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死んだ婚約者による恋愛指南書  作者: 桐城シロウ
第一章 飲み込んでしまいたい、彼女の人生を丸ごと
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4.私の罪悪感とたっかいカルビ肉

 





 毎日毎日、メッセージがくる。槇田先生から。ボーダーTシャツを着てメガネをかけたあかねが、不思議そうに首を傾げた。握り締めたスマホの画面には“おはようございます。今日、宮田さんに会えるのが楽しみです”と、そうメッセージが映し出されていた。



「んんんん~? あれかぁ? アプリゲーするって約束してるから? いや、でもなぁ」



 私はこう見えて乙女チックな性格をしているので、着せ替えゲームなんかも好きなんだが。どうも彼も顔に似合わず、そういうのが好きらしい。趣味がことごとく一致してる。でも、まずは着替えて準備をしなくては。



「てっててっててーん! 朔ちゃんが書いた恋愛指南書~!」



 一人だけど、なんとなくばばーん! と腰に手を当てて、日記帳を掲げてみる。ちゅんちゅんと、窓の外から朝らしい、すずめの鳴き声が聞こえてきた。ちょっと虚しくなってきた。やめよう、これ。ベッドと小さいテーブルに、プラスチック製の安いチェストや本棚や、その他色々と置いてある、ごちゃっとしたワンルームは蒸し暑くてじめじめしていた。おいおい、春だってのにもう夏かよ。ひとまず、くちびるを尖らせながら座り込んで、ぺらりと分厚い日記帳を開いてみる。



 “あかねちゃんはオシャレとか苦手だから、苦痛なんだろうけど一応書いておく。冬ならニットワンピース、パステルカラーのスカートかワンピース。それなりにスタイルもいいんだから、体のラインが分かるようなものを。あと、コートはベージュ色か、とにかくヌーディカラーで、”



 綺麗な文字でびっしりと書いてあった。思わず、勢いよくばたんと閉じてしまった。無になってしまうんだが、これは一体なぁに? すうと口から息を吸い込んで、もう一度慎重に開いてみる。



「ええっと、目次目次……あった。春夏用、デート服……」



 ご丁寧に目次まで付いているんだよなぁ、これ。まめだよなぁ、朔ちゃんは。暇だったんだろうな。仕事も休んでたし。



 “夏なら、ノースリーブニット+花柄スカートが鉄板でいいと思う。面倒臭いのなら、適当に花柄のワンピース。ただし、ゆるっとしたのは厳禁。足元はローヒールパンプスで。たまにあかねちゃんはハロウィンでもないくせに「魔女メイク~!」って言ったりして、まぶたを赤紫色に塗りたくったりしてるけど、それも無しで。とにかくウケを取ろうとするな、笑いを取ろうとするな! 男ウケだけを狙って行ってね”



「ううーん……耳が痛い。着ぐるみで行ってもいいんだけどなぁ? どうしよっかなぁ~?」



 その時、部屋のどこかでがちゃん! と大きい物音がした。驚いて振り返ってみると、さっき適当に流しの上に置いた、カップラーメンとお箸がシンクの中に滑り落ちていた。うおおおおい、朔ちゃんの呪いかな……? いやいや、きっと私が適当に置いたせいなんだろうけど!



「あー、あー、あー、あー……OK、OK、今日は暑いし着ぐるみはやめておこうかな……ふぅー! この間、適当に買った花柄ワンピースにするかぁ」



 やたらと声が高い店員さんに「よくお似合いですよぅ~!」と褒めて貰ったので、安いしいっかと思って買った、黄色と白地の花柄ワンピース。まぁ、これにパンプスを合わせて、かろうじて持ってる、ろくに物も入らなさそうな可愛いショルダーバッグを合わせれば、まぁ、うん。それっぽい格好になることだろう。



「あ~、面倒くさ。コンタクトしようっと」



 ねえ、朔ちゃん。どんな思いで書いてた? これ。のそのそと着替えてコンタクトを目に突っ込んで、メイクボックスをがんと、テーブルに叩きつけながら息を吐く。ちらりと横を見てみると、上質な日本製の黒い日記帳が、奥の窓からの陽に照らされて、ほんのりと光り輝いていた。



(……好きだったか。そう聞かれると、やっぱりよく分からない。胸を張って好きとは言えないなぁ。朔ちゃんが死んでから、ますます好きになってるような?)



