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黒い海がある現実  作者: アルエルア=アルファール
21/75

焔の残穢12


喫茶アイエル。


アイエルの意味を最初から知ってるやつなんて居やしない。

なんてったって俺の造語だからな。

ギリシャ語だかラテン語だかで永遠とか永久とかの意味だ。


自分の店を持つので精一杯だった俺は金の工面やら工事の依頼やらで四苦八苦し、

オープン当日になるまで店の名前を決めていなかった。


高層ビルの1階に入ってすぐ左の喫茶店入り口には、真っ白な看板が煌々と煌めいて……。


店の上の方がなーんか妙だなとは思ってたんだよ、

なんせ真っ白な長方形があるだけだったからな。



「嘘やん」



別に関西出身って訳じゃなかったんだがこういうときに関西弁って出るよね。


偶然居合わせた電気屋に脚立貸してもらって、

これまた偶然居合わせた塗装屋に黒ペンキとハケ貸してもらって、

……今思えば脚立も塗装屋に貸してもらえばよかったな。


とまぁいろいろと貸してもらって。

いざ看板の前に来たわけよ。

オープンから着ようと思ってた真っ白なエプロンを着てるってことも忘れて、だ。


そんで何も思い浮かばないわけ。


看板と同じよ、頭ん中真っ白。

3時間ぐらい脚立の上でハケ構えて座ってた。

下で見守ってた電気屋と塗装屋も心配はしてくれてただろうけど、

内心早く返して貰いたかっただろうよ。


やっとのことで捻り出したのが中学んときの黒歴史だったのには苦笑いがでたね。

誰にでもあるだろ?多感な時期ってのはさ。

中二病ってやつに侵食されきってた当時の俺は図書室でラテン語やらギリシャ語やら、

とにかくかっこいい単語を探してたわけよ。



「月ってラテン語でルナっていうらしいよ」



あばああッーーーーー!!!

女子に向かって得意顔で披露してたのが今でも激痛となって俺を苦しめてんだわ。

あんときの女子達の顔!うあああ!ぐえええええ!!


……はー、落ち着いた。


んでね、その時に見た単語の組み合わせがぱっと浮かんだわけよ。

読み方間違ってるって最近気づいたけどな。


ともかくだ、アイエルってのは永久と永遠を合わせた験担ぎなわけ。

店がこの先何があろうと存続していきますように!っていうささやかな願いなのよ。


そんなささやかな願いに不穏な影が忍び寄ってっ……というかもう居るわけなんだけどな。


有り難いことに最近常連となってくれた二人組。

前から少し不思議な雰囲気だったっていうか妙なっていうか。

最初は上司と部下かな?って思ってたんだが……。

それにしちゃ女の方が少々派手?というかイメチェン?を繰り返しててな。


初めは目つきの鋭い黒髪、暫くしてから柔和な目つきに変わって髪も真っ白になってて。

そんときも大分驚いたがね、あのガタイの良い男の人と一緒じゃなきゃ誰か分からんかった。


会話も弾んでてな。おっと盗み聞きじゃねえぞ?自然と聞き耳を立ててただけだ。


男の方は意外な事に大の甘党らしい。

ただ、一人で来るのが恥ずかしいってやーつ。


ほんでよ。問題はここから。

俺が何を不穏に感じたかなんだが。


今日はまた女の方の見た目が変わっててな。

耳も尻尾も付けて、おまけに目の色まで変わってんのよ。


ウチは別にコスプレ禁止ってわけじゃねえよ?

だけど考えもんだよな~、だってその前に居たお客さん全員帰っちゃったもの。

ってちげー、それを言いてぇんじゃなかった。


なんつーか。

雰囲気よ。

黒髪から白髪に変わったときは意識して見れば同一人物だって分かったんだが、

今回は異様と言う他ない。


纏ってる雰囲気は空気ごと変質してるし、

まるで、面影だけ残して中身全部変わっちまったみてぇなさ……。


んで更に追い打ちなのが男の方。

いつものぐでっとしたほんわかな表情じゃない。



まったくの真逆。冷や汗と引き攣った愛想笑い。



これはアレか?


