5 凱旋
■元暦二年(一一八五年)三月二十八日
源氏軍が大勝利を収めた壇ノ浦合戦から四日目の今日、合戦の結果を伝える飛脚が京と鎌倉に向かった。両軍合わせて千艘を超える大海戦だった為、平家側の死者や生け捕られた者の確認に手間取り、飛脚の出立が今日に延びたようだ。
生け捕られた者の中には、平家の総大将平宗盛殿、子息の清宗殿、安徳天皇の生母である建礼門院殿、清盛殿の義弟である平時忠殿などの貴人方も含まれている。残念な事に、三種神器の一つである宝剣が未だ行方知れない。平時子殿(平清盛の正室)が宝剣を抱えて入水した為、海中に没してしまった。今も範頼殿の配下の者が必死に海の中を探しているが、流れが早くて難儀しているようだ。
一つ、余りにも悲しくて心が痛む出来事があった。幼い安徳天皇を抱いて入水した按察使局という女官が、結局死にきれずに生け捕られてしまったのだ。幼い天皇は海中に没したまま、帰らぬ人となり、自分だけ生き残ってしまった。ともに死ねなかった事への後悔の念で、今も心が張り裂けんばかりに苦しんでいよう。想像を絶する苦悩を抱えながら、今後どのような人生を歩むのか、他人事ながら案じられてならない。
平家側の多くの兵士が陸に上がって逃げたとの情報があり、捜索部隊が昨日から周りの陸地を探し始めている。
戦いの直後、死人のように生気を無くしていた義経殿は、一見すると元の状態に戻ったように見える。今も向こうで、郎党方に指示を出しながら談笑している。あの時、俺が見た義経殿の死人のような表情は、見誤りだったのだろうか。
■元暦二年(一一八五年)四月十五日
壇ノ浦の戦いから既に二十日ほどが経った。俺は今も義経殿の傍にいながら、戦いの後始末を手伝っている。その間の様子は、俺なりに二通の書状に纏め、大江広元殿に送ってある。海底に没した宝剣は、大勢で探しているにも関わらず、未だ見つからない。陸に逃れた平家側の残党は、範頼殿の部隊の努力により、かなりの人数が討ち取られたり捕縛された。
今朝から俺は、祐筆の中原殿を手伝いながら、大量の書き物を整理している。これらは全て、戦いの経緯を鎌倉に報告するために、中原殿が合戦の最中に書き留めたものだという。そのあまりにも詳細な記載内容を見た俺は、改めて中原殿の祐筆としての実力の高さに驚嘆させられた。書類書きに自信のあった俺だが、やはり物書きを業とする方にはかなわない。
突然、向こうの方から義経殿の怒鳴り声が聞こえてきた。今、義経殿は重鎮の方々と軍議を開いているはずだが、その場で何かあったのだろうか? 中原殿と目が合い、互いに苦笑いをしていると、三郎殿が軍議の場から出てきた。苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべながら、我々のもとに近づいてくる。
「いや、参った! 参った!
