9.あかねさんは俺の婚約者だから
たまには一人で過ごそうと思って、家を出た。朝からシャワーを浴びてた透さんが、濡れた髪を拭きながら「いいですよ。気をつけて」と言ってくれた。でも、目がこっわいんだよな~! 笑ってない。歴戦の猟師みたいに、「逃がさん!!」って目が語ってるんだよなぁ。
(私は追われるイノシシかな~? それとも、太ってきたから豚かなぁ。あ、うん。豚。子豚ちゃん~。しっくりくる)
いまだに慣れない、高級感あふれるホテルのロビーみたいなエントランスに着いたので、エレベーターから降りる。すぐにコンシェルジュのお姉さんが顔を上げ、「おはようございます」とにこやかに挨拶してきた。曖昧な笑みを浮かべ、頭を下げる。
「お、おはようございます……」
「行ってらっしゃいませ」
「はい、行ってきます……」
まだ慣れないなぁ、このやり取り。ホテルかっての! 他のタワマンでもこんな感じなんだろうか。他のタワマン、住んだことないからよく分かんないな……。そそくさとエントランスを出ると、すぐにかっと、夏の太陽が照り付けてきた。あっ、あっつい!
(あてもなく出てきたけど、どうしようっかな~……。急に友達を呼びつけるのもなぁ)
相談しようかなぁ。でも、流石に鬱陶しがられるかも。今まで散々、朔ちゃんのことで相談に乗って貰ったしなぁ。私が玉の輿に乗るからっていって、連絡取れなくなった子、四人いるしな~……。これ以上、友達は減らしたくない。やめとこう。みんな、私の結婚式出るの楽しみにしてるし。
綺麗に舗装されたベージュ色の歩道を歩いて、溜め息を吐く。周りは高級住宅地で、まろやかな色合いの邸宅がずらりと並んでた。ひとまず、図書館にでも行こうかなぁ? 冷房も効いてるし、なんか本屋行って漫画選ぶ気分じゃないし。じりじりと、太陽の光が二の腕を焼いていく。暑いからノースリーブと短パンにしたけど、やめといた方が良かったかも。あっつい。もはや痛い。陽射しが暑くて痛い……。あっという間に、額に汗が滲んできた。もう眉毛の色、落ちてきそう。
(朔ちゃん、反対してる? もしかして、結婚して欲しくないのかな……)
でも、ゲームしてたら思い出しちゃうじゃん。仕事場にだって来てくれたことあるし、思い出しちゃうじゃん。────何をしていても、朔ちゃんの影がまとわりつく。早く、早く忘れたいのに。
(もっとあれしとけば良かったかも、とか……。そもそもの話、私が夜にコンビ二行こうとか言うんじゃなかったとか)
死んで初めて、その存在の大きさに気が付く。学校も実家も職場も、朔ちゃんの顔が思い浮かぶ。あ、だめだ。泣きそうになってきた。もう帰ろうかなぁ。
(透さん。透さんのこと考えてたら、忘れられるんだよ……だって、紹介したことあるよね? 私の女友達とも、ご飯食べに行って)
朔ちゃんと同じクラスだった子もいるし。だめだなぁ、逃げられないよ。転職して引っ越しても、実家に帰るたびに思い出すだろうし。私、立ち直れない。朔ちゃん死んじゃったから、もう一生立ち直れない。
(ああ、だめだだめだ……お願いして、見せて貰うんじゃなかった。身元確認なら、朔ちゃんパパとママが出来たじゃん。それをなんで、どうして私は)
首の裏につうと冷や汗が伝う。すれ違う人みんな、暑そうで私のことなんて見てなかった。汗か涙か、きっと区別つかない。「ははっ」と、乾いた笑いが出てきた。朔ちゃんの死に顔が頭に浮かぶ。
(温かかったのに。温かかった。私が、触ってる時は)
なのに、もう一生目は開かない。冷たいまんまで、二十六歳のまま。ケーキ買ってきてお祝いした時のこと、思い出して泣きたくなる。炎天下の歩道を歩きながら、誰にも聞こえないように呟く。
「ごめん、忘れられないんだよね……。だから、透さんとお別れできないや」