 気も合うし、いっかと思って結婚を決めた。ものすごくときめく場面があった訳じゃない。でも、キスしたり触れられたりすると、すごくドキドキした。だから、もうこれでいっかと思って、わくわくしながら結婚準備を進めていた。今までの恋愛とはまるで違っていて、特に気負うこともなく会っていた。だから「本当に好きだったの?」と聞かれると、今いちよく分からない。ただ、高校生の頃に告白して欲しかったなぁ、だなんて、今さらなことをよく考えてしまう。



「朔ちゃん……よく熱出してたなぁ。あれ、白血病のせいだったのかなぁ?」



 もっと、早くに気が付いていればよかった。でも、もう遅い。私はその頃、野球部の爽やかイケメンと付き合ってはしゃいで、有頂天になってたし。どういう思いで私を見てたんだろうなぁ、朔ちゃん。何度か振られて、落ち込んで、泣いていた時もそっと黙って寄り添ってくれたし。ぎゅっと、胸元に下がってる婚約指輪を握り締める。なんで、死んじゃってから、本格的に好きになってるんだろう。私。



「もっと言えばよかったなぁ、早く。好きだってそう……!!」



 後悔しても、もう遅いから。ちょっぴりだけ泣いたあと、メイクをする。よかった、メイクをする前で。ぽぺんと、スマホから間抜けな音が鳴った。慌てて見てみると、父親からだった。何故か挨拶も無しに“みかん、いるか?”と送られてきている。



「なんでみかん? 季節じゃないっしょ。あ~、もう面倒くさ~」



 心配かけちゃってるんだろうなぁ、パパにも。「あう~」とうなったあと、いらないっすとだけ返信しておく。するとすぐに、定年間近の還暦親父という名前のスタンプが送られてきた。すだれ頭のおじさんが可愛らしく、OK! と言っている。思わず、ぷっと吹き出してしまった。あ~あ。



「私はこれから、医者のハイスペイケメンとデートですよっと。そう送っとこ。エイプリルフール、過ぎたぞって返ってきそう。あはははは」



 現に友達の何人かは呆れた顔で「へー、そう」と言ってきた。何なんだよ、みんな。信用無いなぁ、私。



「さ! 準備して行ってくるかぁ~」





 土曜日なので、もちろん駅前は混んでいる。でかでかと張られたアイドルの顔写真付きの柱をいくつも通り過ぎて、ハンバーガー屋の前へと向かう。スマホの画面を見つめながら、時折視線を上げて、人でごった返している駅の中をきょろきょろと見回した。



(どこだろう? もう、待ち合わせの時間なんだけどなぁ……)



 スマホのロック画面には、大きく十一時五十九分と映し出されている。それがぱっと十二時になった瞬間、誰かにぐいっと、いきなり後ろから腕を引っ張られた。



「うおっ!?」

「すみません、宮田さん。そっちに行こうとしていたので……」



 驚いて振り返ってみると、息を切らした槇田先生がほっとしたような顔をして、笑っていた。今日は白いTシャツの上から、青と白のストライプシャツを羽織って、黒のワンショルダーバッグを身に付けている。そして、この間の黒縁メガネじゃなくて、シャープな印象の銀縁メガネをかけていた。何か高そう。そればっかか私と、自分で自分に呆れながらも笑いかける。


「いえいえ。大丈夫ですよ、ありがとうございます。えーっと、こんにちは? 槇田先生」

「はは、もう先生じゃないので、普通にさん付けで呼んで貰えると、有難いかな……」

「それもそうですね。じゃあ、槇田さんで」


 そう呼びかけてみると、ちょっとだけびっくりした顔をしたあと、本当に嬉しそうに顔を綻ばせる。女をポイポイ引っかけて遊んでそうなメガネエリート男子のくせに、たまにこうやって、本当にすごく嬉しそうな顔をして笑う。



(うーん……ときめくなよ、私。浮気か?)



