二 いざ、真夜中の脱走
男性が女装した場合、問題は、のどと声ですよね。
そういえば、胸がなかったみたい。
と、割とどうでもいいことに気を取られながら目覚めると、そこは我が家だった。
カリサは涙と抱擁、あたたかい言葉と共に迎え入れられた。
少し老いた両親と、三つ年下の妹、はじめて会う九つ年下の弟。それから初老の執事と若い執事補佐、乳母や、ほか使用人数名。
一応、貴族のはしくれで、地方領主でもあるカリサの父は、近辺の有力者の力添えもあり、教会をあつく保護することで、まずまず無難に土地をおさめていた。
カリサ帰還の知らせは、瞬く間に知れ渡った。翌朝、紅の騎士職に就くという、快挙を成し遂げた名誉を称えるものたちが、賑々しく屋敷に押し寄せた。
挨拶は、一日がかりだった。夕食後、ベッドにひっくり返りながら、カリサは呟いた。
「あれは、なにかの見まちがいかも」
アスカルディは名門貴族の次男だ。母親同士仲がよく、別宅が近いこともあり、幼いころは頻繁に行き来してよく遊んでもらったものだ。
カリサが王都にいってからも、ちょくちょく訪ねてくれた。外出も面会も制限され、加えて人目もあったため、長くは話せなかったものの、差し入れや励ましの言葉が嬉しかった。
ただ、素直になれなかったけれど。
カリサは成人の儀を終わらせて、もらうものをもらったら、アスカルディに会いに行くつもりだった。正式に正騎士に就任したら、次にいつ会えるかわからないのだ。
はたと気づく。会いたくて、会えるなら、会えばいい。
「わたしってばか。いまより早いときなんてないじゃないの」
大慌てで外出用の身支度を整える。濃い緑のイブニング・ドレス。髪は成人前の娘に限られた型に結いあげる。マント、帽子、手袋、扇、財布。そして、念のため短剣を携帯する。
「ええと」
“ちょっと出かけてきます カリサ”
と、念のため、書置きを残す。うっかり行方不明騒動にでもなったら大変だ。
十年と少し前、カリサは見知らぬ男たちに拉致された。二晩どこかへ閉じ込められた挙句、街外れの涸れ井戸に放置されて死にかけたことがある。
見つけてくれたのは、当時十一か十二のアスカルディだった。
事件後、狭いところも暗いところもだめになり、男のひとが恐くなった。父親すらも。アスカルディでさえ例外ではなく。
このまま傷を癒せなければ、結婚も、まともな社会生活を送ることすらのぞめない。いまなんとかしなければと神父様に諭され、そうして提言されたのが、紅の騎士団だった。
おかげで、いまの自分がある。
こっそり厩舎に忍び入って、自分の愛馬を首尾よく連れ出したところまではよかったのだが、門前で捉まった。
門番に通報され、駆けつけた執事補佐に睨まれる。
「お嬢様、いま何時か、ご存知ですか」
「遅くに騒がせてすみません。あの、すぐに戻りますから。会いたいひとがいるんです」
「こんな時間に? いったいどこのどなたに会いに行かれるのです」
カリサはたじろいだ。
執事補佐の迫力は堂にいったもので、剣呑な眼つきはアリネアのそれに匹敵する。
中肉中背、細面で、片眼鏡をかけ、この時間もまだ執事服を着用している。いかにも賢くやり手といった風情の彼は、黒髪黒瞳という容姿も冷徹さを助長している。
「ルディ兄――じゃなくて、アスカルディというひとです。ご存じですか」
「知っています。彼と……夜のデートですか」
カリサはびっくりしてふるふると首を振った。
「ち、ちがう」
「ちがうのですか」
執事補佐の眼がやわらぐ。凄味が消えたことにほっとしたためか、カリサの膝がかくん、と抜けた。
「わ」
「危ない」
と言って、執事補佐の腕が素早くカリサの胴にまわされる。細身の腕からは想像もしなかったほど、力強く支えられて、免疫のないカリサはそれだけでどきどきした。
「ありがとう」
「どういたしまして。大丈夫ですか」
「もう平気。あなたが見た目より怖くないって、わかったから」
カリサがそう言うと、執事補佐はちょっと拗ねた表情を見せた。
「……私が、怖いですか」
自分の失言に気がついて、カリサは手で口をおさえた。そのしぐさが、なぜか、執事補佐の微笑を誘ったようで、空気は気まずくならなかった。
笑うと、かわいいかも。
年上の男性に向かって生意気なのかもしれないが、カリサはこっそりそう思った。
「そのひとに会いたいんです。お願いです、行かせてください」
カリサは丁寧に頭を下げて頼みこんだ。
「お嬢様、使用人に頭を下げるなどしてはいけません。どうぞお顔をおあげください」
執事補佐はまいったというように手をひろげ、降参です、と呟いて嘆息した。
「わかりました。しかしながら夜分で危険ですので、私もお供させていただきます」
「わ、ありがとう。心強いです。ええと、あなたの名前――」
「シュナイツァーと申します」
「……どこかで会ったことありませんか?」
よく見ると、端正な容貌だった。少しこけた頬の感じと斜にかまえた鋭いまなざし。
気のせいではない。確かに知っている。
でも、どこで?
シュナイツァーは否定も肯定もせずに、執事ならではの待機の姿勢をもって佇んでいた。
結局、このときは思い出せなかった。
肩をすくめたカリサを放置して、シュナイツァーは無言のまま、自分の分の馬を取りに道を戻っていった。
さて、次回は。
アスカルディ再登場。夜の酒場です。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。