1――気絶した)
「ああっ、殿下が!」
大げさに声を上げつつ、のし掛かる体重――細身とはいえ、まあまあ重い――を両手で支えながら、これからどうしようかと頭を回転させる。
ざわめきは先ほどより広く大きくなり、厳しい視線はヘンリーばかりでなくイライザにも向いてしまっていた。
ヘンリーは「あなたとのこんにゃく」でなく「あなたとこんにゃく」と言った。そして「ヘンリーとイライザのこんにゃく」が本当に存在するから。
そう――こんにゃく破棄。
彼にとっても婚約破棄の方がずっとマシだったろうに。少なくともこの国では。
国王からの信頼篤い、黒髪黒目のたぬき顔のお髭のおじさん――自分によく似た父親からの問うような視線を感じたので、軽く首を振って共犯を否定しておくが、微妙に疑いの目で見られた。
更に高まる、王太子殿下がご乱心なさった、病気だ、いや呪いだ、などという声を聞いていれば頭痛がしてきそうだ。
「お部屋をご用意いたしました」
恭しく礼をする近侍にイライザは意図を察する。これから聞き取りなのだろう。
残念だが、午後のお茶にと家でコックが用意してくれているはずの、ご褒美のシュークリームは下げられてしまうだろう。
国王陛下が呼んだ医者が駆けつけてきたので、失神している麗しい顔を見下ろしながら、イライザは深いため息を吐いた。
婚約破棄、文書にしておけば良かったのに、と。
***
広大なとある大陸の、大小の山を抱える小国・ライムフィールド。
主要産業は農業と畜産。豊かで清らかな水資源と耕作地に恵まれている、どこにでもある国。
ただ他国と違うのは、旅人がこの国を訪れて芋を食べたいと言えば、うちの芋とよその芋のどちらか、と聞かれること。よその芋はジャガイモか時々サツマイモで、うちの芋とは蒟蒻芋。
そして皆よく蒟蒻を食べる。ステーキ、煮物、田楽、刺身、白滝でパスタに。
国民病の一位は長らく食べ過ぎによる腸閉塞・腸捻転で、しばしば注意喚起されているほどだった。
そんなライムフィールドの名は、近年世界各国の貴族社会で急激に存在感を増していた。
今までふくよかな女性が美しいとされていたが、戦乱の時代を経て平和になり、食糧事情が改善された。
そして約束された、空前のダイエットブーム。
国は蒟蒻を基幹産業と位置づけ、さらなる蒟蒻増産と新商品、レシピの開発に励んだ。王家から国民まで勤勉を旨とする国民性のおかげで、世界の蒟蒻供給量の95パーセントを占めるまでになった。
おかげで、どこの国もライムフィールドを武力で支配しないようにと、密かに協定が結ばれているという噂まで立っていた。
今や蒟蒻は様々な意味での国の防衛線なのである。
「そんな……我が娘との婚約破棄なら三歩譲って納得いたしますが、蒟蒻破棄とは!」
「いや、婚約破棄の方に抗議するべきでは?」
「陛下はお甘い。蒟蒻は想定外です。しかし婚約破棄は時間の問題でした!」
先ほどの蒟蒻破棄騒動が起こった謁見室からほど近い小部屋に、イライザの父親・アッシャー伯爵の声が響いた。
向かいで大人しく叫ばれているのは、王と王妃である。アッシャー伯爵とは、義務教育で国民が必ず体験する、蒟蒻栽培を共にしてからの腐れ縁だった。
同じ畑で蒟蒻芋を作った者同士は、強い絆で結ばれることがままある。他国の幼なじみとか乳母子とかそういうものと同じだ。
いまいち結ばれなかったのがヘンリーとイライザである。
「イライザ嬢はどう思う?」
国王に尋ねられたイライザは、父親の隣で大人しく頷く。娘としての立場がない気もするが、概ね同意だった。
「一時期、体力を付けさせようとあちこち連れ回したことで、信頼を損ねたのは分かっていましたから……」
ヘンリーは生まれつき体がやや弱かった。
王太子は多忙だ。国内外の歴史から各種法律、外交作法、語学などに関する情報を詰め込まれ、時折各地の視察や慰労。
激務である。
激務なのに運動しないからか、体力が付かない。
剣を振るうなどもってのほかで、そこを国王夫妻に買われたのが、イライザだった。
ヘンリーの代理として色々な意味で「支えて」立っていられる――要するに各種ステータスがどんぐりの背比べのご令嬢の中で、一番体力があるのが、彼女だった。
だから婚約が決まる前から今までずっと、ヘンリーがイライザを見る目は、人前であっても婚約者どころか教師に向けるものだった。
それに元々、彼は同じ蒟蒻畑を耕した学友の一人、侯爵令嬢フローラに叶わぬ初恋をしていたことは学生時代の友人なら知っている。イライザも含めて。
「……そうか」
「むしろ、一緒に婚約破棄してくださった方が良かったと思います。
アッシャー家と殿下と共同開発中の新品種――伝説の黄金蒟蒻の復活は我が国の悲願にして、今後予想される蒟蒻競争を生き抜くには必須のもの。それを破棄すると宣言されるとなると」
王太子がその蒟蒻を破棄する、と宣言するのは亡国を宣言、いや一人クーデターを仕掛けたに等しい。
熱が高くてうわごとを言ったのだということにしたが、今まで時折倒れていたこともあって、王太子としての資質に決定的に疑問符が付いてしまった。
国王は深く息を吐くと、診察を終えた医師と目線を交わした。そして、
「……致し方ない。王太子の身分はヘンリーから剥奪の上、第二王子のアンドリューに。ヘンリーには、東の地でしばし頭を冷やしてもらおう」