 ぎゅっと胸元を握り締める。黙りこくる私を見て、不思議そうにちょっと小首を傾げた。



「あの、大丈夫ですか? ここ最近、食欲も無いって言ってたし」

「へっ? あ、ああ、大丈夫ですよ……何でも無いです。つい、くせになっちゃってて」

「くせ? ……胸元を押さえるのが?」

「あー、実はこれ。はいっ」



 見せるのもどうなんだろう? 仮にもデート相手に。でも、この人だって本気にしていないみたいだし。かなりいいお家の出みたいだし、荷が重いし、出来ればこのままで、お友達のままでいたい。そんなことを考えながら、黄色と白地の花柄ワンピースの中からえいやっと、指輪を引きずり出す。



「……それ、婚約指輪ですか?」

「そうです。本来は左手の薬指に付けるべきなんでしょうけど……はははは。まぁ、朔ちゃんも死んじゃったし。周囲の目も気になるしで、鎖に通してネックレスにしてるんですよ。ほら、可愛いでしょ? これ」



 小さな銀色のリボンチャーム付きのネックレス(税込み二千九百八十円で売ってた)に、たっかい婚約指輪を通して身に付けてる。がやがやと、人が行き交う喧騒の中で、槇田先生がじっと、神妙な顔つきをしてそれを見下ろしていた。さぁ、どうでる!? ハイスペイケメン君は!



「そういうのも素敵ですね。よく似合ってる」

「はははは、どうも……」

「ただ、それが負担になってなきゃいいんですけど。宮田さんの」

「……私の負担? なんで? どうして」



 周りに人なんていないかのように、ふっと哀れみ深く微笑んだ。太陽の下でも色が変わらない、吸い込まれそうな、真っ黒の瞳に間抜けな顔の自分が映っている、ような気がした。



「だって、つらいでしょう? 見る度に思い出すんですから、それを。まぁ、いいことだとは思いますが。亡き婚約者を偲ぶというのも」

「……いいこと、なんですかね?」

「じゃあ、一体どうしてそれを付けているんですか?」



 穏やかで低い声に少し、苛立ちが混じってる。ああ、もしかしたらこの人、私のことが本気で好きなのかもしれない。“一体どうしてそれを付けているのか”。その言葉を聞いて、何も言えなくなってしまった。気を取り直したかのように、「さて」と槇田さんが呟く。



「すみませんでした。行きましょうか」

「あっ、はい……」



 混んでいるからか、ぐっと手を握られる。ぬるりと汗で湿っていた。今日は暑いから、首筋も背中もうっすらと汗を掻いていて。人でごった返す、暑苦しい駅の中を手を繋いで、ただひたすら黙々と歩いていた。周りの目に私は一体、どう映っているんだろう。彼氏と喧嘩中の女の子? それとも。ふと胸元で銀色の指輪が煌いて、きらきらと揺れ動いた。小さなダイヤモンドが付いたそれは、今日も美しく光り輝いている。



(朔ちゃん。ごめんね、死んだあとで好きになったりなんかして……)



 きっと、朔ちゃんは見ているだろうからこれを付けている。まだ忘れてなんかいないよと、そう言うために付けている。ひたすら前を向いて歩く槇田さんの背中を見つめながら、最後に、二人で旅をした時のことを思い出していた。





「うおおおおおっ!! ずっと欲しかった、星の窓辺で佇むゆめかわユニコーン姫君のドレスっ!」

「すごいですね、暗記しているんですか? でも、このアプリゲー、服の名前がちょっとなぁ。恥ずかしいのがいっぱいあって困るな……」



 結局、槇田さんは敬語を外せないままでいる。何度か「あっ、すみません。タメ口の方がいいんですよね?」と言われたので、ぷつりと何かもう、どうでもよくなっちゃって、「あっ、もういいっす」と返した。お医者さんがいいのなら、もう、それでいいのさ……。スマホを片手に、じゅうじゅうとカルビを焼きながら、真っ黒な個室の中でせっせと服をトレードし合う。どうも槇田さんはお肉が好きらしく、自然派のシャレオツなカフェと、海鮮のお店と、焼肉屋を提案された。



 でも、真っ先に焼肉屋のホームページのURLが送られてきたし、私も私で食欲が無いものの、激高なお肉なら食べれちゃうかも……? と、そう思って「お肉がいいっす!」と返しておいた。でも、ちょっとだけ後悔してる。お値段、えっぐ。よく見てなかった、やばい。ひっそりと心の中でおののいている私をよそに、向かいに座った槇田さんが顎に手を添えて、「うーん」と呟く。



