三 女装酒場で、からまれて
お酒はおとなになってから。
居所を知っている、というシュナイツァーのあとについていくと、案内された場所は、埠頭に近い一軒の酒場だった。
「お嬢様はここでお待ちください。私が中にいって連れてまいります」
「わざわざ連れてこなくても、わたしが行きます」
「いけません。この店はお嬢様のような若い女性が足の踏みいれる場所ではありません。おとなしくこちらで待っていてください」
そう言われては、引き下がるしかない。
シュナイツァーは素早く中に消えた。
周辺には宿屋や小料理屋、賭博場、占術師、夜逃げ屋、仲裁屋、ほか怪しい店の数々が看板を掲げて軒を連ねている。夜なのに、昼間以上のにぎわいだ。
「いいな、こういうの。なんか楽しい」
騎士団の秩序ある生活では経験できない。物珍しさも手伝って、つい油断した。
「お、かわいいねぇ」
「客引きかい? よーしよし、一緒に飲もうじゃねぇの」
「え? ちが、わたし、ひとを待って――」
酔っ払い二人組にからまれて、有無を言わさず店内に連れ込まれ、押し合いへしあい混雑するひとごみをかきわけ、空いていたテーブルに座らされる。
白い泡の立つ黄金色のエールが注がれたジョッキをドンっと目の前に置かれ、「さあ飲もう」と陽気に誘われれば、ちょっと冒険をしてみたくなって……。
「えっと、じゃあ、せっかくだから、ひ、一口だけなめてみようかな」
カリサはいそいそと、ジョッキを両手で持って口元に運び、傾けた、そのときだった。
「そこまでです」
ぎくりとして、そろっと眼をあげると、シュナイツァーとアスカルディ(残念ながら、見まちがいじゃなかった。黒のイブニング・ドレスに黄金の装飾品で着飾った完璧な女装で、世にも美しく変身している)が酔っ払い二人組の頭を鷲掴みにして立っていた。
「私のお嬢様によくもちょっかいかけてくださいましたね……?」と、シュナイツァー。
「ばかめ、間違うな。君のじゃない、私のだ」
と、アスカルディはシュナイツァーを冷たく睥睨してから、眼にもとまらぬ早業で片手にナイフを閃かせ、テーブルに音を立てて突き立てた。
冷たい沈黙。
カリサの顔からざーっと血の気が引いてゆく。
アスカルディがふっと微笑した。眼が獰猛な輝きを点す
「さて、お客さん。さっさとその子の傍から離れないと、捌くわよ? ぶつ斬りにして、鍋で煮込んで、店の客にふるまってあげる。私は手が早いのよ……?」
碧眼が猟奇的な殺気を放つ。酔っ払い二人組はぶつくさ言いながら去っていく。
カリサもあわててまだ口をつけていないジョッキをテーブルに戻した。
「大丈夫?」
アスカルディは素早くナイフを回収し、物見高く集まってきた野次馬を手で追っ払う所作をして、「表へ出ましょ」と言って、カリサの肩をさらった。
熱い手だった。抱き寄せられてどきん、としたが、見上げたアスカルディの横顔が険しかったので、ときめきがしぼんでしまう。
そして案の定、外に出るなり、一喝された。
「あのねぇ、ここ、女装酒場なの。貴族のお嬢さんが来るところじゃないの」
アスカルディの口調は穏やかだが、明らかに怒っていた。
もっといたかったのに、という本音をぐっとこらえて、「ごめんなさい」と素直にカリサは謝った。
「変なことされなかった?」
「なにも。ああいうところはじめてだから、ちょっとだけど、楽しかった」
「反省が足りないようねぇ」
じろりと睨まれて、縮こまる。
「ご、ごめんなさい。でも、どうしても会いたくて」
アスカルディはうなじに手をあて、溜め息をつき、斜めにカリサを見た。
「あんまり心配させないで」
と言って、微笑む。
「久しぶり。元気だった?」
二年前と変わらないあたたかな笑顔に心がゆるむ。すっかり嬉しくなって、カリサはアスカルディの胸にワッと飛び込んだ。
「元気! ルディ兄さまは?」
アスカルディはカリサの前髪を指で梳き、額に軽くキスした。
「君が見習い騎士に昇格してから、この二年というもの、まったく会えなかったよね。その私が元気だと思う?」
「でも元気そう」
「気のせいだね。ふてくされて仕事ばかりしていたよ。でもまあ、君が一生懸命頑張っているのは手紙で知っていたから、不満はないけどね」
そこでちらりと、シュナイツァーを一瞥し、肩をやや落とした。
「……どうやら、男性恐怖症も治ったみたいだし、よかったよ。それで、今回はずいぶんと急な帰郷だね。なにかあったの?」
カリサは事情を説明した。