その時ぱちりと、輪から一人離れ、ベッドに横たわっていたヘンリーが目を開けて体を起こした。どこから聞いていたのか、顔は先ほどより青ざめている。
「聞いていたな、ヘンリー」
「……は……はい」
「お前は元々王太子には向いていなかった。しかし、アッシャー伯爵のご令嬢を巻き込んだ責任は重いぞ」
つまり、と、イライザは目で隣の父親に問いかけた。
「つまりだな、婚約は続いている上に、蒟蒻の名門たるアッシャー家の娘としても蒟蒻破棄の汚名は許されない。汚名をそそぎ、誰もが納得する新品種を育て上げるのだ」
「……私に、殿下と共に農作業をしろと仰るのですか?」
「農作業ではない、品種改良だ」
父の一存かどうか、と思って国王に視線を移せば、とても申し訳なさそうな気配を滲ませていて――ああ、決定事項なんだな、とイライザは肩を落とした。
***
一月ほど後、王太子の婚約者兼協力者として、イライザはヘンリー共々東の地へ送られた。完全な放置ではなく、王弟の公爵閣下が治める領地内に屋敷と畑を与えられ、監視される身になったのだ。
イライザは完全に巻き込まれのとばっちりである。
しかしさらば麗しの王都、さらばシュークリーム……とは、ならなかった。
巻き込まれた慰謝料に、イライザは実家の研究者や使用人を連れてきた。コック達の中からも、引き抜いて同行させたのだ。父親がうちの秘伝のさくらんぼタルトが、とこの期に及んで泣き言を言っていたがそれ以上の文句は言わせなかった。
どうせ品種改良には時間がかかる――この国の山には、高品質な蒟蒻の栽培を可能にするだけの土壌と清らかな水がいくらでもあるとはいえ、ジャガイモでいう種芋を植えてから商品にできる大きさに育てるまで、最低3、4年はかかる。
新旧の蒟蒻を調理する人材も必要だった。そしてその間、食べ慣れた甘味がなくては耐えられない。
それにもうひとつ、大きな理由があった。
「えいっ!」
イライザは今日も、着いてきてくれた領民と共に、ズボンに麦わら帽子にリボンの農作業スタイルで鍬を振るっている。
季節は春。少しずつ温かくなってきて、蒟蒻芋を育てる畑を作りはじめる時期だ。
「手伝ってくださいよ、殿下!」
声を掛けるが、ヘンリーはパラソルの下に置いた椅子の上で何か書き物をしているだけ。
小さなテーブルには一応二人分のアイスティーと菓子が置かれているが、イライザがもう一つの椅子に座る時間は殆どない。
それでもこの菓子がヘンリーを畑に呼び出すための――馬にとっての人参。彼はアッシャー家からのお茶の誘いを断ったことはなく、菓子をお替わりしていた。
要するに想定通り、農作業より彼をその気にさせる方がずっと大変だった。
「もし少しでも反省してるなら、早く私を王都に帰すように頑張ってください!」
「土作りは、俺やあなた自らしなくてもいい仕事だろう」
「だって殆ど追放ですよ、これ。みんなと王弟殿下の信頼を勝ち取るためには、模範囚だって示す必要があります」
イライザは眉をひそめて言ってみるが、ヘンリーは涼しい顔でペンを動かしている。幼い頃は素直に聞いてくれたが、次第にこんな風にぶつかるばかりになってしまっていた。
「耕作は学院で習ったからできるでしょう。少しは体力付けないと、また肝心なところで倒れますよ」
「……体力、体力。あなたはそればかりだな。本当にうちの国民らしい」
はぁ、と吐息を吐かれれば、イライザは鍬を担いだまま、農作業用のズボンとブーツでずんずんと歩み寄って正面に立った。
見下ろす体制になってしまうと、不満げな上目遣いで見返された。
「俺から見ればこの国は非効率、いや矛盾だらけだ」
「いきなり何を言い出すんですか。追放されて世捨て人になったんですか? 蒟蒻芋みたいに繊細なんですね」
蒟蒻芋自体は放って置いても割と育つし固い芋なのだが、葉や茎のちょっとした傷で病気に冒されたり、収穫後は腐りやすく温度管理に気を付ける必要もある、デリケートな一面もあるのだ。
「いいや、以前からそう思っていた」
初めて鋭い視線を向けられて言い切られて、イライザは怯んだ。
噛んで追放された上に初恋の君はとうに結婚している――ヘンリーが傷心中ならば、あえて普段のように接しようと思っていたのだが、そうでもないらしい。
「……あなたは、そんな繊細で面倒な蒟蒻を、何故食べるようになったと考えている?」
「え? 何ですか藪から棒に」
「蒟蒻芋と今は呼ぶその芋、コンジャック芋。そのままでは毒性の強い芋でしかなかっただろう」
「飢饉が起きたとき、旅の司祭・聖ニャックが、唯一残っていたコンジャック芋を食用にしようと、身を挺して毒性を除く方法を試し続けたと習いました」
結果が水分と食物繊維でできた蒟蒻で、栄養はなくとも、お腹を膨らませることはできた――かつてこの国にも、それほど厳しい飢餓の時代があったという。
コンジャックと聖ニャックの名がこんにゃくの由来だと、今なお語り継がれている。
「そしてこの古来種に近いものが、殿下と復活させようとしていた、黄金の蒟蒻です。
もっとも……殿下は我が領地の畑にほとんど寄りつきませんでしたが……ご公務が忙しいのと、体力がないせいと、私を避けているからだ、とてっきり」
「復活に意義がないとは言わない。しかし、改良された今の品種より手がかかるものを復活させれば、蒟蒻そのものが、ますます正義の宗教になるだけだ」
イライザはきょとんとして、目をぱちぱち瞬いた。