「この麦わら帽子もなぁ……いらないかな」

「え!? マジっすか!? ああ、でも、アバター、男ですもんね……」

「欲しいですか? 宮田さんはこれ」

「えっ? ええ、それはもう、喉から手が出るほど……!! でも、ドレスとかイベ報酬の家具とか貰っちゃってるし、乞食みたいで、何かちょっとあれなんで」

「じゃ、あげます。送りますねー」

「うおおおお、すみません……」



 さっきから、課金アイテムをほいほいくれるよ。この人。麦わら帽子と言っても、可愛いミントグリーンのオーガンジーリボンとマーガレットの造花を付けたやつで、重課金者がよく頭の上に乗っけてるやつだ。ずっと憧れていたから嬉しい。出来れば無課金で楽しく遊びたい。



「あーっと、お返し、お返しは……」

「また俺と会ってくれたらそれでいいですよ、別に」

「えっ、ええええ~? 口説くの上手いですねぇ、槇田先生は」

「……まぁ、宮田さんも宮田さんで忙しそうなので。それで」

「うぃ。友達と宮古島に行ってきまーす。二泊三日でー」



 前から私が行きたい行きたいって言ってたのもあるんだけど、中学校時代の友達がお葬式で泣く私を見て、「宮古島、行こう!? 気晴らしに!」と言ってくれた。その子も独身で、働いててお金もあるし、私の顔色を心配した両親が「出してあげるから、行っといで」と言ってくれたし、行くことになったんだけど。



「あ~、お土産。何がいいですか?」

「ん~、宮古島って何があるかなぁ。酒とか?」

「お酒。飲むんですか?」

「けっこうね。飲むほうですよ」

「へええ~……じゃあ、もしかして、今も飲みたい気分なんじゃ?」



 私に遠慮して飲んでいないのかもしれない。ちなみに胃の調子も悪いので、私は速攻ウーロン茶を頼んだ。槇田先生もウーロン茶を頼んでいる。でも、抗生物質とか、とにかくナチュラルな環境で育てられている牛さんのお肉なので(メニューにこだわりがいっぱい書いてあったけど、眠たくなってきたし、読み飛ばした)、あまり胃もたれしない。らしい。ちらりと見てみると、苦笑しながら、焼けたカルビをトングでひっくり返していた。さっきからぽちぽちと、私に服を大量に送りつけながらも食べている。すらりとした細身なのに、よく食べる人だなぁ。



「まぁ、酔って変なことを口走りたくないので……これを機に酒をやめようかと、そう思いましてね」

「ああ、まぁ、肝臓に悪いし……」

「ですね。宮田さんは飲むほうなんですか? なら、俺も合わせてノンアルくらい、頼んだほうがいいのかな……?」

「ああ、いやいや、お酒は別にそんな好きじゃないんですよ~。うざ絡みしちゃうし、いっつも」



 ただ、友達がよく飲むほうで、それに合わせて無理に飲んでたりする。だって、申し訳無いし。場の空気がしらけるのも嫌だし。笑って見てみると、優しく微笑んで「そうですか。ならよかった」と言ってくれた。もう三十代だし、体にちょっとガタがきだしてると言ってたし、本当にやめるつもりなんだろうか。



「あ~、でも、結婚するのなら、お酒を飲まない人のほうがいいなぁって、そう思ってたしちょうどいっ」


 あっ、やばいやばいやばい。そんなつもり微塵も無かったのに、つい、うっかり言っちゃったよ! 重たいよ、これ! マッチングアプリで出会った訳じゃないし、私達。焦ってカルビをひっくり返しながらも、慌てて見てみると、涼しい顔で「ならよかった。俺もそうなんですよ」と言ってきた。



 あれ? 脈無し? あり? 一体どっちなの? ぼわっと、炭火が燃え上がってお肉が焦げていく。二人で慌てて、「食べないと」って言ってどんどん食べながら、ウーロン茶を胃に流し込んでいった。うん。これはこれで楽しい。沈黙も苦にならないし。



「あ~……うまい。追加で頼もうかな? どうですか? あかねさんは。漬け込みタンとか頼みます? それとも、ホルモンでも?」

「あっ、じゃあ、ホルモン、いいですか……?」

「もちろん。奢るのでご安心を。キムチ頼もう、俺。あかねさんは?」

「私は別に……あっ、でも、ご飯頼もうかなぁ。どうせ、店員さんを呼ぶのなら」



 いつの間にかさらりと、「あかねさん」って呼んでるし。まぁ、いっか。別に。悪い気はしないし、お肉もうんまいし。口の中に入れると、ぶわっと炭火のいい匂いが広がっていく。舌の上でじゅわりと、柔らかくて甘い脂のカルビが溶けていった。なんだ、このうまさは。自家製の秘伝のたれも、甘酸っぱくて、濃厚でたまらない。頬を緩めて食べていると、店員さんを呼んで追加注文をし終えた槇田さんがふいに、こちらを向いて、また優しく笑いかけてくれる。



