9.裏切り者と残り物のドーナッツ
とは言えども、距離置いちゃったな~。どうしよ。赤と青のストライプキャップをかぶって、赤色シャツに青いエプロンを身に付けたあかねが、店内のテーブル席を拭き上げながら、ひっそりと眉を寄せる。
(まぁ、朔ちゃんへの想いも? いまいち整理しきれてないし、ここんところ毎日連絡取ってるし、毎週会ってたし……いいかなぁ? 別に。来週は会わなくても)
デートお断りの定番呪文、体調不良で~と唱えて来週のデート、キャンセルしてしまった……。知りたい。知りたいという気持ちがあるのに、中々その一歩を踏み出せないままでいる。浮気しているみたいで気が引けるしなぁ。そこまでを考えてから、ふと気が付いた。
(ああ、そうか。私……まだ朔ちゃんの婚約者だっていう気持ちが抜けてないんだ。だからかぁ)
ぜんぜん意識してなかったけど、多分そうだ。槇田さんは朔ちゃんの主治医で、顔見知りの男性。それ以上でもそれ以下でもなかったけど、気も合うし、何よりも朔ちゃんが繋いでくれた男性だから、ちょっと会っているだけで。こうして、槇田さんのことを考えると、心臓が熱くざわついた。恋してる時の甘酸っぱさとはまた違う。
(焼肉屋で手を握られた時も、青空の下で笑ってた時も)
翳りが見えた、槇田さんのメガネの向こうの瞳に。真っ黒な瞳がゆっくりと翳っていって、私のことを見つめる。真夏の木陰の中で、黒猫を見つけて眺める時の感覚とよく似ている。どうしてかはよく分からないんだけど、目が吸い寄せられちゃうんだ。その場に足が縫い止められる。
(私のこと、好きなのかな~? いや、でも、そんな熱っぽい感じもしないんだよなぁ)
朔ちゃんとか、今までの彼氏を思い浮かべて考えてみる。笑い方とか視線も何かこう、ちょっとだけ違う。ずれていくような気がする。ぬかるんだ地面の上を、何かがずれ落ちて滑っていくみたいな────……。テーブルを隅々まで拭き上げ終えたあと、誰かが私の背後に立った。
「すみません、ちょっといいでしょうか?」
「はいっ、何でしょうか? って、あ、あれ……槇田さぁんっ!?」
「しーっ、静かに。ほら、お客さんも驚いてますから」
困った顔で笑い、人差し指を立てた。紺色のシャツにアイスグレーのジャケットを合わせた槇田さんは今日も爽やかで、銀縁メガネがよく似合ってる。慌てて辺りを見回してみると、確かにおじさん客が怪訝そうな顔をしていた。「すみませんでした」と呟いて、頭を下げておく。
「でっ、あ、あの、一体どうして私の職場に……?」
「ああ、久々にドーナッツが食べたくなって。ほら」
槇田さんが持っているトレイを見せつけてきた。確かにその上には、キャラメリゼされたアーモンドと胡桃のドーナッツ、この時期限定の、桜の塩漬けが飾られたほんのり淡いピンク色のホワイトチョコドーナッツ。それから、酸っぱいザワークラウトとソーセージが詰め込まれたホットドッグと、クルトン入りのカップサラダが乗せられている。
「あっ、私も好きなんですよ! そのドーナッツ……って、いらっしゃいませー!」
「忙しそうですね、あかねさん。俺、ちょっとのんびり食べてるので。ここで」
「えっ? あっ、は、はい」
どうして来たのかとか、くそっ、忙しくて聞けない! 今、奇跡的に店内空いてるけど、混みがちなお昼時だし! こんなところで油を売ってる場合じゃねぇ! 焦って見上げると、メガネの奥の瞳を細め、口元に愉快そうな笑みをそっと浮かべた。
「体調悪いって聞いたから。あかねさんが心配で、俺」
「あっ、あの、どうもありがとうございます!! もし、あれだったらちょっと待っていてください! もうすぐ上がるので、」
「あれ、そうなんですね? でも、俺もこのあとすぐ仕事なので」
「あっ、そっ、そっか! まぁ、すみません! でも、来てくれて嬉しかったです! それではっ!」
すちゃっと敬礼をすると、槇田さんが笑って「いえいえ、それじゃあまた」と言ってくれる。でも、そっか。体調不良が、断るための嘘だとは思わなかったんだ。
(それともあれかな? 嘘だって分かってても、私に会いたくて来てくれちゃったとかー?)
いやいや、それは流石に自意識過剰かぁ。ドーナッツ好きで、このクリーム&クリームのファンだって言ってたしなぁ。考えられるのはドーナッツを食べるついでに私に会いにきた、かな……。
(うんうん、きっとそうだろうなぁ。このあともすぐ戻る感じだし? お昼ご飯食べついでに、ちょっと私の顔を見ていこう的な)
いやぁ、別に距離とか置かなくてもよかったのかもしれない。デート断ったあとも、メッセージ来てないし。あ、あれ……? 笑顔で客からの注文を聞き取りながら、首筋に冷や汗を掻く。私、あまり好かれてないんじゃ!? 考えすぎだったんじゃ!?