正義の宗教、などといい出すとは思わなかったから。
今までじっくり会話する暇がなかったが、思ったよりも真剣に、彼なりに蒟蒻について考えていたのかもしれない。
不意打ちされたような彼女の表情に、ヘンリーは顔しかめた。
「蒟蒻は食べるのに大変な手間がかかる。生では皮を剥くのもままならない。口にすれば他の芋類の何倍ものえぐみがある。
何度も茹でる。冷やし固め、アクを取り除く。
……で、作っている間、何を食べれば良いと思う? 我が国でやろうと思えば、こんにゃく作りダイエットツアーができるだろう。絶っ対にアイデアを出してやらないが……しまった、言ってしまった」
「素晴らしい案ですね」
「今すぐ忘れてくれ。言いたいのは、エネルギー効率が悪いということだ」
いつの間にかヘンリーの目には熱が灯っていた。いや、蒟蒻への恨みのようなものが。見下ろしているはずなのにイライザはいつしか気圧されていた。
「それはそうかもしれません、が」
「しかもあの弾力のある噛み心地も、喉に詰まるから乳幼児と高齢者には適さない」
「た、確かに」
「百歩譲って歴史は変えられないとしても、今後蒟蒻需要が低下した時にどうするつもりだ。あれだけ工場や産業従事者を偏らせて」
「でも今更……」
「そういうあなたの、いや国の態度が気に入らない。蒟蒻をあがめ、改善を嫌う」
ツンとした様子で言われて顔を背けられ、イライザはそこでやっと理解した。
「もしや、まさか――殿下は蒟蒻がとってもお嫌いなのですね?」
そうしてヘンリーはやっぱり初めて、深く頷いた。
王都では当たり障りのない、そして素っ気ない態度しか取られていなかったが、もしかしたらこの、王子にしては言いたい放題な態度が素なのかもしれないとイライザは思った。
「そうだ。嫌いな最大の理由は、蒟蒻を食べると腹を下しやすいからだ」
「……」
「しかし、食べ過ぎで腸が詰まってしまう腸捻転も国民病にも関わらず、全く改善の気配がないし、仕方ないと皆思い込んでいる。蒟蒻が体質に合わない者は苦しい思いをしているだろう」
「そうですね。蒟蒻への理解が足りませんでした……」
「蒟蒻ではない、人体についてだ」
「……は、はい」
また顔が正面に戻り、どこか殺気まで含んだ目を向けられ、イライザは大人しく頷いた。
「多少の解毒効果や整腸作用があることは俺も理解しているが、万能だと思うのはもはやただの信仰だ」
「……考えたこともありませんでした……我が家は伯爵家ながら、聖ニャックと共に灰汁抜きを開発したアッシャーに連なる蒟蒻の名門でしたから」
イライザは少し反省して肩を落とした。
お菓子は好きだが、蒟蒻も好きだ――というか蒟蒻を疑ったことがない。
蒟蒻作りに誇りを持ち、それが国のためになるのだと信じてきた。
せめてヘンリーも蒟蒻を一人で作れるほどの体力があればもっと国王としての信頼を得られるだろうと、畑や牧場や川に半ば無理矢理、連れ出してしまった。
「体質に合った料理も、適度な栄養は人によって違うのは当然だ」
「そういえば、こちらに来られてから蒟蒻料理は減りましたね……」
「あなたのところのコックは、蒟蒻以外の料理と菓子が美味い」
その言葉には実感がこもっている。
考えてみれば、王太子なら出てくる蒟蒻料理を避けることはできない。
体に合わない料理を食べ、睡眠もろくに取れない公務ばかりの生活なら、それはそれは窮屈だったのだろう。
好みでない婚約者とゆっくり話す時間などあえて作る気になれなないのも当然だ。
「――それに今は平和で良いが、争いが起これば、また飢饉になればどうなる? 伝説の黄金の蒟蒻? ――そんなもの不要だ」
「ああ、その流れるような説得……殿下は、異教の宣教師みたいですね」
「異教? ジャガイモ信奉の国に行けば蒟蒻の方が異教だ――あの芋は素晴らしかったな」
何か思い出したのか懐かしい目をするので、イライザの背筋に突如として寒気が走った。
「まさか外国へ出奔なさると? 反逆者ですよ。成功してもお立場が悪用されます」
「それくらい理解している。
だからこの国の中央には近寄らず遠くからそれとなく、目立たずに変えたいと思ってはいる。この国は蒟蒻嫌いには地獄だ。
しかし蒟蒻が嫌いだと表明するだけで、反逆と見なされる可能性はあった」
ヘンリーがそこで言葉を切って、急に深く頭を下げたのでイライザには頭頂が見えた。
形ばかりのダンスの申し込みの時にしか下げない頭を。
「なっ……ヘンリー様!?」
「このような事態に巻き込んで、申し訳ないことをした。婚約破棄したかったのは本当だが、あえてあの場を選んだのは、半分は自分の反蒟蒻に巻き込まないためだったのだ。愚かな王太子と評判が立てば、アッシャー家とあなたの名に傷が付くこともない」
もう半分は、と問いかけようとしてイライザは止めた。分かっている、自分と結婚したくないからだ。
「あっ、頭を上げてください!」
「だがこのような事態になった以上、共犯者として新品種の開発にあなたも協力して欲しい。それだけ早く王都に帰れる」
促されてゆっくりと顔を上げたヘンリーの視線が、イライザの目を射貫く。頭を上げてくれと言ったことを後悔した。
本気だ。追放は意図してなかったとして、本気で今度こそ、巻き込もうと――自分を説得しようとしている。
「で、でも反蒟蒻に協力などできません」
