第二十話
飛行船の充填率は6割ほど。それでもほとんどの装備品を外した状態なら浮くのか。風に流されるままに真夜中の学園上空を泳ぐ。
「うわ、ベコベコして動きにくいよー」
海ちゃんは立てているけど、私はヤモリみたいにへばりつくしかない。
よく見ればあちこちに側溝のふたのようなものがあり、空気を吸い込んでいる音がする。何らかの独立した吸気装置、バッテリーで駆動する仕掛けだろうか。この大きさの飛行船を即座に飛ばせるだけでも大変な技術だ。しかもどうやら操縦できるらしい。怪盗が指を鳴らすと、飛行船は姿勢を水平で安定させる。
「すごい……これだけのものが作れるのに、なんで怪盗なんか……」
「美しいものは私の元に集まる、花に蝶が集まるようにね。それがあるべき姿だからよ」
怪盗……矢束とか呼ばれてた人は夜風になびく髪を押さえる。飛行船は段々と葉巻型に近づく。布地は黒く、地上からはほとんど見えないだろう。
「学生のレベルを超えているでしょう? だけどこの学園なら作れるの。人材が豊富なのよ。私がいくつかの部から部員を集めて作らせた」
私はまだ起き上がれない。布地にしがみつきながら視線をちらと動かせば、もはや建物の明かりは金粉のように小さい。
(こ、これどうやって降りたらいいの……?)
飛行船が着陸するためには非常に繊細な操作が必要だけど、こんな大雑把な吸気・排気装置だけでやれるのだろうか。着地点を探せるのだろうか。
「怪盗さん! とにかくお縄にさせてもらうよー」
海ちゃん今はそれどころじゃないんじゃ。
「ふん、みにのべ部……白釘ケイが消えて、あの忌々しい大歓寺パルルも姿を見せないと思ったら、新人を育成してたとはね」
やっぱり、大歓寺先輩と因縁が……?
「でも無駄なことよ。いずれ私の魔法がこの学園を掌握する。すべての価値を手に入れて王として君臨するのよ。みにのべ部が何をたくらもうと意味のないこと」
「な、何を言ってるんですか。部から物を盗んだぐらいで……」
「物だけではないわ。人材だって手に入れる。この学園にはあらゆる形の価値がある! 部活バトルを実現するAIもその一つ。私はあれも手に入れる!」
部活バトル……。この人も、あれを。
「部活バトルって何なんですか。みんな、いったい何をそんなに……」
「四つのスートに座る者こそ、この学園の支配者」
スート……。
「ていっ」
海ちゃんは話に付き合う気はないようだった。振りかぶって何かを投擲。怪盗が腕を振れば出現するのは革のムチ、投げられた何かを撃ち落とす。
それは金属製のリングだ。飛行船の金属部分に当たってカキンと鳴る。戦輪とか言ったっけ。飛行船の上部には何らかの信号灯のようなものが点灯していて、それが光源になっている。
「御用だよー!」
海ちゃんがリュックから引き抜くのは三本の棒。鎖で連結されて一つの武器になっている。あれは三節棍だ。なんでそんなマニアックな武器ばかり。
海ちゃんが飛び上がり、三節棍がしなるように動いて打ち下ろされる。怪盗はするどく横にステップを刻んでかわす。ばすん、と百キロ近いものが落ちたような布地のたわみ。
「甘いのよ!」
怪盗がマントをひるがえす。すると転がり出るのはクリスマスツリーを飾ってそうな五角形の星。次の瞬間、それが激しく光ってすべてを白く塗り上げる。
「みゃっ」
一瞬、海ちゃんの眼がくらんだ。そこに叩きこまれるミドルキック。腰のひねりを利かせたとんでもなく鋭い一撃だ。海ちゃんの体が大きく飛ぶ。
「海ちゃん!」
蹴りで人間があんなに飛ぶわけない。たぶん足場に弾力性があることを利用して後方に飛んだんだ。
それでも威力を殺し切れていない。海ちゃんは身を縮めたまま動けない。
「実戦慣れはしてないようね。でも油断のならない子。今のうちに潰させてもらう」
怪盗が歩を進める。
だめだ、海ちゃんもかなり鍛えてるけど、まだ怪盗のほうが上なんだ。
「……どきなさい」
私は怪盗の前に立ちはだかる。
考えは何もない、ただ立っただけだ。高さのせいで足がすくんでるし、怪盗が怖くてしょうがない。
でも、これ以上海ちゃんを傷つけさせるわけには……。
「どかないと突き落とすわよ」
「ま……まだ洋上には出てない。学園の上空です。人が落ちれば大変な騒ぎになりますよ」
高さはおそらく100メートル以上。
風は強く揺れはひどい。夜中のために高さの実感はないが、それでも気が遠くなるほど怖い。
「何が起きようと大した問題じゃないわ。私は深淵の魔法使い。この世の理を逸脱した存在なのよ」
