プロローグ
白血病を患っていた婚約者が死んだ。葬式のあと、おばさんに呼び止められて振り返る。
「ねぇ、あかねちゃん。これ、あの子から……もし、自分が死んだら渡すようにって、そう言っていて」
「えっ!? そんなものがあったんですか?」
「持って行ってね。私が持ってても意味が無いものだから……。それじゃあ、気をつけて」
ざあざあと、冷たい雨が降りしきる中で強引にそれを手に押し付け、私をタクシーの中へと追いやった。ばたんと、ドアが閉まる。もういない。もういないんだ、どこにも。あの優しくて、病弱だった幼馴染はもうどこにもいないんだ。鼻をすすって泣きながら、雨に少しだけ濡れてしまった、その日記帳を手で擦る。まるで喪服みたいな黒だった。上質な黒い布地で出来ていて、ご丁寧に鍵までかけてある。それを見て、あの日の記憶が蘇ってきた。
『なぁ、これ持ってて。鍵』
『へっ? なにこれ? あんたん家の鍵?』
『違う、違う。俺が死んだら使って、それ』
『えーっ? 縁起でも無い。昔からネガティブ思考だよね、朔ちゃんは!』
そう言うと、力無く笑っていた。大丈夫、大丈夫。死んだりなんかしないよ。ちゃんと治るよ。私、近所の神社でもお願いしてるよ。涙が浮かんできそうになったから、無理矢理笑顔を作った。湿っぽいのは苦手だから。
『で? 何の鍵? 大量にエロ本がしまってある金庫の鍵とか?』
『そういうのはもう、入院前に処分しておいた』
『入院前に処分したんかい!!』
『それはもっと大事なやつ。もし、俺が死んだら使って。失くさないように持ってて』
その黒い瞳は透き通っていて、有無を言わせない感じだった。だから渋々頷いて、家に帰って、引き出しの中にぽいっと入れて放置。
(だって……使いたくなかったんだもん。こんな形でさ)
ねぇ、朔ちゃん。会いたいな。私の傍にいる? また涙が浮かんできた。生前、朔太郎が使っていたであろう日記帳を抱き締め、うつむく。外はうるさいぐらいの大雨で、タクシーの運転手さんが「すごい雨ですねえ、止まないなぁ」と独り言のようにぼやいた。「そうですね、止みませんね」と小さい声で返しておく。
「……朔ちゃん。一体何が書いてあるのかな?」
怖いな、見るのが。でも、断言出来るんだ。ここに怖いことは書き記されてないって。朔ちゃんは昔からおっとりしていて、優しくて、いつもにこにこしていて。私が「ねえ、朔ちゃん。宿題手伝ってよ~」って甘えても、「しょうがないなぁ」って苦く笑うような子だった。
(だから、きっと書いてない。死ぬのが怖いだなんて。朔ちゃん……)
好きかどうかなんてよく分からなかった。でも、それらしいものは芽生えてきていた。
(朔ちゃんが良くなったらウェディングドレス、着る予定だったのになぁ……バカ野郎。あれどうすんの、私。あの、人を撲殺出来そうな分厚いウェディング雑誌)
ああ、だめだ。思い出しちゃだめだ。丁寧に蓋をして閉じる。ここで過呼吸なんか起こしたら目も当てられない。急いでその日記帳を抱き締めた。何となく、朔ちゃんが隣にいるような気がした。
「さーて、私にしては珍しくSNSも何もせずに着替えて、メイク落としたぞ~。いっちょ見てやるか!!」
大好き? な幼馴染が亡くなっても腹は減るもんだ。といった訳でコンビニで買ってきた焼きそばパン二個と、ちょっと高い鮭ハラスのおにぎり二個と、昨夜作っておいた豚汁をレンチンして、低いテーブルの上に並べて食す。ちなみに酒も買ってきた。春限定のいちごチューハイ。それを開けて、まずは一気に半分ほど飲み干す。
「っあー! くたばれ、犯人! よっしゃ、読んだろ!」
綺麗なアンティーク調の鍵を取り出して、日記帳の鍵を開ける。ど、どどどどうしよう? 何かラブレターっぽい内容だったら。はやる胸を押さえて、その日記帳を開いた。
(とんでないポエミーな内容だったら、SNSでさらしてやっからな……!! こんなに愛されてたの~、私! みたいな顔して投稿してやるからな!)