だって、あんまり朔ちゃんと関わってない。もちろん、主治医だったから関わってるんだけど。でも、不思議と印象に残ってないんだよなぁ。主治医さんだった時の透さんが。ぷんと鼻につくアルコール臭と、朔ちゃんがこのまま死んだらどうしようって恐怖がすごくて。病院付き添って行った時の記憶があんまりない。落ち込む朔ちゃんの横顔しか思い出せない。あと、「帰り、なに食べて帰る?」っていうやり取りぐらいかなぁ? 残ってるのは。自然と足が止まった。もう無理だ。暑いし、苦しいし帰ろう。踵を返して、透さんのところへ戻る。
(透さんなら、透さんといれば)
まだ秋人くんからは「大丈夫?」ってメッセージがくるし、ゆきちゃんからも「大丈夫? 兄ちゃんと上手くやってる?」って電話がくるし……。でも、そういうのいらない。朔ちゃん死んじゃった現実に襲われるから、そういうのいらない。透さんの傍にいて、ゲームして、休みの日にはデートして、結婚準備して何もかも全部を忘れてしまいたい。気付けば、透さんの部屋のインターホンを鳴らしていた。全身汗だくでめまいもするし、喉が渇いた。すぐに開いた。
「……あかねさん? 出かけたんじゃって、すごい汗!」
「へっ? そんなに酷いですかね……」
「熱中症になりますよ。入ってください。俺、ちょっとタオル持ってきますね」
急いで私を招き入れて、洗面所へ飛んでいった。すぐさま戻って来て、心配そうな顔で首やらおでこやらの汗を拭ってくれる。────ああ、もう、これでいいのかもしれない。プロポーズも受けちゃったし、指輪も貰ったし。
「私……バカじゃないかな。いまさらこんなこと」
「えっ? どうしたんですか? 何か嫌なことでもあったんですか?」
「ううん……」
胸元にしがみついて、頭を預けてみると、びくりと体を震わせて動きを止めた。汗だくなのに、気にせず抱き締めてくれた。背を、大きな手のひらが擦ってゆく。
「あかねさん……良かった。どうせまた、青井さんのことを思い出していたんでしょう?」
責めるような言葉なのに、おそろしいほど声が甘い。喉を鳴らして低く笑った。滲むのは優越感と喜び。ひたすら両目を閉じて、しがみつく。喉、渇いた……。
「でも、大丈夫。俺といれば余計なこと、思い出す暇なんてありませんよ。結婚準備なんて忙しいものだし……ああ、良かった! 帰ってきてくれて良かった……俺の下に」
徐々に声が上擦って、興奮してゆく。ぼんやりしていると、私の顎を持ち上げてキスしてきた。なんでこの人、こんなに私のことが好きなんだろう。今は唾液じゃなくて水が飲みたい。ぐっとTシャツを握り締めれば、額に冷たい汗が浮かんだ。
「……透さん」
「なんですか? ああ、もう、入った方がいいな。リビングに行きましょう。クーラーも効いていて、」
「すりこぎとすり鉢。何に使っているんですか?」
「すりこぎとすり鉢?」
きょとんとした顔で振り返った。え、知らないとか……? でも、そんなことはないはず。部屋にあったんだから。ぼんやり突っ立っていると、困ったように笑って私の手を引いた。
「熱中症になりますよ。いや、もうなっているのかな? ひとまず、お水を飲んだ方がいい。早く」
「嘘、吐くの上手いですね……」
知ってたけど、そんなこと。私の中で疑惑がどんどん膨れ上がってゆく。この人から離れたら生きていけないくせに、追及するのがやめられない。リスカする人って、こんな感じでしているのかもしれない。とりあえず、ソファーに寝転がって水を待つ。透さんがすぐに、氷と塩と蜂蜜と、レモン果汁が入ったコップを持ってきてくれた。
「すみません。スポーツドリンク、あったら良かったんだけどな……」
「いえ……」
それを一気に飲み干す。冷たくて美味しかった。視界がクリアになる。見てみると、黒縁メガネをかけた透さんが困ったような笑みを浮かべ、しゃがみこんでいた。シンプルな黒いTシャツがよく似合ってる。
「大丈夫ですか? 日傘も差さずに出ちゃだめですよ? 帽子だけじゃ心許無い」
「ですね……はは」
「で、すりこぎとすり鉢でしたっけ? ……まぁ、あかねさんのことだからいずれ、部屋に入るとは思ってた」