「……よかった。元気が出てきたみたいで」

「はははは、どうも……」

「宮古島、行ったら写真送ってください。海で泳ぐんですか?」

「はい。もうこの時期、泳げるみたいなので……水着を着た、私のセクシーショットでも送りつけましょうか? なぁーんて……」

「それはぜひ。その、欲しいです」



 少しだけ照れ臭そうに笑いながら、そう言ってきた。ごくんと、高くて美味しいカルビ肉を飲み込んでしまう。ぶわっと頬に熱が集まって、背中に汗がつぅっと伝ってゆく。暑い。今日は春なのに、どうしてこんなにも暑いんだろう。



「あ、あの、だめだなぁ。罪悪感がちょっとだけあるな~……私」

「……罪悪感ですか? 一体どうして」

「あの、ぶっちゃけて言うと、そりゃあ、槇田さん、イケメンだし、スマートだし、惹かれている部分はもちろんあるんですけど」



 一体どういう気持ちで会っているんだろう、この人は。私と。なんだか頭がぼんやりとしてきた。薄っすらと、額に冷たい汗が滲み出す。



「私、朔ちゃんに死ぬほど申し訳無くて。でも、本人、いいって言ってるし……大体、槇田さんにもこれ、ご迷惑でしょう? 私なんかで本当にいいのかなぁって、そう思ったりなんかして、」

「迷惑なんかじゃありませんよ、宮田さん。いえ、あかねさん」



 ぎゅっと手を握り締められた。見てみると、テーブルの向こうから腕を伸ばして、私の手を握り締めていた。思いっきり、じゅうじゅうと焼けているお肉の上に腕があるんだけど、暑くないのかな……? 汚れるからと、そう言って、さっき袖を捲り上げてボタン留めてたし。そのまま、何となく真剣な顔をぼんやりと眺めていた。暑い。暑いのに、この人は涼しそうな顔をしている。



「確かに、最初は患者さんの婚約者でしかありませんでした。……でも、つい最近、こうやって会うようになってから、その、気になりだして。俺」

「えっ? あっ、は、はい……」



 ぐっと、汗ばんだ冷たい手が私の手を握り締めていた。腕の下では、上質なカルビ肉がじゅうじゅうと音を立てて、焦げていってる。は、放してくれないかな、この手を……。



「俺は罪悪感なんて微塵もありませんよ。第一、青井さんに頼み込まれていたし。俺。お断りしていたんですけどね?」

「ひっ、ひいっ! ご迷惑をおかけしてっ! 朔ちゃんがっ、朔ちゃんが!」



 軽く吹き出してから、ぱっと私の手を放してくれた。やっぱり暑かったのか、冷たいおしぼりで自分の腕を拭いながら、どこか虚ろな目をしている。



「まぁ、宮田さんが嫌なら? 別に俺は友達のままでも……」

「え、ええっと、時間が欲しいです。でも、お待たせするのも非常に申し訳無いので、素敵な女性が現れたら、そちらへちゃちゃちゃっと」

「いえ、別に。今、気になっているのは宮田さん、一人だけですし。気長に待ちますよ」



 綺麗な仕草で、テーブルの上に冷たいおしぼりを置いた。つられて、何となくそれを見ていると「お肉。焦げちゃいましたね、すみません」と言いながら、横に立てかけてあったメニュー表を手に取って、中を開けて見始める。



「次、漬け込みタンとホルモンでも頼もうかなぁ。ああ、それか握り? 牛肉の握りがありますよ、宮田さん」

「……まず。その前に、この焦げたお肉を救済しましょうか」

「ああ、ですね? すっかり忘れてた」

「意外とうっかりさ~ん、はははは……」



 あーあ、どうしよう。ついうっかりときめいてしまった気持ちに蓋をして、虚ろな目で焦げたお肉をトングで掴んでいた。槇田さんもそれを手伝ってくれた。その日は微妙な空気のまま、それで終わってしまった。



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