「ち……違います。あなたのやってることはただの手品。すべて説明できる。理屈がある。この世界に魔法なんか存在しません」
私の言葉に、怪盗の矢束は少し眉をしかめる。何かカンに障ったのだろうか。私は言葉を重ねる。
「あの部活バトルも、黒騎士も同じです。必ず理屈がある。説明できる道理の上の存在です。だから勘違いしないでください。誰だってこの世の摂理から逃れられない。特別な生き方なんてできない。人はみんなこの世の法則と、社会の律法に従って誠実に生きてるんです。怪盗なんて馬鹿げてます。あなたはすごい人なのに、あのドックにいた人たちも、プラネタリウム部の空木部長だってとても貴重な人材なのに」
「はっ……あなたに何が分かるというの」
怪盗が踏み込む。その青白い腕は芯が通った筋肉質な腕だと分かる。この不安定な場所て一押しされれば、私は。
「私は【金貨】のスート。この六沙学園を、世界を支配する四人の一人……」
でも逃げられない、逃げたくない。せめて最後まで、海ちゃんを守って……。
歌が。
はっと目を見開く。
「え……」
反応したのは怪盗も同じ。飛行船の上であたりを見回す。飛行船は上昇を続けており、もはや周囲は黒一色にしか見えない。いくつかの信号灯が規則的に点滅し、その点滅に合わせるようにささやかな歌が流れる。
誰かが。
それは白い長衣を着た女性。頭部に黄金色のきらめきが見える。金のティアラをかぶっているのだ。極薄の布地は散らばった光源により透けて、その細身のシルエットを浮き上がらせる。
「えっ……ど、どこから」
もう高度は数百メートルはあるはず、どうやってこの飛行船に。
「乎曳神……!」
怪盗が呟く。
「いい眺め……百万ドルの夜景というものかしら」
ゆらりと、怪盗に近づく。怪盗は明らかに腰が引けたように見えたが、意志の力でその場に立ち続ける。
「そこのあなた」
私に声を投げられる。だが幽鬼のようなその女性はどこも見ておらず、ただ声だけは凛と響く。すでにかなりの強風になっているが、鉄琴のような硬質な声ははっきりと聞こえる。
「この世はすべて摂理の上に成り立っていて、魔法など存在しない。必然的に魔法使いも存在しない。そう言ったかしら」
「……そ、そうです」
「好ましい考え方。誠実で実直、地に足がついている」
怪盗が動く。
手に出現させていた革ムチを思いきり振りかぶり、空気を裂くような高速の一撃。
乎曳神と呼ばれた女性は一瞬だけ像が薄くなったように見えて、革ムチが体を突き抜ける。ほとんど回避したとも分からない一瞬の足さばき。そして怪盗の肘を、細く白い手が掴む。
「では、これも手品?」
怪盗の右腕が、黄金色に輝く。
「なっ……!?」
肘から上下に広がる黄金色の波、指先から肩までを黄金に染め、19.32という比重に耐えかねるように膝をつく。
「ひっ……」
恐怖に震えている。意志ではどうにもならない恐怖の声音。
「あなたが【金貨】のスートですって?」
今度ははっきりとさげすむ響きがあった。
ではまさか、違うというの。
「や、やめ……」
「矢束音々。10億円はできたの?」
10億円?
あまりに突飛な言葉だったが、怪盗は黄金に変わった右腕を押さえ、玉の汗を浮かべながら答える。
「も、もうすぐ……。あと一つか二つ仕事を」
「まだなのね」
ぽん、と頭を叩く。
何かをしたとも思えない軽い動作。だが怪盗の頭部はその瞬間に黄金に変わる。
恐怖の表情を張り付かせた黄金のデスマスク。その肉感的な肢体も、たなびくマントも、水蜜桃のような乳房まで黄金に変える。その姿が黄金の像へ変わるまでほんの数秒。
「スートの詐称は大罪……今日この日に成り替われるならまだしも、挑戦権を持たないなら弁護の余地はない……そういうことよ」
私への説明なのか何なのか、ほうという熱い吐息と共に言う。
「あ、あなたが……本物の、【金貨】のスート」
「そうよ。創作舞踏部部長、乎曳神ティアラ。深淵の魔法使いの一人」
「10億円って何のことですか……?」
いくつも質問に答えてくれる雰囲気ではない、直感的に出てきたのがそんな問いだ。
「部活バトルを拒否し続けるのは黒騎士の不興を買うの」
「……」
「でも審査は他の生徒に任せている勝負。あまり頻繁に戦うとギャラリーが飽きないとも限らない。だから条件を付けているのよ。私への挑戦権は10億円。別にお金は欲しくないの。それぐらいの覚悟が欲しいだけ」
黒騎士の不興を買う……。
四つのスートとは座席のようなものであり、部活バトルで勝ち抜いたものが座る。そして部活バトルの拒否によって座り続けることは難しい? 深淵の魔法使いであっても黒騎士には逆らえない……?
