血を被る笠3
2011年12月■■日 22時00分
一本の、真っ赤な真っ赤な番傘が開いた――。
国を、人を守るために。
人が、人で在る内に。
未来に確固たる一歩を踏み出すために。
初めの一人が必要だった。
雪げぬ返り血を浴びる覚悟の在る者が必要だった。
殺戮と虐殺を肯定する者が必要だった。
青から黒へ。
生きとし生けるもの。
人は勿論のこと、動物にすら動揺が見えたあの日。
海が黒く染まっても変わらないものが在った。
世界が一変しても変わらないものが在った。
それは概念的な存在ではなく、希望を抱くに値しないものだった。
法のもとで庇護される国民には見知った存在である彼らは、実質的に民の上に立ち、国そのものと成って人々を、国家を運営する立場にあった。
明滅する箱と板の中で声高に為政を叫び、さりとて何も成さず、憎悪の限りを向けられようとも笑顔を絶やさない者たち。
それこそが変わらないもの。
皆が期待し、安心を、庇護を求め、国家として当然の振る舞いを求め。
そして。
――皆、自ずと希望を断った。
驚愕などそれを表すのには足りない。
絶望などという衝撃を軽く凌駕してみせたそれに、民たちは怒りの向こう側に至る。
成さねばならなかった。
未来に踏み出すために。
人を保っていられるように。
その土台である国を守るために。
殺戮と虐殺を肯定する先陣に、一本の、真っ赤な真っ赤な番傘が開いた――。
それが合図だった。
金槌、鍬、鋸、鉈、包丁、竹槍、レンチ、ハンマー、チェーンソー、バール、警棒、拳銃。
手近にあったもの、使い慣れたもの、殺意を込めながら自作したものまで。
おおよそ人を殺せる得物を持ち寄った民衆たちは国家の中枢を取り囲んだ。
それは、人の上に立つ者が居なくなるまで続いた殺戮であり虐殺であった。
地方まで含んだ、凡そ九千にも及ぶ殺しは深夜から始まり、終わってもまだ日は昇っておらず。
大義の為にとは云え、この世界における禁忌を破ってしまったのかと誰もが終わらない夜に怯えていたが……。
数時間の後に顔を見せた朝日に、得物を持つ手が緩んでいくのを感じていた。
血の海を照らす朝日、赤を滴らせる番傘、憂いを帯びて震えを封じる青。
薄れていた、掠れていた。
だから幸いにも芯の芯まで染み込むことはなく。
朝露とそよ風が、淀んだ黒を洗い流した。
再編。
再興。
生きるに値せずとも、飼い殺しの傀儡としてなら真価を発揮するものも存在していた。
霊水を心の臓腑に詰め、身を粉にしても止まることを許さず、反抗の意思表すならば即殺は必死。
皆が良く見知った顔立ち、国の顔であり、国の中枢、国民の上に立ち、国を、民を導くべき存在。
その存在は、傀儡として国の頂点に据えられている。
周囲を埋め尽くす有象無象も同様に。
傀儡といっても自由意志を縛ってはおらず、あくまでも自身の意思で国を運営させている。
――だが。
再び赤の番傘が開く事態に陥った時。
真っ先に飛び散る赤はこの傀儡達である。
それを消えぬ記憶として心と脳裏に刻みこみ、傀儡達は今日も身を粉にするのだ。
「……あ~、やだね。最近昔のことばっかり思い出すよ」
下駄を鳴らし、はだけた着物を直しもせず、番傘差して山道をひた歩く藍。
「よぉ、元気にしてたかよ婆ちゃん」
何処か遠くの山の奥。
二つの小さな石が並び置かれている。
「八朔持ってきたぜ。好きだったろこれ。
よく剥いて食べさせてくれたもんな~。
強請るあたしに、好物奪われんのが嫌だって顔しながらさっ。
でも、最後には必ず笑って剥いてくれたよな~。
鏡花にはこれ、チョコレートだ。
あん時よりだいぶ甘いだろ?