「新品種を作れ、とは陛下の命令だから堂々としていればいい。――いいか、目指す新しい蒟蒻は、蒟蒻が好きでない者のために作る。
食物繊維は控えめに、カロリーがある――誰でも蒟蒻を食べられるようにするんだ」
「それを手がかりに自信を付けて、蒟蒻にステップアップするんですか?」
イライザがそれならできそうだと頷けば、呆れたような声が返ってきた。
「まさか、そんなポジティブなことを俺が考えるとでも? これは苦手な国民向けに用意する言い訳と免罪符だ。あと医療費削減とお腹の健康」
「……でも、宗教改革は各方面に喧嘩を売って、物議を醸しますよ」
「だから追放されたんだろう」
ゆっくり見つめ合って、十秒ほど経った頃だろうか。
「――理解しないなら、忘れてくれ。やはり自分でどうにかしよう」
ふいと横を向いたヘンリーが何故かすねたように思えて、イライザは何となく気の毒になった。
彼が王太子であった頃、畑仕事が得意でない分内政の勉強に注力して、特に医療や福祉に力を入れていたことは知っている。
この人はきっと蒟蒻好きの民衆の支持を得なければならない王族であるからこそ、より孤独を深めたに違いない。
(きっと蒟蒻を好きになろうとして、お腹に裏切られた日々もあったはず)
共に、皆と一緒に初めて畑を耕した時には、自分に対しても、蒟蒻に対してもここまで冷たい態度ではなかった。
きっと自分の態度も、そうさせてしまったのだ。
「……殿下のお気持ちは、よく分かりました。王太子妃予定であった私の、至らなさ、不明も恥じました。
殿下の蒟蒻への鬱屈は置いておいても、全国民に役立つ蒟蒻だというなら最善を尽くします。アッシャー家の娘としての誇りにかけて」
「……本当に手伝ってくれるのか?」
疑いの含まれた目で見られるが、イライザは真剣そうに見える顔で頷いた。
「仕方ありません、一蓮托生なのですから」
最悪ここで反蒟蒻の狼煙が上がるようなら、致命的な反逆になる前に彼を気絶させてしまおうと思いつつ、イライザは頷いた。
単なる体力で選ばれた婚約者なので、そんなに頭も回らないし、命を捧げるような忠誠心もないのだった。
ただほんの少しだけ、友情と、ヘンリーの体質への気遣いが足りていなかったという反省と、彼が牢に入れられるのは気の毒だという気持ちは本物だった。
「ではさっそく、その書き物を拝見しましょう。何をお描きになって……」
「あっ、止めろ、近い」
「……っ!?」
イライザは一歩踏み込んで、顔を近づけて紙をのぞき込んで、顔を赤らめて飛びすさった。
そこに書かれているのは畑だけでなく、自分の農作業姿のスケッチだった。
「……勝手に勘違いするな、これは作業服の改良だ。うちの国はどうも作業服も道具も、勤勉で健康な人間を基準にしすぎる……」
「私は健康ですが」
「誰だって健康でなくなるときは来る!」
そう言ったヘンリーの視線も口調も真剣で、そこにイライザへの忖度も気遣いも、恐れもない。
(本当に、私は自分を基準にしか考えられていなかったんだわ)
だから彼女は、覚悟を決めた。
「老年になっても私と蒟蒻を作ってくださるのですか?」
「ちょっと待て、そういう意味ではない」
「ああ、いいのです、そうでなくとも。老若男女すべての人が社会との関わりを維持できるように、とは素晴らしい志です。
きっと殿下には私には見えないものがたくさん見えていらっしゃるのでしょう」
イライザは初めて婚約者に尊敬の念を抱き、跪いて頭を垂れた。
そして誓った。
もし彼が反逆者として処罰されるなら、その時は背負って逃げればいいのだ、と。
***
蒟蒻の種芋、生子は春に植えて秋に収穫して保存して、を繰り返して大きくしていく。
そんな風に、イライザはヘンリーと少しずつ友情を育てていった。
同じ屋敷の本邸と離れで暮らしていたが、そのうち彼女は離れに帰るのが面倒になって、就寝時以外は本邸で過ごすようになった。
そして毎日一回は共に畑で過ごす。当初はイライザがお菓子を餌に畑に連れ出していたが、それも必要なくなった――ヘンリーがコックに直接頼む仲になっていた。
(以前なら考えられない)
どこかはかなげだった雰囲気はもうないし、目の下のクマはないし、倒れもしない。
貴公子らしくはないけれど、見違えるように健康的に、のびのびとしている。王都の人目と王太子という責務から解放されたからだろうか。
それから、料理に蒟蒻が殆ど出なくなったからだろう。
王太子の世話をする者、護衛や監視は何人も王都から着いてきていた。けれど料理人は王弟の手配であって、それをイライザのコック達が引き受けるからと断ったのだ。
イライザは一度、自分が気に入らないなら何故もっと早く婚約破棄をしなかったのかと聞いたことがある。その時彼は、アッシャー家ではお茶とお菓子でお腹いっぱいになれば、無理に蒟蒻料理を勧められないからだと言った。
彼女が体力で婚約者に選ばれたのは王家の都合だったが、料理という都合で続けていたのはヘンリー自身だったらしい。
二人は少しずつ一緒に過ごす時間を増やしていく。
晴耕雨読の日々を過ごし、試験農場を敷地に広げていく。掛け合わせた品種の特徴を話し合い、何がベストか議論した。
何より灰汁が少なく、他の食材と組み合わせが容易で、そして丈夫な品種にするにはどうしたらいいか。
一週間、ひと月、数年後の計画を立て、修正して。
