第一話
なぜ言葉は思い通りになってくれないのだろう。
私が言いたいこととか
伝えておきたいこと
叩きつけたいこと
語らいたいこと
囁きたいこと
口遊むこと
呟くこと
叫び
それらは私の中にぐるぐると渦を巻いて、いざ出てこようとすると渋滞を起こす。
大きな場面から小さな場面まで、たとえば中学で文化祭の出し物を決めるときも。
――ねえヒトコト、あなた何がいいの
――どれでも
何を聞いてもヒトコトしか答えないから。だからヒトコト。
言問ひなたという本名よりも馴染んでしまった。私の卑屈なあだ名。
普段はちゃんと会話もできるし、教科書の朗読もできる。
ただ何かを勢い込んで言おうとすると、言葉が出てこない。体には何の不調もないのに。肝心なことがちゃんと言えない。
趣味は物書き。
言葉を綴るのは好きだった。子供の頃からノートの切れ端に、子供用のモバイルに、たくさん言葉を打ち込む日々。
それは詩だったり、小説だったり、日記だったり歌詞だったり何かの愚痴だったり。
その言葉は自分だけのもので、人に見せたことはあまりない。内向的でドメスティックで、自分ひとりの世界で完結してしまう、外に出るのはヒトコトだけ。
だから私は、文芸部の前でも固まっていた。
部活動エリア第三棟、文芸部の看板があるドアをノックしようとした瞬間、中から大勢の声。
中に三十人ぐらいいる。
嘘。文芸部って多くて十人ぐらいで、部室にいるのは二人とか三人とかそんな世界じゃないの?
「う……しかもなんかすごく活発に話しあってる」
――では今日はチームでの執筆ということで、4班から6班まで四階の図書室に移動してください。
がたがたと椅子を後ろにずらす音。大勢が立ち上がる気配。
がらりと扉が開いて部員が出てきた瞬間、私はそこにいなかった。
「? いま誰かいた?」
「気のせいじゃない?」
※
「はああ……逃げちゃった」
人数に気圧されてしまった。
特に文芸部が人気というわけではない、この学園が大きすぎるのだ。
六沙学園。
太平洋に浮かぶ人工島、そこに建造された巨大学園は、特に芸術分野に力を入れている。
一万人が入れるコンサートホール。
地上7階、地下2階の美術館。
フィギュアスケート専用のアイスリンクが2つ。
焼き物のための登り窯、生け花のための温室、バイオリン専用の工房などなど……とにかく芸術に関する設備で無いものは無い、とのことだ。
私は桜の下を歩く。
今が春だからというわけじゃない。この人工島はエリアによって四季が分かれていて、ここは春のエリアだからだ。品種改良された桜が一年中咲いている。
「きれい……」
小高い丘もあり、散策に丁度いい塩梅に曲がりくねった道もある。
桜を見ると私は思考が揺らぐ。
その舞い落ちる優雅な動き、心を揺さぶるような淡い色彩に何かを思い出しそうになって。
――描写がくどすぎるのよ
「……」
だめだ、よくないことが浮かびかけてる。
外に出せない言葉が、淀んだ記憶がコップからこぼれそうになってる。私は息を吸い込んでそれを抑えようとする。頭を振って視線を伸ばす。
「……海のそばまで桜があるんだ」
私は1メートルほどのフェンスに寄りかかる。その向こうは海である。
遠くに釣り堀のようなプラントが見える。魚とか伊勢海老なんかを養殖してるらしいけど、あれがそうだろうか。
穏やかな凪の海。この人工島の周囲は波が静かで、めったに台風も来ないらしい。潮風に混ざって桜の花びらが鼻先をかすめる。
「部活どうしよう……もう入学式から二週間だしなあ。一年は強制だって聞くけど……」
ばしゃん。
「え?」
水音がした。
私がフェンスから首を出して下をのぞきこもうと。
した瞬間。おデコとおデコがぶつかる。
「はぶっ!?」
のけぞる私の真上を飛び越える黒い影。それは褐色の人魚姫……という錯覚。
「あいったー! もー! 人がいたなんて思わなかったよー!」
私と同じぐらいに小柄な女子。背丈は150ほど。くろぐろと日に焼けていて、濃藍の競泳水着を着ている。スイムキャップを脱いでぶんぶん振り回す。
「ちょ、ちょっと」
「あ、ごめん、しぶき飛んだね」
いやそれはいいけど、太平洋とはいえまだ泳ぐには寒いんじゃ。
え、そういえばこの子、いま。
私は再度フェンスの下を見る。格子状のフェンスの下はつるつるのコンクリートの壁が2メートルほど、その下が海面。
ハシゴどころかフジツボもない。ここをあの勢いで上ってきたの? ヤモリか何か?