最近の御曹司には困ったものだ。理屈の通らぬ事ばかり言われる。
急に人が変わったようで、付き合っておれぬ!」
我々が不可解な顔をすると、三郎殿は興奮さめやらぬ表情で続けた。
「先ほどから、御曹司が
『二つの神器と生け捕った捕虜を連れて、先に京に戻る!』
と言い張っているのだ。
それを、範頼殿配下の武将らが、頼朝様の指示がくるまで、もう暫く待つように
進言しているのだが、
『最大功労者の俺が捕虜を連れて凱旋することに、何の問題があろうか!』
と言って、せっかくの忠告に耳を貸そうとしない。
御曹司も、もう少し周りへの気配りが有れば良いのだが。」
俺はすかさず応じた。
「そういう時こそ、三郎殿や佐藤殿がご意見されるべきでは。」
三郎殿は溜息交じりに応える。
「俺たちも進言したのだが、全くとりあってもらえぬ。
以前の御曹司なら、我々の意見を喜んで聞いてくれたものだが。」
俺も、進言した武将や三郎殿の言い分の方が理に適っていると思うが、新参者の俺が口を挟めるはずもない。結局、義経殿は主張を押し切ったようで、義経殿の部隊が、三種神器と捕虜を連れて京に凱旋することになった。
貧乏くじを引いたのは、この場に残る範頼殿に付き従った御家人衆とその郎党方である。昨年の夏からこの地に遠征しているが、苦労の割には目立った戦果をあげることが出来なかった。気が付けば、義経殿に美味い汁を全部吸い取られ、挙句の果てに戦いの後始末や宝剣探しをやらされる。範頼殿の軍師として、この地で頑張ってきた侍所別当の和田義盛殿は、今どんなお気持ちであろうか。
明日、義経殿の主力部隊が三種神器と捕虜を連れて、帰洛することになった。更に義経殿は、三種神器を擁して一足先に京に戻るという。平家討伐を成し遂げた今、次にやるべき事は、朝廷に早く三種神器を御返しする事と、本能的に理解しておられるようだ。義経殿が朝廷側を案じるあまりの決断であり、そこに下心など微塵も感じられない。しかし、俺には何かが心に引っ掛かる。
半年前から遠く離れたこの地で、苦労してきた別当の義盛殿を初めとする多くの御家人方は、義経殿の今回の動きを快くは思っていないであろう。純粋な義経殿に邪心の無いことを十分に分かっていても、苦労してきた御家人衆にすれば、文句の一つや二つも言いたくなるに違いない。
それにしても、義経殿とは強引が過ぎる御方のようだ。今回の勝利の立役者は間違いなく義経殿であり、義経殿こそが京に凱旋するに相応しいお方であろう。しかし、もう少し周りを気遣う気持ちが有っても良さそうだ。このままでは、面倒な事になりそうな気がしてならない。義経殿をお諌めする方はいないのか。
■元暦二年(一一八五年)四月二十六日
今日、捕虜を連行した部隊とともに、俺は京に入った。一足先に京に戻られた義経殿と行動を共にしたかったが、義経殿郎党の伊勢三郎殿が捕虜の警護を手伝えと執拗に言うので、仕方なく三郎殿らの部隊に加わる事にした。捕虜の警護部隊は、前方を土肥實平殿の隊、後方を伊勢三郎殿の隊からなり、俺は三郎殿の隊の最後尾に付き従った。
連行してきた敵の大将平宗盛殿とその子清宗殿、平時忠殿ほかの捕虜は、罪人らしく白い浄衣を着せられている。捕虜は暫らくの間、六条にある義経殿の館に留め置かれるらしい。
洛中に入って驚いた。さっきまでぬかるんでいた路の表面が石で覆われているのだ。
お陰で俺の馬も歩きやすそうだ。京の都には石畳の路があると、噂で聞いてはいたが本当だった。
源氏軍の凱旋を聞きつけた民衆が、落ちぶれた平家の生き残りを一目見ようと集まっている。京の中心に近付くに連れ、その数はどんどん増えて、路の両側に人垣が出来るまでになってきた。人々は捕虜を指さしながら、大声で罵ったり笑ったりしている。彼らにとっては、落ちぶれた平家の生き残り連中など、もはや見世物でしかないらしい。
それにしても、京の街は人が多い。特に京の中心地は、人で溢れかえっている。初めて鎌倉の街に入った時、町屋の数や人の多さに圧倒されたものだが、人の数も街の大きさも、鎌倉など京の足元にも及ばない。
帰洛の途中で我々と別れた義経殿は、一昨日のうちに京に入り、神器を無事に朝廷にお返ししたようだ。三種神器の鏡、勾玉を京に持ち込むに当たっては、搬入日や方法などを朝廷側にしっかり確認し、細かい指示を受けたらしい。義経殿の朝廷への心配りは、卒が無く驚くばかりだが、この配慮が御家人の方々にも向けられれば良いのだが。
もう一つ、京に戻る途中で気になる出来事が有った。鎌倉からの飛脚に出会ったのだ。その飛脚が持っていた書状には、『義経殿に捕虜を連れて凱旋するように』との指示が記載されていた。
鎌倉の頼朝様は、義経殿からの戦勝の報せに、感無量で一言も発せられなかったらしい。翌日には早速軍議を開いて、名誉ある凱旋役を義経殿に決め、その日のうちに、書状を飛脚に持たせたとのこと。頼朝様としては、最大功労者の義経殿に早く朗報を伝えたかったようだ。しかし、その思いは義経殿には届かず、頼朝様の書状が届く前に西国を出立してしまった。
頼朝様は、義経殿が飛脚到着の前に勝手に行動するとは、思いもしなかったに違いない。先日の言い争いで武将や周りの者らが進言したように、義経殿はもう二~三日、頼朝様からの朗報を待つべきであった。
捕虜の護衛部隊は順調に進んでいる。石畳をたたく馬のひづめの音に心地良さを感じながら、俺は更に義経殿のことを考え続けた。
義経殿は合戦の度に、味方を勝利に導いてきた。去年は木曽義仲殿を京で打ち負かし、一ノ谷合戦では、急な崖を馬で駆け下る奇策で、源氏軍に勝利を呼び込んだ。二ヶ月ほど前には、屋島合戦で平家軍を四国から追い払い、今また壇ノ浦で源氏軍に大勝利をもたらした。最近では義経殿を常勝将軍と呼ぶ者までいるくらいだ。これだけ続けて勝利する源義経とは、一体何者なのか? 何が義経殿をこれほどの大将軍にさせているのか?