実は恋人同士で。

女の方にコスプレ趣味があって。

徐々に打ち明けようと白髪なんかにしてたんだが。

勢い余って迫真の演技と共に全力コスプレを披露しちまった……。


……これだな、間違いねえ。

長年に渡る人間観察で培ったこのアイエル店長、坂本 真一まいちの目は真実を見抜いたぜ。


ともすれば今の状況は、突然のカミングアウトによる両者地獄の気まず空間。

放置して痴話喧嘩に発展する前に手を打つ、それもとっておきのヤツをだ。


永久とわ永遠えいえんのアイエル、俺が守って()()()ッッッ!!!



「こちら。いつもお越しくださる御二方へ、アイエルからの心尽くしでございます」



二人の好みは完璧に把握してる。

決まって抹茶ラテと旬のフルーツクレープを注文し、食後には苦めのコーヒー。


だが、ただそれらを運んだところでこの気まず空間を打ち破ることは出来ない。

ならばどうするか?そんなことは決まっている。


シェアだ。

食いもんシェアすりゃひび割れた関係なんて立ち所よ!

これ古からのルールだから覚えておいてね?


さあ見よ!!この特大クレープと特大抹茶ラテを!!


ラテに突き刺さったカップルストローッ!!

フォークは勿論ひとつだけ!!

切り分けてお互いにあ~んなんてやってみろ!!

直ぐに関係修復!!円満退店!!

痴話喧嘩で壊れるはずだった調度品たちが泣いて喜ぶ姿が目に浮かぶッッ!!



「こやっこやっ!

お前様!この店はいつもこんな気の利いたことをしてくれるのか!?」



「……み、見たことないけど。店長さんこれ……」



言葉は不要、あくまでこれはいつも来てくれる方への心尽くしという体を保つ。


よくあるのがここで何かを言っちまう奴だ、でもそれはマナー違反なんだよ。

当人の仲を解決できるのは当人たちだけなのだ。


そう、言葉は不要。

あえて何かしたいのならウィンク程度にしたほうが良い。



「いやなんですかそのウィンクは!?ねえ!ちょっとォ!!」



「早速食べましょうお前様。はい、あ~んっ!」



決まった。完全に決まった。完ぺき子ちゃんだわ。

振り返らなくとも俺には分かる。

関係が修復されていく音が聞こえる。

去り際にちらりと見えたあの笑顔で確信した。


あとは自然と聞き耳を立てて勝利の余韻にひたろッ!!



小さくガッツポーズをして店の奥へと消えていく店長。

その後ろ姿を双眼鏡で除いていた御使笠の面々は気が気ではなかった。



「錘。もしあの店長が九尾の逆鱗に触れてたらどうなってた?」



「ここら一帯が炎に呑まれ、数秒後には全てが灰になってましたね。

後ほどあのクソバカヤロウに一撃入れてきます」



「落ち着け落ち着け!そんなことしたら――」



「大丈夫です、記憶は消しておきますので」



「錘殿が激昂するのも納得です。

あの霊力を視るに、燃焼の工程を省いて対象を灰にする事が可能でしょう」



「イワオっちがそこまで云うか。

こりゃぁ腕が鳴るねぇ〜」



双眼鏡で陣と九尾を覗き込むと仲睦まじくクレープをお互いに食べさせあっているところだった。



「あれだなあれ。この光景はあれだ、ギャグってやつだな」



「陣殿の肩を御覧ください。

差し出された時はあんなにビクついているのに、食べさせる時だけは震えが止まっておりますよ?

女性への振る舞いがしっかりしておられて、藍様の教育の賜物ですな」



「だろぉー?そこだけは叩き込んでやったからね!」



「貴方達、結構余裕ありますね……。

私はまだ気が抜けません」



和気藹々と観察を続け盛り上がる二人に少々呆れる。



「力抜いてろよ錘。お前の話じゃ、ああしている間は何もしないんだろ?」



「ええ。陣は勿論の事、華和木の体も、邪魔さえしなければ無事に帰すと口約束を」



「だろ?なら今は有事に備えての休憩タイムだ。気張る力があるなら霊力の回復にまわしとけ」



約束には違いないがそれは口約束だ。

何の拘束力もなければ守られる保証もない。


唯一、九尾のあのたおやかな笑顔にほんの少しだけの希望があるのみだ。


イチャイチャ空間を繰り広げている間に情報の共有を済ませる。



「灰に火と書いて灰火(ほろか)、まさか名があるとはねぇ」



「しかし有益な情報でもありますぞ?

