六 近づく心
アスカルディ、正装で登場。
深呼吸をして扉をあける。
黒い闇がかかる空に、青く冴え冴えと輝く月が浮かんでいる。
白い網のような月光が射し、わずかに地上を照らしだす。
澄んだ夜気にまぎれるように佇んでいた人影が、ゆっくりと振り返った。
「……カリサ?」
「……ルディ兄さま?」
カリサとアスカルディは互いの瞳の中に互いを映したまま、立ちすくんだ。
風がざあっと吹いて、二人の服の裾を煽る。
先にはっと我に返ったアスカルディが、動揺もあらわに、口元をおさえた。
「……まいったな。あまりにきれいで、別人かと思った」
「……ありがとう。ルディ兄さまこそ、男のひとみたい」
アスカルディは夜よりも夜のごとく、黒一色の衣装を身にまとい、外套の代わりに長いマントをはおっている。
無造作に束ねた金髪、軽薄さを拭い取ったまなざし、化粧なしの素顔は、いままで見たどの顔よりも鋭く美しい。
「付添い人希望者は二人?」
ゾフィの言葉にカリサはもうひとりの存在を知った。
「シュナイツァー? どうしてここに?」
執事補佐のシュナイツァーがアスカルディの陰に隠れるように佇んでいた。
「……私は、付添い人を希望しているのではありません。お嬢様のお帰りをここでお待ちしております。どうか、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「ではあなたは?」
ゾフィの問いに、アスカルディはカリサに向かい、手を差し伸べて言った。
「彼女から、話は聞いたね? 私を選びなさい」
ゾフィの眼が注意を促してくる。
カリサの耳に、ゾフィの忠告がこだまする。
『誓願の儀は、一歩館を出たときからはじまっています。付添い人は必ず本命を選ぶこと。もしあなたの本命が迎えに来ていないのなら、ひとりでいくのです』
カリサはアスカルディの眼を凝視した。
いつか見た、痛いほど真剣な、思い詰めたまなざし。
「ついてきてくれるの?」
「君のためなら、どこへでも」
迷いのない言葉に、カリサの心は温まる。
おずおずと、指先を重ねる。
すぐさま手を握り締められ、ぐっと身体を引き寄せられる。
「いってらっしゃい。幸運を」
カリサは片手をあげてこれに応えた。
洞穴はひろく、おびただしい生きものの気配がするのにかかわらず、一切の姿が見えないことが、ひどく不気味だった。
「怖い?」
「ううん」
「へぇ?」
「だって、ルディ兄さまが一緒だから。怖くても平気」
カリサはアスカルディの長い指に指をからめて、結んだ。心が強くなった気がした。
どんな力がはたらいているのか、カリサの青いドレスが発光し、淡い青の光を放っている。視界はきいた。なにひとつ、生きものを見つけることは出来なかったが。
「……どうして女装してこなかったの?」
「おや、君は女装した私のほうがいいの?」
カリサはあわてて「ううん」と、首を振った。
「付添い人は“青の乙女”の騎士だ。いくらなんでも女装姿じゃ様にならない、少しは恰好つけないと。ま、本当の私は悪党だから、騎士なんて柄じゃないけどね」
アスカルディの声が皮肉を孕み、不意に黙りこむ。
カリサは落ち着かなくなった。沈黙が居心地悪い。呼吸の音が響くのさえ、気恥ずかしい。
「あの……あのね、来てくれて、ありがとう。すごくうれしい。ゾフィからこの儀式の話を聞いたとき、もし付添い人希望のひとが誰も来なくても、わたしはひとりで大丈夫って言い聞かせていたの。でも、本当は心細かったから、ルディ兄さまの顔を見てほっとした」
あのときの気持ちを、どういったらいいのか。
夜を従えて立っていたアスカルディは、胸がすくほど、本当に恰好よかったのだ。
「……どうしていつも、いて欲しいときにいてくれるの?」
「愛だよ。君を好きだと言っただろ。なんだ、信じてくれないの」
アスカルディは笑った。心のこもった、慈しみにみちた笑みだ。
「ほんの子供のころから、私は君を好きだった。そうでもなければ、はるばる王都まで何年も足を運びやしない。君に会いたくて、ただそれだけで――それでも私の心を疑うの?」
「ううん」
「よかった」
カリサは胸を押さえた。心臓がうるさいぐらい、速く脈打っている。
つないだ手が、熱い。
この手を放したくない。
放さないでいてほしい。
「さて、と。分かれ道だ。心の準備は?」
「だ、大丈夫」
突然、抱きすくめられた。
アスカルディの吐息が耳にかかる。
大きな手が後頭部と腰を押さえ、力強い腕がぎゅっと身体にまわされて、少しの間、そのままだった。
心臓が破れそうなくらい、どきどきしている。
頭にカーッと血が昇る。顔が火照る。身体が熱を帯びていく。足元が高揚感でふわふわする。
いまだったら、なにも恐くない。
恐いけど、恐くない。
「……君の無事を祈っている。道の向こうで会おう」
「……うん。ルディ兄さまも、気をつけてね。あの、あとで、聞いてほしいことがあるの」
アスカルディが頷く。それから、
「これは、お守り。持っていて」
手首にひやりと冷たい感触。腕輪だ。細工は分からないが、素材は金属だ。
気懸りそうに細められた眼にみつめられ、またどきっとする。手の甲にやさしい口づけをおとされる。そっと離れる気配。熱がひいて、カリサはさみしく思った。
急に闇が重くのしかかる。孤独をおぼえる。
振り払うように、前を向いた。
闇の奥でなにかが蠢く。
悪夢の再来だった。
まもなく2009年も終了ですね。
なんとなく、ばたばたしています。
今年中――と言わず、明日、明後日にも、この物語は完結します。
もうしばし、おつきあいくださいませ。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。