そしてドドド、という音が複数。見れば右側からエンジン付きのタグボートが数台やってきている。
舳先に乗っている人物が銃のようなものを構えて、それを私に向け。
「えっ!?」
ばしゅ、という発射音。さすがに実弾ではない。ロープのついた鉤手を発射したのだ。それは格子状のフェンスにがきっと噛みつく。
スイムキャップを絞っていた女の子は、その音に慌てた様子。
「うわ、もう追いついてきた。やばっ」
と、道に沿って駆け出す。足ひれを両手に持つ姿が翼を広げるよう。
え、なにこれ。
テロリスト? 追われる怪盗と警察?
「いたぞ! 捕まえろ!」
「逃がすな! 何人か海を見張ってろ! また飛び込むかもしれん!」
そして殺気立った男たちが上がってくる気配。
「ちょ、ちょっと待って!」
我知らず私も走り出していた。褐色の女の子の後を追う。
よく考えなくても女の子と別方向に逃げるべきなのだけど、このときはほとんど思考が働いてなかった。
水着の子は足が早いが、素足だったために小石が気になって走りにくいようだ。がに股でどたどた走っている。
「やっばい、大勢来てる」
女の子が振り向いて言う。
「ねえねえ、あなた名前は?」
「な、名前? こと……いえ、ヒトコト」
あだ名の方を名乗ったのは、そちらの方が馴染んでいるからだ。なんとなく本名は私にしっくり来ない。あまり健全なことではないけど。
「あたし海。じゃヒトコト、部活どこ入ってる?」
海と名乗った子は走りながら聞いてくる。後ろからは大勢の声がする。
「な、なんで部活? 入ってないよ」
「そっかまだ入ってないのか、一年生だよね、じゃあこのへんに部室ないかな」
話に脈絡がなくて全然わからない。私は息を切らせながら答える。
「し、知らない!」
「うーん、ここ春エリアだよね。眺めがいい場所だから部室の一つぐらい……」
と、海の目が斜め上を向く。
つられて私も見れば、そこに赤い屋根を構えた洋館のような建物。
海はカカトを支点に体を回し、見事な直角カーブを決める。私はよろめきながら大回り。
背後は人数を増している。一瞬だけ振り返ったが二十人はいる。しかも水中銃らしきものを構えて。私は恐慌じみた顔で坂を登る。
「手を取って!」
海の手が伸ばされる。掴んだ瞬間上に飛ばされるような感覚。海が一気に加速をかけつつ、しかも私の体勢を崩さないように引っ張る。これが階段なら4つ飛ばしの勢いで一気に洋館へ。
立派な建物だが、近くで見るとかなり古い。壁はくすんでいて石材は風化している。おまけに雑草で囲まれていた。この学園で建てたものではなく、どこかから移築したのだろうか。
扉の横に看板がある。文字がかすれているが。
――みにのべ部
そう読めた。
「みにのべ部……?」
「おじゃましまーす!」
海は大声でそう言うと、勢いよくドアを開ける。
中はというと、一言で言えばゴミ屋敷だった。
外の瀟洒な様子はどこへやら、中身がパンパンに詰まったゴミ袋が山のようにある。
ゴミ袋の他には大量の本だ。漫画に雑誌。文庫本などがスミのほうに積み上がっている。古いラジオやら掃除機やらは動くのかも怪しい。
入ってすぐは大きなホール状の空間になっていて、中央にソファとローテーブルの応接セットがある。テレビもあった。
そして中央のソファ。まるで入ってきた者を待ち構えるような位置に。横たわる人物。
「んー……?」
上体を起こす。セーラー服を着た細身の女性。この学園は制服が何種類かあるが、セーラー服を選んでる人は初めて見た。
紙のような白い肌に細く長い手足。不健康に見えかねないぎりぎりの細身。その顔に這わせる指はガラス細工のように繊細で、眠たげな半目の顔はしかし、亡国の王女のような、という例えが浮かぶほどの美人。
そこで、背後から人がなだれ込んでくる。水着姿だったりライフジャケットを着ていたりの男たちだ。
男たちが何か言いかけるその瞬間、海がびしりと手を挙げる。
「はーい! 一年の御国海とこっちのヒトコト、みにのべ部に入部しまーす!」
「えええええええっ!?」
一年ぶりぐらいに叫んだ。