話す気があるのか無いのか、にこやかに微笑みながら話し出した。私からコップを受け取り、ソファーの前であぐらを掻きながら、「もう一杯、飲みますか?」と聞いてくる。何を考えてるんだろう? この人は一体。
「いや……いらないです。ありがとうございます」
「分かりました。欲しくなったらいつでも言ってくださいね? 体調、どうですか? 吐き気はしますか?」
「あ~、なんかお医者さんみたい」
「お医者さんですから」
「それであれ、何に使っていたんですか? 私にそれを教えてくれるんですか?」
また、にっこりと微笑む。迷っているようにも見えた。話そうか、話すまいか。でも、どうでも良かった。今の状況が間違いだって、そう気付いているのに。足掻けない自分をどんどん嫌いになってゆく。何も考えずに、楽しくゲームだけ出来たらいいのにな。
「透さん。私」
「いいですよ。……やめますか? 結婚。青井さん、死んじゃった現実に一気に襲われるだけでしょうけど」
「私のこと、そうやって脅すんですね……」
「脅す? 脅しているのはあかねさんじゃないですか。ほら」
それまで持っていたコップをテーブルの上に置いてから、腕を伸ばして私の手を取った。綺麗なピンクダイア。いざ、手に入れてみると喜びなんてない。
────好きな人から貰う指輪だから、意味がある。透さんが私の手の甲を撫でて、そっと、嬉しそうに微笑んだ。
「あなたがいなかったら、俺は生きていけないのに」
「なんで……そんなに嬉しそうなんですか? 私が苦しんでいるのがそんなに、」
「あかねさん。俺はね? 本当にあなたのことが好きなんですよ。だから」
するりと婚約指輪を抜き取って、虚ろな眼差しでかざした。じっと、上を向いて指輪を見上げてた。好きって言っておきながら暗いなぁ、この人! だんだんと、冷静になってきて冷や汗を掻く。なんで最近、頭がもうろうとするんだろう? こんな風に。知らないふりをしようと思ってたのに。
「もし、あなたが知りたいのなら教えますよ。全部。どうしますか?」
「全部って……一体何を?」
「俺がやってきた、今までのこと全て」
ぴたりと、動きが止まる。あかねさんがゆっくりと見下ろしてきた。その目にはこちらをバカにするような、軽蔑するような色が宿っている。口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。不愉快さと愉快さが混ざって、喉をかきむしりながら絶叫したくなる。どこまでも邪魔を。死んでなお、邪魔を。だが、腹の底でそれを嘲笑っていた。無駄だから、全部。何もかも。死人のくせに。
「それ、言ってどうするんですか? 槇田先生」
「青井さん……お願いだから、邪魔しないで貰えるかな? 俺が気付かないとでも? あかねさんの変化に?」
ああ、鬱陶しい。苛立ちで歯を噛み砕きたくなる。こちらを射抜くような目で見下ろし、また笑った。不思議と、あかねさんが年端もいかない少女に見える。
「地獄に落ちろ。一生愛されないままだ、お前なんか」
「っああ!! もういい。じゃあ、もういい! 消えろ!!」
勢い良く、その首を掴んで軽く絞める。彼女が死なないように。でも、気絶するように。ソファーの上で体にまたがり、首を絞めていると、俺の手を握り締め、もう一度笑った。
「いつか、あかねちゃんを迎えに行きます。一生、絶対にばれないようにしてくださいね? 槇田先生」
ぱたっと、あかねさんの手が落ちた。すぐに手を放し、彼女の口元に手をかざして確認する。生きている。……生きている。湿った吐く息が手のひらに当たる。いつの間にか、全身が汗だくになっていた。ふと、転がり落ちた婚約指輪に目を留め、拾い上げる。気絶している彼女の指に通した。
「婚約者……あかねさんは俺の婚約者。あかねさんは俺の婚約者」
そして、いずれ結婚して妻になる。変えようがない事実だ。変えようがない……。