大体、どうして生き返ってくれなかったんだよ! ちくしょう。江戸時代とかでよくあるじゃん、そういう話! お葬式の最中に生き返った話とか、そんな。涙が滲んで文字がよく見えなかった。仕方が無いのでおにぎりを頬張ってから、涙を拭って目をこらす。そこには朔ちゃんらしい、几帳面な文字でこう書いてあった。
あかねちゃんへ
懐かしいな、こう書くのが。覚えてる? 俺、散々嫌だって言ったのに「交換日記しようね!!」って言って、あかねちゃんが無理矢理ノート押し付けてきた時のこと。
「覚えてるよ……覚えてるけどさ? 何もここに書かなくても別にいいじゃん……」
ふつう、これを読んでいるということは~的な出だしで始まるのに。おかしいなぁと首を傾げつつ、冷たいチューハイを一口だけ飲む。甘ったるくて、入ってるから当然なんだけどいちごの甘酸っぱい香りがした。
でも、その時から好きだったから、実はちょっとだけ嬉しかったんだ。でも、ごめん。治りそうにないからって言って、無理矢理婚約者にしてしまって。あかねちゃんにも好きな人がいたのに。
「ん~、別にいいけど。てか、言ったんだけどなぁ? 私」
もう五年も付き合っていて、マンネリ気味だったし。「実は幼馴染が白血病で、私のことがずっと好きだったみたいで……」と打ち明けたら、神妙な顔をして「じゃあ、俺と別れるべきだな!」と言ってきた。でも、知ってるぞ。私。最近、職場に入ってきた可愛い女の子のSNSフォローして、にやにやして眺めてたの。
「まぁ、私もあいつもそろそろ別れ時かなって思ってたし! 気にしないでよ、朔ちゃん!」
傍にいるかもしれないので、声を大きく出してそう伝えておく。だめだだめだ、泣くな泣くな。私。慌てて続きに目を落とした。
ただ、もうあかねちゃんも二十六歳だし。当分結婚し無さそうだし。俺、死ぬ予感しかしないし。
「ああ、出た……いつもの朔ちゃん節が!! 昔っから早死にしそう、早死にしそうってうだうだ言ってるから本当に本当に、ぐっ」
やめよう、考えるの。朔ちゃんのネガティブ思考は今に始まった話じゃないし。とりあえず腹が減ったので、食べかけのおにぎりを持ち上げて、頬張りながら読み進める。
俺のせいで彼氏とも別れたんだし。ここはちょっと、腐女子でオタクなあかねちゃんが孤独死しないためにも俺、新しい男を探そうと思い立ってさ。
「はい? お前の彼氏なの? 何なの? あと、まだ二十六歳だって! 孤独死の心配なんかしないで!?」
わざわざ書かなくてもいいのに、こんなこと! それに腐女子と言っても、まだ腐りかけの浅漬けなんだし、アニメを見て(もちろん、公式で彼らが結ばれることは無い)、SNSでちまちまとイラスト漁って感想送って、ネットで同人誌と漫画をどさどさ買い込んでるだけだもん!
「絵も描いてないし! グッズは……買う予定だけど、まだ買ってないし! ライトライト! 生きる糧にしてるだけ~!」
残っていたおにぎりを口に放り込んでから、続きに目を落とす。が、一瞬喉に詰まりかけた。
それで探した結果、いい男が見つかりました。あかねちゃんが以前、偶然会って観光地巡りをして「楽しかった~!」って言ってた男。そう、何を隠そう、俺の主治医さんです。槇田透さん。
「はっ、はああああああ!? ハイスぺイケメンじゃん!? 大丈夫!? 頭沸いてる!?」
しまった。薄い壁のアパートなのに、思いっきり叫んでしまった。案の定、どんっと壁を殴られる。慌てて口をつぐんで、日記帳の続きを読む。
聞いてみたら、槇田さんも「いいですよ」って言ってくれて。ただその場合、友達から始めたいとのことだったので……。俺がリサーチして、槇田さん好みの服とか香りとかまぁ、全部書き記しておきました。頑張って婚活をして、槇田さんを落としちゃってください!
「は……?」
息も手も震えた。まさかの、死んだ婚約者から新しい男を紹介されてる……? 何度も何度も目を擦って見てみたけど、ちゃっかり、トットのIDまで書き記されてるし。もうこれでID検索をして、無料で電話とトークが出来ちゃうよ……?
「えっ、ええええええええ……!?」
これが俺の最期の願いです。死んでも死に切れないから、あかねちゃん。頑張って婚活をして、誰か他の男と結婚して幸せになってください。でも、出来れば槇田さんと。
確かに、私を悲しませるようなことは書いてなかった。死への恐怖も何もかも全部、書いてなかった。呆然と息を飲み込み、ひとまず残ったいちごチューハイを飲み干して、白いカーペットへ放り投げる。じわりと、残った赤い液体が白いカーペットを汚していった。
「嘘でしょ……? 会えと!? あのハイスペイケメンと!?」