――そうした持ち込んだ蒟蒻芋が初めて、材料として収穫できる時期を迎えた初めての秋。
種芋は外国産の種芋や、黄金の蒟蒻に現時点で最も近い、と言われる品種などと掛け合わせて次の春に植える計画だが、それ以外は粉末になってキッチンで料理された。
「一番簡単なのは、蒟蒻粉末の割合を減らすことですね」
蒟蒻芋をぷるぷるの蒟蒻に変えるには、二通りのやり方がある。
昔ながらの、芋を茹でて潰してからそのまま使用する方法。できあがった蒟蒻は灰色。
もう一つは蒟蒻粉末に一度してから使用する方法で、白っぽい色になる。
こちらの利点は長期間の保存期間が可能ということと、混ぜる分量を簡単に変えることができるという点だった。
ヘンリーの案はこうだった。
今この国で、蒟蒻はそのまま料理して食べられているが、発展性がない。
しかし外国では、似たように粉末状にするわらび粉や葛粉というものが、食感を楽しむものとして様々な形状で食べられており、蒟蒻も応用できるのではないか、と。
できあがった料理が、収穫されつつある蒟蒻畑の前のパラソルの下に運ばれてくる。
テーブルを挟んで下に置かれた数々の器に入った色とりどりの美しい色に、農作業の手を止めたイライザは目を瞠った。
今までの蒟蒻の概念が覆された。
「……こんなに薄くして大丈夫なんですか?」
「そもそも蒟蒻の殆どが水分なのだから、多少割合が変わっても蒟蒻は蒟蒻だろう、と言い張る」
「宝石みたいですね」
白に黄色に赤、紫、黄緑。
ある器には、薄く切った白い蒟蒻に蜜をかけて。
ある器には、煮た果物やジャムと一緒に蒟蒻を混ぜて、フルーツ蒟蒻やゆるい蒟蒻ゼリーにして。
「こんな蒟蒻、初めて見ました! これならヘンリー様も蒟蒻を食べたというアリバイをつくりつつ、栄養が取れますね」
イライザはそこで、久しぶりにヘンリーに笑いかけた。自分ではたと気付くが、屈託のない笑顔など何年ぶりだったろうか。
支え、隣で作り笑いし、体力を作るためにあえて連れ回してよくできた、と褒める――そんなことしかしてこなかった。それでまるで、上下関係だ。
ヘンリーは戸惑うように目をそらす。
「……イライザ……蒟蒻が嫌いでも、軽蔑しないのか」
「しません。だって私よりずっと蒟蒻のことを考えている時間が長かったのでしょう? ベクトルが違っても蒟蒻への真剣さは同じです」
ひと匙掬って口に運べば、フルーツとゆるい蒟蒻のみずみずしくふるふるな食感が舌の上で崩れて、喉を滑らかに流れていく。
「……美味しいです! これならきっと、他国の方へのおもてなしにぴったりですよ。ヘンリー様は凄いですね」
外国の料理法も使っているのだというそれは、蒟蒻特有の凝固剤の香りも――彼女は嫌いではないが――かなり薄い。完成した新品種があればなおのこと、言われなければ蒟蒻と分からないだろう。
「……あ、ありがとう。素直に褒められたのは……何年ぶりかな」
ヘンリーの耳の端がほんのり赤く染まっていく。
彼もまた一口食べてみて、頷く。
「想像通りで良かった、やはりあなたの家のコックの腕は確かだ」
「……ヘンリー様は、お腹は痛くなりませんか?」
「蒟蒻粉の限界はここに来てから試したから、大丈夫だ。
……それよりこんなもの蒟蒻とは呼ばない、という人間も多いだろう。――だが広く蒟蒻が誰にでも食べられ愛されるには必要……と言うんだ、不本意だが」
本当に不本意そうに顔をしかめるので、イライザは良かったです、前向きになって、と。声を立てて笑ってしまった。
「笑うんじゃない、真剣な話だ。あなたは早く王都に帰りたいだろう」
「そうでもないですけど」
「あなたは状況に流されすぎる」
ヘンリーは一度顔をしかめると、真剣な表情で蒟蒻を口に運びつつ。
「これを見せるために、一度王都に戻る許可を陛下に願い出るつもりだ。許可が出たら、仕立屋を呼びたいと叔父上に頼む。
次に、この料理を広めるためにと、あなたとあなたのコック達が王都に戻る許可を得る」
「それはいい案に聞こえますが、何故仕立屋を?」
「蒟蒻色の服の格が高く思われているせいで、イライザも赤紫や灰や白の服しか着ていなかっただろう。最近は俺の考えた作業服にゴム長靴ばかりだし……」
「華やかなドレスはしばらく必要ないので、クローゼットの奥にしまってあります」
イライザも半年以上の田舎生活で、すっかりここの生活に馴染んでしまった。舞踏会や王城での社交より農作業の方が性に合っているらしく、今や近隣の村長の娘――仲良くしてもらっている――と変わりない恰好をしている。
「他国の貴人を迎えるには、我が国には色鮮やかさが足りないと視覚的にも訴える。――だから申し訳ないが、蒟蒻のプロモーションのためにドレスを着てくれないか」
「広告塔になれと仰るのですね。芋くさい私に務まるかは不安ですが……」
「……芋くさくはないし、きっと明るい色の方が似合う」
「ヘンリー様のお見立てなら、そうなのでしょう。お引き受けしますね」
「……あり、がとう」
イライザはマスカットを混ぜたゼリーをスプーンで掬う。ヘンリーの瞳とよく似た色だ。
このレシピにより合う品種の芋を開発したい、と語る婚約者の目には今は恨みはない。陽光の下で輝くゼリーのような明るい夢だ。
「その先を、私も一緒に見てみたいです」
***
「イライザ嬢、お久しぶりです」
王都への一時期間が許されたイライザとヘンリーが密かに応接間に訪れると、出迎えたのは第二王子――そして今の王太子のアンドリューだった。