義経殿は、何をすれば敵に勝つかを瞬時に判断する力、いわば鋭い勘とでもいうものを、本能的に持っているのではないだろうか。勝利への最善かつ最短の筋書きを、本能的な勘の鋭さで作り上げるのではないか。出来上がった筋書きのもと、その実現に向けて決して妥協せず、楽しみながら邁進する。難しい戦いであればあるほど、本能が義経殿を歓喜させ、勝利に向けて奔走させる。周りに強引で身勝手と映ろうとも、納得できない事には絶対に妥協しない。義経殿とはそういう純粋無垢な御方なのだろう。
だとすると、希代の常勝将軍義経殿が力を発揮する場を失った時、義経殿の本能的な鋭い勘はどうなるのであろうか。義経殿の心はどう反応するのであろうか。
義経殿は自身の手で、長年の宿敵、平家を討ち滅ぼした。今後は、義経殿の本能を狂喜させるような大戦は期待できそうにない。これまでの尽力が、今後の義経殿自身の活躍の場を奪い去ろうとしている。
俺には、これからの義経殿が気がかりでならない。
六条の義経殿の館までは、未だ六~七町(約七百~八百メートル)はありそうだ。護衛部隊の最後尾にいる為に緊張感が薄れ、ついつい義経殿の事を考えてしまう。
義経殿は先日、生気が感じられず、まるで死人のような顔をしていた事があった。あの時の顔は、今でも時々脳裏に浮かんでくる。
本来の義経殿は、気迫の塊のようなお方だ。以前、鎌倉でお見かけした際、義経殿の気迫が距離を隔てた俺にまで伝わってきたものだ。何が生気を奪ったのであろうか。周りの郎党方は、義経殿の様子を変だとは思わないのだろうか。
護衛部隊は六条室町の義経殿の館に無事到着した。先ほど伊勢三郎殿が言っていたが、この館に十日ほど留まった後、捕虜の平宗盛父子らを連れて鎌倉に下るらしい。
たかだか一ヶ月しか鎌倉を離れていなかったのに、三郎殿の話を聞いて、急に鎌倉が恋しくなった。二~三日、この館で身体を休めた後、皆より一足先に鎌倉に戻ろう。これまでの出来事を、広元殿に直接お話する必要も有ろうから。
■元暦二年(一一八五年)四月二十八日
義経殿の館に到着して三日目、郎党方を慰労する酒宴が催されることになり、俺も参加することにした。酒宴の場に出向いてみると、既に郎党方が義経殿を囲んで楽しそうに騒いでいる。各々の前には、魚や肉、酒の入った銚子などが載った盆が置かれている。
突然、三郎殿の声がした。
「重長、俺の隣に来い!」
三郎殿は新参者の俺に気を遣ってくれたようだ。俺は喜んで、三郎殿の隣に座り、皆の話に加わった。平家に大勝利した直後でもあり、郎党方は心底から酒宴を楽しんでいるようだ。皆の笑い声がいつもより一段と大きい。
ふと周りを見渡した俺は、この場に似つかわしくない違和感を覚えた。車座の一角に沈鬱な雰囲気が漂っている。義経殿だ。義経殿一人だけが、この場の騒ぎから取り残されている。顔に作り笑いを浮かべ、皆の馬鹿騒ぎに加わろうと必死にもがいているが、なかなか入り込めない。その顔には生気が今ひとつ感じられず、不安な表情さえ浮かべている。気迫の塊だった以前の義経殿は、どこに行ってしまったのか。
若い女が三人ほど、先ほどから皆に酌をして回っている。その中の一人、凛とした顔立ちの色白の女は、京で一番の白拍子との事。名は静といい、畿内近国で知らない者はいないらしい。芯の強そうな、正に美麗という顔立ちをしている。身のこなしにも品があり、話す言葉も優しい。鎌倉では見たことの無い素晴らしい女だ。