「俺の条件はもっと簡単だぞ」
また声がする。振り向けば二人の人物。長身の男女だ。
「刀法部部長、榊道玄太刀邦。【剣】のスートだ。挑戦権は俺に「武」で勝てばいいだけ、簡単だろ」
「生徒会長を務めています。酒舟粋。【聖杯】のスートに挑むならば、千筆の署名を集めていただければ……」
四つのスート……そのうち三人がここに。
「……もう一人は?」
「ん? 別に全員集合ってわけじゃないさ。ここに用があったのは【金貨】だけ。俺たちが来たのはほんの気まぐれだ。それに【生命の樹】のスートは特殊なんだ。その座に誰が座ってるのか俺たちも分からない。挑戦権については単純だ。誰が【生命の樹】なのかを突き止めればいい。適当にその辺のやつに言ってみればいいさ、当たりならその日にでも戦える」
「深淵の座に座る者は、魔法を手にする」
ゆらりとその場で回転するのは【金貨】のスート。乎曳神ティアラ。その糸杉のように細い手足で黄金の像を揺らす。
「それはこの学園を支配する力。真なる魔法なのよ」
歌うような、詩を吟じるような独特の高音。
眼下の光の町を、学園を支配者の目線で見下すような。
その態度が、魔法使いであるという名乗りが。
気に入らない。
「……催眠術」
「うん……?」
乎曳神部長は私を見る。初めて私という人間を意識するように視線を向け、信号灯の明かりを受けた切れ長の眼が見える。
「怪盗さんに暗示をかけて体の一部を硬直させる。同時に隠していたスプレーでゴールドの塗料を吹き付ける。腕が黄金に変わったと錯覚した怪盗は、その重量すらも錯覚して膝をつく。動揺した心のスキを突いて今度は全身を硬直させる……」
「ふうん……」
私はちらと背後を見る。海ちゃんはまだ起き上がれない、打ち所が悪かったのだろうか、早くお医者さんに診せないと。
でも、この人たちに気遅れを見せるわけにいかない。そう本能的に思う。
「魔法なんか存在しません……呪文のヒトコトで世界を変えることなんかできない。私の考えは変わらない……」
「魔法使いには不遇の時代よね。炎を出す、杖を蛇に変える、魔法使いのやる事はだいたい全部トリックでもやれてしまう」
ぱちり、と指を鳴らす。
変化は足元に現れた。飛行船が急降下を始める。側溝のふたのような排気装置が空気を吐き出し、同時に前方が下がる。
「うっ……」
よろめくが転びはしない。
焦るようなことじゃない。この短時間で飛行船のシステムを把握して乗っ取る。驚異的な事だけど説明不可能じゃない。この学園の人々ならそのぐらいは。
「でも人は世界を知り尽くしていない。知ればさらにその外側へと向かい、了ることがない。魔法とは世界への訴求、世界が理解を超えたものであってほしいと願う心そのもの。己の世界を拡大しようとする強欲こそが魔法」
声に愉悦が含まれている。その細いシルエットは柳の木のようにしなやかに動き、横隔膜の震えを全身の震えに伝播させる。引きつるような声、脳を快楽の液体に浸したような声。
「それは呪いにも似ている。触れるものすべてを黄金に変えたという、王の呪いのように」
飛行船は降下を続ける。街の光が飛行船の地平線上に現れる。そんな、下がりすぎている。これでは地上に激突。
「な……」
飛行船は地面すれすれに降りて、建物の隙間を高速移動し始める。
私の目に映るのは、黄金の街。
あらゆる建物が。
樹木が。
道路や街灯やガラス窓や鉄柵や充電中のトラムまでもが黄金に――。
わからない。
どうやって、何がどうなれば、こんなことが。
「私が触れるすべては黄金に。見つめるすべては黄金に、思い浮かべるすべて黄金に……は、はは、あははは、ははは」
嗤っている。
その細身の女性は、黄金に照り映える光の中で笑う。その笑い声すらも黄金となり、この世に永遠に残り続けるかのように……。