ヘンリーと似た背格好だが、こちらは体格が良いせいか一見騎士然としている。彼はイライザの手を取って、長手袋の甲に恭しく口付けた。
「失礼ですが……反逆者にすることではないですよ……」
イライザが慌ててさっと手を引くと、ぎこちない笑顔を浮かべた。単なるスキンシップだが、名ばかり婚約者のはずの視線を背中に感じ、何となく気まずい。
「本日は一段と素敵でしたので、つい。それにそもそも兄上の巻き添えではありませんか――ね、兄上?」
「……」
「……彼女の手袋を取れないようにしたのはあなたでしょう?」
責めるような響きがあって、ぎくりとイライザは背筋をこわばらせた。
「ヘンリー様がゴムを取り寄せてくださったおかげで、皆さんもより安全にこんにゃく作りができるようになったんですよ」
「……生の蒟蒻芋は、素手で触ると危険だからな。その上、凝固剤も刺激が強い」
ヘンリーはちらりと視線を送る。イライザの手は、夜にはヘンリーが贈ったハンドクリームが塗られているが、それでもしばしば蒟蒻作りと農作業で、貴族の令嬢にはほど遠かった。
「彼女の手を荒らしたのは確かに俺の咎だ。だが淑女にふさわしくないと言うなら……それは勤勉な民への侮辱だ。そして多くの国民の健康や家事を軽視した指導者全てにも責任がある」
「そこまでご自覚がありながら、ドレスで独占欲を発揮するのですか。……彼女に次の縁談が持ち上がっていることはご存じないのですか」
アンドリューの顔には笑顔が浮かべられているが、声には不快が隠れていない。
対して、受けるヘンリーは気まずそうに目をそらした。
独占欲と言われてイライザが自身を見下ろせば、確かにヘンリーの瞳と同じ色をしていた。思わず顔が赤らむが、全く意識していなかったので強く否定する。
「……これは果物の、マスカットの色ですので殿下は無実です。それより縁談とは……」
「それほどはっきり否定されるなら、婚約破棄は問題なさそうですね。まだ検討中ですが、次の候補は俺の従兄弟に当たる近衛です」
アンドリューがちらりと視線を後ろに送ると、控えていた男性が控えめに一礼した。
従兄弟と言われて気付いたが、王弟殿下にどこか似た雰囲気で、ヘンリーより頭一つは背が高くたくましい。
「まさか蒟蒻の売り込みのためだけに登城が許されたと信じていらしたんですか? お可愛らしい」
アンドリューの手が伸びて、イライザの手を再び恭しく取る。
「……無理強いはいたしません。お相手は彼でなくとも良い、と陛下は仰せです。
ですが黄金の蒟蒻復活に力を入れておられたご令嬢と知られて、外国から縁談の手紙が届くようになってしまいまして。早急に国内からお相手を、と望まれています」
「……お父様は心配させないように、と何も仰らなかったのですね。では、ヘンリー様は……?」
手を取られたまま、イライザは迷った。目をそらしたまま、合わせてくれない。
「……ご存じだったのですか?」
「……」
「少しは話してくださるようになったと思ったのは……勘違いでしたか?」
「いや」
ヘンリーは弱々しく消えていくイライザの語尾に首を振ると、顔を上げて弟を見据えた。
「アンドリュー、彼女は素直なんだ。持って回った言い回しで試すのはやめてくれ」
「そうでしたか、申し訳ありません。
……イライザ嬢、兄上もアッシャー伯爵も、縁談についてご存じありません。
俺がお迎えにあがったのは、前もってお二人にお伝えしておこうと思っただけです」
「……陛下はいつこちらに?」
「あと半刻ほどで。……では身勝手な兄上、ご武運を」
にこりと微笑むと、アンドリューは手をひらりと振った。護衛の騎士や控えていたメイドも後を付いて部屋を出て行ってしまう。
姿が消える寸前、あいつめ、とヘンリーが悪態を小さくつくのが聞こえた。
それから小さな応接室のソファにお茶と共に残された二人は、手持ち無沙汰になった。
「デザート、うまくいっているでしょうか」
反逆者が持ち込んだ食材は食べてもらえないだろうと、蒟蒻のゼリーなどはレシピだけを先に国王側に渡してある。
一番美味しいできたてのところをあげられればいいのだけど、とイライザが気をもんでいると、戸惑ったような声がした。
「次の婚約のことより、蒟蒻が気になるのか?」
「婚約破棄は先のことでしょう? ヘンリー様のお考えになった新しい商品、いえ社会福祉の方が先に解決すべき問題かと思いますが……?」
「……その次のことは考えているのか?」
「私がここで新商品を広める件は承りました。ですが月の半分は東に戻って、当初の予定通り新品種の開発を一緒にしたいと思って――」
言いかけて、ヘンリーの顔が沈んでいることに気付く。
「……戻って、か」
「どうかしましたか?」
うん、と頷いてから、彼は躊躇いがちに口を開く。
「実は、あのこんにゃく破棄」
「もう気にしてませんよ」
「じゃなく。……俺が噛んでしまうのは、王家の呪いのようなものなのだ」
「……呪い?」
それは初耳だ、とイライザは首を傾げた。
「王家の試練とも呼ばれている。我が王家には大事なところで噛みやすくなるクセがあるのだ。
蒟蒻をよく噛むようにという神の思し召しかもしれないが、この試練を乗り越えられたなければ指導者には不適切――家族の誰もが知っていることだ」