静に見とれている俺が気になったのであろう。隣に座っている伊勢三郎殿が俺にささやいた。
「あの女は義経殿の愛妾だ。手を出すなよ。」
俺の手に届く女で無い事くらい、十分に承知している。だが、その女が知っている男の物と知った途端、心の隅に落胆と嫉妬が渦巻くのを禁じ得なかった。同時に、数年前に故郷で見かけた娘の顔が浮かんできた。故郷の山野で大猪狩りをした時、隣村で偶然出会った娘だ。その後も会いたくて何度か隣村に入り込んでみたが、二度と会うことは出来なかった。どこかの高貴な武士に嫁ぐらしいとの噂を聞いたが、今頃は他人の妻にでもなっているのだろうか。
あの時の娘と目の前にいる静とは、顔の造りは全く異なるが、共通した品の良さを持っている。静の品の良さが、俺に昔出会った娘を思い出させたようだ。
気が付くと、義経殿は酒宴の場から姿を消していた。正室のいる別邸に行ったようだ。こんな良い女を放って、他の女のもとに行く義経殿に再び腹が立ち、静が哀れに思えてきた。義経殿の正室とは、そんなに良い女なのか。こんな素晴らしい静を放って、他の女のもとに行くとは、義経殿は全く男冥利に尽きる。しかし、それも良かろう。正室と一夜を共にすることで、義経殿に少しでも生気が戻るなら。
酔いが回った為か、俺も急に女が欲しくなった。後で近場の遊女屋にでも行ってみようか。
ところで、隣の伊勢三郎殿は郎党の中でも古株とのこと。昔から義経殿を知っているなら、もしかして義経殿に対する俺の心配に答えてくれるかも知れない。俺は思い切って三郎殿に切り出してみた。
「最近、義経殿は変わったとは思いませぬか?
何となく生気を無くしたような。」
三郎殿は多少驚いた様子で俺を見ながら、ささやいた。
「実は、同じ事を俺も感じていた。
先日の壇ノ浦合戦以後、御曹司はまるで別人のような変わりようだ。
特に、こんなに生気を無くした義経殿を、俺はこれまで見たことが無い。
生きる目標を失った所為かも知れぬな。」
三郎殿の言葉に、俺は愕然とした。『生きる目標を失った』という的を射た言葉に合点がいき、頭の中の霧が一気に晴れ渡った。
そうだ。義経殿は生きる目標を見失ったのだ。
これまでの義経殿の人生は全て、平家討滅の為だけにあった。戦いの場で、味方の御家人らに身勝手と非難されても、決して自分流を曲げず、躊躇せずに御家人らを罵倒した。それらは全て、平家討伐という壮大な目標が有ったからだ。
ところが、平家を滅ぼした今、義経殿は次の目標を見つけられず、生きる原動力を無くしたのだ。生きる目標を失った義経殿の身体から、自身も知らぬ間に生気が抜け落ち、義経殿の顔を時々死人のように見せているに違いない。
義経殿は純粋で無垢な御方だ。目標の無い人生を、適当に渡り歩いて楽しむなど、到底無理な相談なのだろう。義経殿の本能が、常に義経殿に壮大な目標を要求する。義経殿の本能が義経殿自身に、生真面目過ぎるほどの実直さを強いる。納得できる新たな目標が見つからない限り、義経殿の沈鬱な状態は今後も続くに違いない。
しかし、『平家討伐』ほどに義経殿を本気にさせる目標など、今後現れるのだろうか。早く鎌倉に戻り、広元殿に義経殿の様子を話して、意見を頂く方が良さそうだ。明日にでも京を発とう。