名があると云う事はその名で縛れると云う事です。

御霊外しの後はそこを攻め手にすれば宜しいかと」



「いまさら言霊で縛れるような相手とは思えんが、一考の余地はあるな。

さーて一番気になってるところなんだが。


灰火はなんであんなにも陣にお熱なんだ?」



今までに齎された災厄を鑑みれば、御使笠への怨み辛みで炎を向けてくるのが当然の筈である。

だが実際には呪いどころか怨みの一欠片さえ持ち合わせてはいない有様。

千年に及ぶ呪いの元凶、遺恨の果てに御使笠そのものに宿った呪いは、

高揚した頬を赤く染めながら次期当主と抹茶ラテを啜っている。


ハッキリ言って意味不明である。

イチャつく二人を見てギャグだと宣うぐらいには意味不明である。



「想い人に瓜二つ、その魂さえも寸分の狂いなく同じもの。

と言っていましたが詳細は未だ不明です」



「想い人?あの九尾の想い人に陣がそっくりってことかい?」



「はい。深く探ろうにも陣に夢中で取り付く島もありませんでした。

二人でお茶してくるからお前はその辺で待っていろ、と言われて現在に至ります」



状況は芳しくない、攻めあぐねているばかりで突破口がない。


完全勝利条件は無傷での花、陣の奪還。

そして九尾の討滅、な訳だがそのどれを取ってしても他の要素が引っかかる。


九尾の御霊外しは、そも意識がない状態、無抵抗が前提となる。

が、その九尾は覚醒しておりこちらを燃やし尽くすのに充分な霊力を保有している。


陣の奪還、もとい九尾から引き剥がすにも、

二人の邪魔をした瞬間に九尾の怒りを買えば憑依者の花がどうなるか分かったものではない。


例えその全てが上手く行ったとして、あの九尾に正面切って立ち向かえばどうなるのか?

御使笠への被害は考えないとしてもここは人口密集地、可能な限り戦闘は避けるべきだ。



「なんも出来ないからってこのまま見守るってのもねぇ……」



双眼鏡で様子を伺う藍。その耳元で声が響いた。



『こそこそしてないで出てきてはどうじゃ?』



背筋に走る悪寒は人として当然の反応だったが、それを無視して応える。



「邪魔しちゃ悪いだろ?」



気丈なのは言葉だけである。

首筋に触れる明らかな炎の気配に、こちらの怯えを悟らせないようにするので必死だ。



『遠慮するな、そこの下男も連れて参れ。積もる話がある』



巌に後方待機と隊員の指揮を任せ、錘を伴い喫茶店へと入る。



「近う寄れ」



そう言いながら隣のテーブルを指す。

席へと着きながら陣へ目配せするが、心を読まずともその消耗具合が分かる。



「淡く深い青、貴様が御使笠の長か?」



「如何にも。御使笠衆頭目、五角 藍だ。

金の瞳と髪、獣の耳と尻尾、あんたが九尾の灰火だね?