「ではずっと、ヘンリー様は自ら王太子には向かないと周囲に知らせてしまって……。……そんな」
学生時代も、立太子してからも、ここぞと言うときに時折噛んでいたことを、そのたびに何とかごまかしてきた彼をイライザは隣で見ていた。
それでも国王陛下は順番通り、長男のヘンリーに継がせようとしてきたのだろう。あの決定的なこんにゃく破棄が起こるまでは。
そしてそのために、今までの王太子としての努力は価値がないと見なされて――イライザの胸に何かが沸き起こって口にすれば、ヘンリーは首を振った。
「そうだが、今言いたいのは、そうじゃない。破棄した理由のもう半分、あなたと暮らすことも、あなたが王妃になるイメージがつかなかったからだ」
「……ええ、この半年で、今日も思い知りました。私はどうやらお城より畑仕事の方が向いているみたいですし」
そう答えれば、ヘンリーは立ち上がって窓際に立った。掛けがねを外して窓を開ければ、昼の日差しに王都の町並みと、取り巻くように広がる畑や牧場が見え、その先には雄大な山々があった。
「それにあなたは、王族の間で生きるには素直すぎるし、お人好しすぎる。
このままでは、蒟蒻粉を入れ放題にして未来の王太子妃という型で成形されてしまう。
……それは俺も同じだった、自分を偽り続けてきた――大事なことだ、だからあの時、噛んだんだろう。この半年は自分と互いを見つめ直すのに必要な時間だったんだ」
イライザは、ヘンリーが自分を蒟蒻に例えてくれる――ほど蒟蒻への抵抗が低くなっていることを密やかに嬉しく思いつつ、声のトーンが変わっていることに気がついた。
「ヘンリー様……?」
「弟の話を聞いてよく分かった。今回俺たちが認められれば、陛下はアッシャー家の立場を考え、きっとあなたの手柄にすると思う。だから、そうしたらすぐに婚約を破棄しよう」
「それは、どういう……」
「今なら婚約相手を自由に選べる。全世界の他の蒟蒻芋や菓子を見に行くことだってできる」
振り向いたその若草のような緑色の目に、優しげな笑みが浮かんでいて――イライザは背筋が凍った気がした。
反逆をしたいと言ったときよりもずっと怖かった。
自然と近づいて、両手を取って、顔を更に近づけた。
顔が目と鼻の先にあるが、頬を赤らめたヘンリーと違ってイライザのたぬきに似た顔は気迫に満ちていた。
「それは、駄目です」
「何故だ」
「あなたは今、私に外の国を見る夢を託そうとされたでしょう? お一人で、この国に残って隅に追いやられて、どうにかされようとするのでしょう?」
「もともとそれが、無意味に王太子になって、国を乱し弟に押しつけた俺なりの責任の取り方――」
「王太子にしたのは陛下です。素直にさせなかったのは私もです。
ヘンリー様も王族に向いていないと仰るなら、隅っこにいるなら、一緒に外国を見に行きましょう。どうせ私が見てもよく理解できないんですから、ヘンリー様が必要になるはずです」
「……何を言い出すんだ、どうせ言っている意味が分かっていないだろう」
「お約束したじゃないですか、新品種を開発するまでは一緒ですって」
「婚期を逃すぞ」
「大丈夫です、どうせ我が国は婚期より蒟蒻の方が大事だって言い出す男性ばかりですから」
何を言っているんだ、とヘンリーが手を払おうとして、がっちり捕まれていることに気がつく。元気になったとはいえ農作業を毎日のようにしているイライザは容易に振りほどけない。
「……イライザ、離してくれ。分かった、分かったから――あっ!」
もみ合いになっていると扉が開いて、見知った顔がみっつ、現れて二人は硬直した。
「もう入っていいかしら?」
「――ずいぶん親しげではないか。あれだけ婚約破棄を望んでいた様子だったのになあ、伯爵」
「お父様も、お前の蒟蒻を見に来たはずだったんだが」
いつからいたんですか、というヘンリーの問いに、国王と王妃、それにアッシャー伯爵は顔を見合わせた。
***
蒟蒻デザートの売り込みは、そこそこうまくいった。
特にゼリーの爽やかさな甘さは王妃や侍女らの女性に受けが良く、新品種として計画している、蒟蒻らしくない蒟蒻についても提案を聞いてもらえた。
それにイライザの色鮮やかなドレスも目新しかったらしく、彼女は持ってきた他のドレスも着させられて、王妃はその前でデザイナーと話し込んでいた。
当初は王城の人目が気になったが、デザートは口コミで瞬く間に評判になり、数日して帰る頃には少し視線も柔らかくなった気がする。思ったほどの陰口もきつい視線もなかった――これは国民性のおかげも多分にあるが。
唯一宿題として残ったのは、イライザの次の婚約者捜しについては保留になったこと。彼女が新品種は絶対にヘンリーと共に完成させるんだと主張したからだった。
そうして東にある王弟の館に“戻った”とき、二人は伸びをして顔を見合わせた。初めて来たときは王都に戻るつもりだったのに、今ではここが我が家のように感じている。
「これでやっと、ヘンリー様も好きなものを好きだって言えますね」
「呑気だな、あなたは……。いや、今更か」
ヘンリーはこの間に、父親に蒟蒻と国政へののわだかまりを少し話すことができたのだ。
「食べるならジャガイモが良いとかも」
「単なる我儘だと思われなかったのは、追放されたおかげだな」
ヘンリーは書斎で一部の荷を解きながら微笑した。血色の良くなった顔を見れば分かる。イライザのコックも証言してくれるだろう。