(あーっ……申し訳ない、どうしよ!? 自意識過剰女で、本当に本当に申し訳ない!!)
「と、そんな訳でぇ~。悩み中でーす。いぇーい」
「何してんの、あかねちゃん……」
朔ちゃんの弟、秋人くんが半ば呆れた顔で言ってきた。「いやぁ、へへへへ……」と笑って頭を掻くと、溜め息を吐いて、私が貰ってきたドーナッツ(廃棄用)をもそもそと食べ始めた。しんと、薄暗いワンルームに沈黙が落ちる。ケチって安い蛍光灯にしたからか、もう切れかけていてちかちかと、天井で点滅していた。気まずくなって口をつぐみ、膝の上でぎゅっと拳を作る。秋人くんの顔はやっぱり、朔ちゃんとよく似ていて、見ているとどうしようもなく辛くなってしまう。
冷めたように見える目元に、薄いくちびるとすっきりとした鼻。まぁ、いわゆる塩顔男子。ざっくりと、どこにでも売っていそうな灰色のパーカーとズボンを着ていた。黒髪は整えられていて清潔感が漂っている。適当に、そこら辺にあった中学校時代のジャージを着て、応対した私とは大違い! 重苦しい沈黙のあと、レモンカスタードクリームドーナッツを飲み込んで、静かな目で見てきた。
「で? 付き合うの? そいつと」
「えっ、いやぁ、うーん……」
ちらりと、テーブルの上に置いてある骨壷を見つめる。これは今日、秋人くんが突然持って来た朔ちゃんの骨。元々骨を分けて欲しいとは頼んでいたんだけど、心の整理が付くまでは、と言って受け取りに行ってなかった。
「まぁ、あかねちゃんのことだから忘れてるとは思ってたけど。兄ちゃんの骨を」
「いやっ、うーん……忘れていたわけじゃなくて、忘れたかったのかもしれない。私」
その言葉を聞いて、黙って出したほうじ茶を飲み始める。帰りがけに買ったほうじ茶しか無いんだけど、いーい? と聞いたらいいよと言ってくれた。優しい。ペットボトルで飲みかけのやつなんだけどね!
「……まぁ、その気持ちは分かるけどさ。切り替え早くてびっくりするなって。ただそんだけ」
「いや、あの、お父さんから何を聞いたかは知らないけどさ!? 私だって、うきうきと玉の輿ぃー! いぇーい! と言わんばかりにデートしてるわけじゃないからね!? 分かってる!?」
「ごめん。でもさ? 何かさ……あー、もういいや。やっぱやめよう、この話。喧嘩したくないし、兄ちゃんの前でさ」
「うん、ごめん。秋人くん……」
また重苦しい沈黙が流れる。どうしよう? でも、私がお父さんに「ハイスペイケメンとデートでぇーすっ」って送っちゃったのが悪いんだしなぁ……。うっかりしてた、忘れてた。お父さんてば、昔から「って、言ってたぞー」って誰彼構わずに話す性格なのに。秋人が黙々と、ドライフルーツが練りこまれたドーナッツを手に取って、食べ始める。
これはどっしりとした食感の生地に、オレンジピールとレーズンがたっぷり入っているドーナッツで、仕上げにココナッツファインがまぶされていてすごく美味しい。ねっちりとしたドライフルーツとココナッツファインがすごくよく合うのに、ちょっと人気が無くて売れ残りがち。
「でっ、でも、ほら、意外だったなー。秋人くんとうちのお父さんが連絡先交換してるの!」
「ああ、うん。言ってなかったな、そういや」
「会いに行って来たんでしょ? どうだった?」
「別に。普通」
「そっか」
「……あかねちゃんは帰ってないの? 実家に」
私も食べようと思って腕を伸ばしたとたん、そんなことを不思議そうな顔で聞いてきた。ほんの一瞬の、その表情が朔ちゃんとよく似ていて心臓が痛み出す。黙って胸の痛みを押し殺して、にっこりと笑った。選んだドーナッツは、少し苦手なカボチャとクリームチーズのドーナッツ。しまった。これ、食べる気無かったのに。
「あー、だね。あまり心配もかけたくないし! それにその、どうしても、気落ちしてるおじさんとおばさんにも会いに行かなきゃだし」
「ああ、まぁ、正解かもね。酷いから、まだ」
「あ~……だよねぇ。警察からも連絡は無し?」
「無し。じゃあ、俺、そろそろ帰ろうかな」
「なんで? ドーナッツ、まだ残ってるよ?」
カボチャのドーナッツを両手に持って聞けば目元を歪めて、嫌そうな、軽蔑するような笑みを浮かべて言ってきた。
「槇田先生にあげれば? それじゃあ、見送りとかいらないよ、義姉さん」