更に、今夜ここへ足を運んだのは、いてもたってもいられなくなったからだと言うと、アスカルディはカリサの顎をしゃくって言った。
「私に会いたいなら、呼んでくれればいい。いつでもどこからでも駆けつけてあげる」
「なんで?」
「君のことが好きだから」
「えっ」
突然の告白に、カリサは動転した。
「愛しているよ」
告白するつもりが告白されて、カリサは思わず逃げ腰になった。
すかさず、アスカルディに詰め寄られる。
「なんで逃げるの」
「に、逃げてない、けど」
「私が嫌い?」
「ううん」
「じゃ、好き?」
カリサはたどたどしい口調で訊いた。
「……あのう、わたし、か、からかわれているの?」
「いや、本気」
「ほ、本当?」
「ほ・ん・と・う・だ・よ」
アスカルディは淡く微笑しながら、胸の前で組んでいた腕をほどいた。そっと、カリサの頬を両手に包み、額を突き合わせる。
「もっと言うと、妻が呼ぶなら夫は行くさ。たとえ火の中水の中、山の頂き海の底、険しき渓谷を超え空の彼方まで。どこへだって飛んで行くよ」
「つま?」
話が一気に飛躍して、仰天する。
「妻は君。夫は私」
頭の中が白紙になる。
茫然とした反応が気に喰わなかったのか、アスカルディの微笑が厳しいものになる。口元は横に伸びて笑みをつくっているのに、眼はちっとも笑っていない。
「……それとも、君、他に男がいたりするのかな……?」
凶悪な顔で凄まれて、カリサは反射的にかぶりを振った。
アスカルディは満足そうにうなずいた。端然と姿勢を正して、肩にかかる髪を払う。
「それで? 朝まで待てない用って、なにかしら?」
カリサは口をパクパクさせた。
思考が追いつかない。完全に頭が変になっていた。返事が出来たのは奇跡だ。
「十年前は、助けてくれてどうもありがとう」
「……どういたしまして。え、それだけ?」
カリサは続きを言おうとして、唾が咽喉に絡んだ。呼吸が困難になり、むせる。
「おちついて。あわてないでいいから」
アスカルディの手がゆっくりと背をさする。優しい温もり。
事件のあと――眼が醒めてはじめに眼にはいったのは、アスカルディの顔だった。心配そうに切羽詰まった眼の中に、自分が映っていたことをはっきりと憶えている。そしてそのあと、どんなにひどいことをしたのかも。
「……手を、振り払って、ごめんなさい。それから……暴れて、噛みついて、ごめんなさい」
丸二昼夜、四方八方駆けずりまわって捜索してくれたと聞いたのは、だいぶあとのこと。
その彼に対し、手当たりしだい物を投げ、錯乱した挙句、触れられて、噛みついた。驚いた顔のアスカルディを突き放し、ひっくり返った彼の首筋から、赤い血が滴っていた……。
そんな目に会ったのにもかかわらず、アスカルディはカリサを見捨てなかった。男性恐怖症のため、何年もつれない応対をしたのに、辛抱強く会いに来てくれた。
そんな彼を好きになった。
カリサは深々とお辞儀した。
「許してくれる?」
「もう許している」
アスカルディはひょいとカリサを抱き上げた。海上に浮かぶ白い月に高々とかざす。
「私がなぜこんな恰好をしていると思っているの?」
「似合うから」
「あっははははは。面白いことを言うね。でも残念ながら、違う。次に君に会ったとき、男嫌いのままでも、私だけは平気だって思ってもらえるようにさ。なかなか健気だろう?」
ぱちりと片目をつむるアスカルディは無邪気で、少年の日の彼のように、少し幼い。
カリサがみじろぎすると、アスカルディは地上におろしてくれた。
「成人の儀はいつ?」
「あさって。明日はいろいろ事前にやらなきゃいけないことがあるみたい」
「付き添い人は決めたの?」
「付添い人?」
「もちろん、私を指名してくれるよね?」
「えーと……」
「わ・た・し・で・ふ・ま・ん?」
カリサは左右に勢いよく首を振った。付添い人の意味がわからなかったが、なぜか、いやと言えない押しの強さがあった。
「素直でよろしい。じゃ、あさって、迎えに行くわ。シュナイツァー、君も覚悟をしておけ」
シュナイツァーの存在など、すっかり忘れていた。
だが彼は、きちんとかしこまった態度で少し離れたところに控えていた。
執事補佐の気難しい横顔は、近寄りがたい。カリサはなんの覚悟だろう、と怪訝に思ったが、当の本人がなんだか答えたくなさそうだったので、結局訊ねることはできなかった。
押しの強いひとは好きです。アスカルディは、正直カリサにはもったいないな……。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。