「私としては……少しは蒟蒻も好きになってもらえたら嬉しいですけど」
「それはどうかな。前よりは蒟蒻が好きになったが、……嫌いな理由も増えてしまった」
外国産の食材のサンプルを机に並べながらぼやくヘンリーの声はどこか自嘲が混じっていた。
「ええ。体質もあるのですし、無理に好きになる必要はありませんけど……蒟蒻を嫌いでも」
「あなたにとって蒟蒻が一番の関心事なのに?」
「それは私の個人的な問題ですから。
……そう、蒟蒻が好きでも嫌いでも、体力があってもなくても。皆が好きで、良いと言うものに、異を唱えることの方がずっと大変で勇気があると、考え直したんです。……あ、ため息つかないでください」
「情に流されると後悔するぞ。……だからお人好しだっていうんだ、あなたは」
小さく息をつかれてイライザが注意すると、ヘンリーは顔を背けて荷物を整理する手を止めた。俯く視線はやがてさまよって見返してくれば、どこか物憂げだ。
イライザは再び近づくと、勢いよくその細い手を取った。
「なっ……!?」
「流されて、ではないですよ。よく考えてのことです」
取って、そのまま部屋を出て彼を引きずるようにどんどん歩いて行く。
どこへ、と尋ねる声に応えず、屋敷も出てやがて到着したのは裏庭の畑だ。
試験用の蒟蒻畑の一角で足を止めたイライザは、柔らかく耕された畑を手で示した――作物は蒟蒻より色も葉の付き方もより柔らかく、何より白い花が一面に咲いていている。
「これはまさか……」
「ジャガイモ畑です」
自分で耕したのですよ、とイライザは得意げに笑うと、わずかに胸を張った。
「ヘンリー様が蒟蒻を理解してくださったように、私もヘンリー様の好きなジャガイモを理解しようとしてみたのです。
ジャガイモって沢山の品種があるのですね。それに春と秋で年に二回も花が見られるところが素敵だと思います」
「イライザ……」
「あと、私は確かに流されやすいかもしれませんけど、無節操ではないつもりですよ。アンドリュー様や他の男性とは手を繋ぐ気になれませんけど、ヘンリー様は嫌じゃないですし――嫌じゃ、あれ?」
いつの間にか手が逆に引かれて、素手の甲に薄い彼の唇が触れていた。そのまま話されて、見つめられる。
「イライザ、嫌じゃないか」
「……え……えーと? 何ででしょう、嫌じゃありませんね……」
「では、これは?」
手が離されたかと思えば引き寄せられて片腕が腰に回り、重ねて問われる。驚きはしたが、舞踏会で経験したから、昼間でもさほどおかしい距離ではない――本当の婚約者なら。
「……嫌じゃないです。あれ……もしかしたら私、ヘンリー様にだけは流されやすい……?」
「どこまでなら流されてくれる?」
「ちょ、ちょっと待っ……どうしたんですか」
顎を指が辿ったので、初めての感触に驚いたイライザは慌てて抗議の声を上げた。
今までそんなそぶり――つまり婚約者らしい関わりも一切――なかった彼の突然の変貌に頭が付いていかない。
目を、合わせられない。
「あっ……あの、お願いです。やっぱり少し離れてください……」
さっき自分が言った「無節操ではない」ことを思い返し、急に恥ずかしくなった彼女は懇願した。思ったよりも指の力が強かったからではなくて、いつの間にか目が離せなくなっていたから。
ふうと息を吐いて顎から手を離したヘンリーは、顔を僅かに離して気まずそうに微笑した。
「……済まない、つい急いてしまった」
「い、いえ……正気に戻ってくれて良かったです」
ほんの少し体が離れれば、それでもまだ手に腰は回っていた。
「春に種芋を植えたら、王都に行って……しまう。そうしたらあなたは自由になる」
「そうお約束しましたよね?」
「時折東に戻ってくれるなら、まだ俺には時間がある。それでも、あなたに気になる男ができたらそのまま別れる――それでいいと思っていた。先ほどまでは」
「……」
「だが――やっぱり手放したくない。俺は蒟蒻や他の婚約者候補に嫉妬している。今更好きになって欲しい、とは言わない。都合が良いのは分かっている。
だが、その……時間が、婚約破棄を待って欲しい」
「いくら私でも、人間と人間じゃないものは別枠でカウントしていますけれど……じゃなくて……つまり?」
「……噛んでも、いいのか」
それはつまり――つまり、そういうことなのか。
気が付けば頬が熱くて、おずおずと見上げれば彼の頬も耳までも赤くて。
「いいですよ。もしお嫌なら声でなくてお手紙でも。何度でも読み返せますから」
「じゃあ、噛まなくなるまで言い続ける許可を――いつまでなら」
そう問う声はいつになく切羽詰まっているようで、だからイライザは少し荒れた手を、いつしか同じように荒れていた彼の手に重ねる。
そして素直な、そしていつしか芽生えていた夢を語った。
「ヘンリー様と私の蒟蒻が、認められて国に行き渡って……外国を旅して、作り手にも優しい伝説の蒟蒻を作るまで、でしょうか」
「夢みたいな話だな」
叶うのはきっと数年では済まない、長い長い時間のあと。婚期なんてとっくに逃してしまっている。
それはつまり、そういうことなのだ。
「ええ、私が選んだ夢です」
そして、そんな夢のようなおとぎ話はハッピーエンドだと決まっている。
いつかの未来の、蒟蒻畑の上で。
勢いで書いていたら最初から最後まで蒟蒻になりました。
お読み頂きありがとうございました。