ウチの陣にベタベタと好き勝手やってくれちゃって……。

で?積もる話ってのはなんだい?」



不躾、無作法。

背もたれに肘を掛け、足を組み礼儀作法に欠けた行為。

挑発の意を充分に込めた藍の言葉に緊張が走る。


既に何もかもにおいて下回っているのだ、これ以上主導権を握られる訳にはいかない。

ある程度のリスクを負ってもここは強気に出る必要があった。



「成る程のぅ。流石は一族の長、肝が座っておる。

だが、そんなに気を張らなくとも良い。


積もる話とは妾の過ちのこと。

その顛末と齎した結果に対するお前たちへの詫びなのじゃからな」



「詫びだって……?」



「聴くが良い、そして触れるが良い。

妾の原初、始まりの炎に――」



熱を伴わない炎が全員を包んだ。


目まぐるしく移り変わる景色、回転する四季。

上下左右、天地が入れ替わり完全に自己を見失う。


何もない漆黒の空間に放り出され、何処を見ているかも定かではなくなったとき。

燃え上がる炎が見えた。

その炎は次第に形を変えていき、やがて景色となり人影となった。


山奥で跳ねる小さな女の子。

その頭には獣の耳、その腰には九本の獣の尾。



「なにも知らぬ無垢な半獣が人に憧れた。それが妾の最初の記憶だ」



ヒトに成りたかった。

物心ついた時からそう願っていた。

いつも山から、森の中から、木々の間から、草葉の影から覗くだけ。

楽しそうに遊ぶヒトの子供達に混ざって妾も遊びたかった。

一緒に笑い合いたかった。


ある日決めたの。

あたしもヒトに成るって。

だから削ったの。

爪も、耳も、尾も。

痛かったけど嬉しかった。

どんどんヒトに成っていくのが嬉しかった。

血だらけで現れたあたしに村のヒトは驚いたけど、優しく介抱してくれた。


傷が治って、住む家も家族も出来て、だから友達も作った。

やっと一緒に遊べるようになったの。

夢にまで見た光景が広がってたの。

それは想像してたよりずっと楽しくて。

いつ迄もそうしていたかった。


時が経ったの。

充分な時が経ったの。

楽しくて気が付かない間に、時が経っていたの。


私はヒトと恋に落ちた。

優しくて誠実なヒト。

私の容姿よりも在り方をよく褒めてくれたヒト。


だけど、とある晩。

私が十九歳を迎えた日の真夜中。



捨てた筈のものが帰ってきた。



私に爪と耳と尾が帰ってきた。

そして、幼い頃には無かった炎の力も。


己から噴き出る炎の止め方が分からなかった。

愛しいあのヒトが止めようとしたけど。

瞬く間に燃え上がって。

妾の腕の中で灰となった。


嗚呼、もう顔すら思い出せぬ。

あのヒトは何処へ消えたのか。

覚えているのは、炎の中に佇み、

流す涙も煙となる妾の姿だけ。


そこに居るのは誰ぞ。

お前様か?