布団の中で隠れて食ってたのが見つかって叱られたよな……」
供え物を置いた藍は静かに手を合わせ、目を閉じた。
石の下に躯と呼ばれるようなものは何一つ無い。
遺品とされるものは例え布切れ一枚であろうともこの世に残されてはいなかった。
五角 葵。
忌み子の暴走を許し、その責を問われ自刃した大罪人。
壱之酉 鏡花。
忌み子として覚醒し、両親、その両家の人間全員を焼き殺した。
禁忌を犯した両者の躯は、九十九殺しの秘術によってこの世から完全に消え去っている。
「……いろいろ。
いろいろ済んだから。
報告しとこうと、そう思ってな。
……恐らく、婆ちゃんが呑んだのをあたしも呑んだ。
とんでもねぇ味でさ。
苦ぇし不味ぃし、舌触りも最っ悪で喉につっかえるしよぉ……。
でも。
それを呑んだから、あたしは強くなれた。
止めることが出来た。
じゃなきゃ、もうちょっとで特大の後悔を引きずることになってただろうさ!かっかっか!」
祖母譲りの豪快な笑い声を響かせ、そして力なく俯く。
手製の墓を見下ろして、そこに何も、誰も居ないのを理解していながら。
声を震わせて、絞り出すように呟く。
「……――討てなかった」
その言葉が全てだった。
後悔していないことを悔いているなど、絶対に認めたくなかった。
「あんたの……。
仇が……。
あんたと、一緒に眠ってる鏡花の仇が……。
すぐ目の前に居たんだよ?
それなのに……。
…………なんで……どうして止めたんだよ婆ちゃん……」
感情の無いままに。――御使笠としての使命のみを背負っていたならば。
何も思い出さず。――全て済んだ後に振り返っていたならば。
こんな風に、一頻り声を上げて泣くこともなかったというのに。
薄れず、掠れず、揺れるだけ。
その揺れも収まると、いつもの天真爛漫、天衣無縫。
淀みの取れた青を纏い溢れる自信と景気の良い笑み。
だけど、今回は少しだけそれを後回しにした。
向き合わなきゃいけないものがまだ有る。
あまり考えないようにしていたことだった。
――陣。
あの子が沈みきった青を放つようになった日。
そしてそれが、黒を増して淀みを放つようになった日だ。
2011年3月■■日
その日を堺に、陣の霊力は波ひとつ立てなくなった。
半ば暴走し死物狂いで浄化を試している時でさえ。
声を掛けてやることも憚られる、そんな剣幕であったとしても。
そうこうしている間にいつもの陣に戻っていた。
兄貴分の光譲りのほわんとした緩さを。
術の師匠、巌が認めた天賦の才を。
暦の言いつけを馬鹿正直に守って筋トレを欠かさない、そんないつもの陣。
2011年12月■■日
征伐を夜に控えた日の朝。
あたしの元にすっ飛んできたのは錘だった。
『皆を止めようと一人海に向かいました!』
無駄だと分かっていながら、全身全霊、たったひとりで。
『今ここで海が青く蘇れば…………皆、誰も殺さなくて済む』
あの子は、あたし達が虐殺を行ってる間ずっと、黒くなった海に向き合ってた。
そうして迎えた次の日に。
波ひとつ立てなくなったあの子の霊力は、黒く。
真っ黒な淀みを放つようになっていた。
「人を……、他人を助けてばっかりだったねぇ」
番傘越しに陽を仰ぎ、当時の陣の気持ちを理解しようと想いを馳せる。
燦々と降りしきる陽光は暑く眩しく。
故に、この正反対に位置していたであろう陣の心境を重く、強く胸に刻む。
――何もしてやれなかった無力感と共に。
「……だけど、今なら……」
もしかしたら、今なら。
助けてやることが出来るかもしれない。
深みを増して重く輝く青は、淡く抱いた希望を胸に灰へと歩き出した。