燃やしてみるまで分からぬ。

妾の腕の中で灰になればそれはお前様じゃ。


向かい来る者。

憐れむ者。

逃げ惑う者。

全て抱き止めれば腕の中にお前様の灰が出来上がる気がして。


何処いずこ何処いずこ

もしやまだ炎の中に。

何処どこぞ、何処どこぞ。

幾ら灰にしようとも現れてくれぬ。


最早、灰にするものすら居らぬではないか。

ならば、妾を薪に、最後の炎を。


嗚呼無情。


何処にも居らぬ。



「心の痛みと悲しみを消そうとして、悲鳴を上げながら絶叫した。

吹き上がる炎がどうなるのかなど考えもしないで……。


その結果、妾の炎は世界の境界を超えて燃え移った」



一瞬視界を炎に埋め尽くされ、再び目を開けるとそこは元居た喫茶店だった。


灰火の過去。

その光景は衝撃的で不可思議で、にも関わらず心が理解していた。


今見たものは本当のことだと。



「境界を……超えて……。つまり先程の世界は――」



「下男にしては鋭いな。そう、こことは違う別世界だ。

今のが妾の顛末、ここからがその結果だ」



再び炎の中に舞い戻る。


場所は山奥、そして小さな女の子。

先程の光景と被る点が多いがよくよく見ると細部が異なる。



「境界を超えて燃え移った炎は妾の残穢となり他世界に焼き付いた」



その残穢はただの影にあらず。

焦げ付きには妾の肉が、くすぶりには妾の思念が、舞い散るすすには残り火が。

妾を構成する片鱗たちはやがて形を得て肉を得た。


悲しみだけが残る心に戸惑い、自分が何なのかさえ分からず所構わず炎を撒き散らし。

燃え上がる山を背に、邪悪と出会ってしまった。


その名は鬼洞。



「錘が捕縛したヤツの名だね」



炎に因る万物の浄化を信条とする彼らに拾われ、育てられ、奉られ。



そして殺された。



皮を剥がれ。肉を削がれ。骨を抜かれ。

髪を断たれ。目を抉られ。血を啜られ。


一心不乱の祈りと狂気に魂が犯されきった。


焔となって振るわれ続ける日々。

灼けて灰となっていく人々。

もうやめてくれと何度願ったことか。

その願いすら焔と成って、大地を海を空を灼いていく。


世界の全てが炎一色に染まる寸前、妾は水に縛られた。



「その水使いこそがお主らの祖先じゃ」



永劫続くかに思えた苦しみが消え、轟音の如き祈りの狂気が消えて。

魂だけの存在と成った妾は幾許かの記憶と理性を取り戻し、緩やかな消滅を待つのみとなったが……。



最悪な幸運に見舞われることと成った。



「妾の魂を浄化するために赴いた者が、妾の想い人に瓜二つだったのじゃ」



容姿だけではない。

その魂も、その色も、何もかもが同じで――。



そしてあの日の続きがおこった。



まるで一緒だった。


吹き上がる炎に怯まず、怖気ず、妾を止めようとしてくれた。

だが叶わず。灰にはならずとも、今度はその血に焼き付いた。


血に焼き付いた呪いは生まれ出る子に宿り、

幾度となく目覚め、力に翻弄され、その度に燃え尽きるようになった。



「……これが、お主らにのみ九尾憑きが発生する原因じゃ」



千年による呪いの原因を紐解かれ、静かに聞き入ることしかできない。

たったひとりを除いて――。



「お前が覚醒した後、忌み子当人の意識は、自我はどうなってたんだ?」



「既に無い。覚醒した段階で全て燃え尽きる」



少しの安堵が駆け巡る。

祖母が放った刃は鏡花を、友を殺さずに済んでいたのだ。


だが、安堵は既に疑問へと変わっていた。


湛える水は炎のように立ち昇り、溢れた霊力は膨張し店内を軋ませる。

その色に淡さは既に無く、深藍を超えて尚も深く淀みを増していく。


確信は無い、無くとも、その可能性を考えるだけで霊力が煮えくり返る。



「心して答えな。

――壱之酉いちのとり 鏡花きょうかという名に覚えは有るか」



「……有るとも。

妾が自我を燃やし尽くして殺した、少女の名前だ」



藍の問に灰火が答えた瞬間、ビルの一角が吹き飛んだ。


九尾憑きの忌み子について概ね御使笠が認識していたのは下記の二点。

幾重にも分かたれた呪いがその都度芽吹き、九尾の力を降ろした状態になること。

突然の力に制御が効かず、当事者の意思とは関係なく焔を振りまく。


だが、その認識は誤りだった。

九尾の覚醒とは力の覚醒ではなく灰火自身が覚醒するということ。


そしてその瞬間に忌み子の自我は燃やし尽くされる。

なればそれは。



この九尾が直接手を下して殺したも同然。



薄れていた。

遥か昔のことならば、それは過ぎ去ったことだと。

例え元凶が居たとしても過去に戻ることはできないのだからと。


掠れていた。

失ったものの残響を消そうと、思い出す度に消していたから。

二度と戻ることのできない陽だまりに帰ろうと思い出を掻き毟っていたから。


今、目の前に、友の仇が居る。



薄れていた殺気に色が戻り、掠れていた激情に火が灯る。



粉塵と瓦礫が舞う中、明確な闘争の意志と夥しい殺気が放たれる。

それを嗅ぎつけてか、本殿にて休息していた銀撫貌狼が遠吠えを上げた。



「――駆けろ、銀終ぎんつい



掲げられた藍の手に前触れ無く現れる銀撫貌狼。

即座に抜刀しこちらを見据える九尾の首筋に刃を添えた。



「五角 葵。

九尾に覚醒した壱之酉 鏡花を討って、その責を問われて死んだあたしの祖母の名だ。


お前は一族の、二人の仇だ。

お前が……お前さえ居なければッ!!お前が居たから二人は死んだッ!!!」



「弁明の余地もない……。

また止められなかったと、目の前に横たわる炭の塊を見て慟哭していた。


……そうか、その後やってきたのは其方の祖母であったか。

家族も友も、妾が奪ったのだな……」



使命感も、花を救うという意思も消えて、激情のままに恨みを晴らしたい。

今すぐに殺してやりたい、少しも待てない。

あと少し力を込めれば片がつく。

時間にして一秒にも満たない。



何故か、それだけのことが出来なかった。



神狼を呼びつけるまでに膨れ上がった殺気が引いていく。


涙も流さず、心の穴も無く、ただ、嗚呼、辞めておこうと。

脱力すら出来ず、かと言って刀を手放すこともせず、灰火の目を真っ直ぐに見つめる。



『やりてぇようにやりな!


ただし!後悔だけはすんなよ?

得るものより失うものの方が大きいことだって有るんだからな』



豪快で粗暴で、優しくて美しかった。

こんな人に成りたいんだった。



「――決してたがうな。

ここにあるのがお前の魂のみであったなら、我が刃は止まらなかった。


陣、用事が済みしだい御使笠本殿へと参れ。

御霊外しの儀を執り行う。

その後の此奴の魂は好きにするが良い」



淡さの消えた藍色、その迫力に黙って頷くことしか出来なかった。


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