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ぬすっと 時代を創る  作者: 宮本夢生
4/16

4 壇ノ浦合戦

 ■元暦二年(一一八五年)三月二十二日

 (うま)の刻(昼十二時ころ)、俺は義経殿がおられるという周防(すおう)の大島(現在の山口県大島郡周防大島町)に着いた。早馬や船を使いながら、鎌倉から十日ほど掛けてやってきた。噂によると、雨のため平家軍への攻撃は数日延期になったらしい。俺は運が良い。大事な戦いを見逃さないで済んだようだ。

 大島に着いて直ぐに、様子を把握するために小高い丘に登ってみた。そして眼下に広がる光景に愕然とした。霧雨で霞む海上に数え切れない程の船が停泊していたのだ。八百隻を超える戦船が源氏側に味方したとの噂は本当だった。

 二町ほど(二百メートル強)先に桟橋が確認でき、二十艘ほどの船が船尾をこちらに向けて泊まっているのが見える。ほとんどは、沖の戦船に荷物を運ぶための艀船(はしけぶね)らしく、大勢の人夫が荷物を肩に担いで船に運び込んでいる。桟橋の右端に泊まっている五(そう)は戦船のようだ。何人もの兵士が船上を動き回っている。一際大きい戦船が一艘見え、周りの警備が他と違って物々しい。先ほどから軍師や大将らしい武士が何人も乗り込んでいくのが確認できた。

 義経殿はあの戦船に乗っておられるに違いない。ただし今は軍議に忙しく、俺などが出向いても簡単に会ってはもらえないであろう。義経殿にお会いするのは、夜の方が良いかも知れない。その方が無駄に人目にも付くまい。


 それにしても、義経殿の戦いに向けた、諜報活動や交渉力の凄まじさには驚かされる。ひと月前の屋島合戦の際には、たった一ヶ月の間に、伊予国の河野水軍や紀伊国の熊野水軍などを、平家側より先に味方に引き込んだと聞いた。また、この大島に来る途中で仕入れた話だが、摂津国の渡辺水軍をも取り込んでしまったようだ。昨日は、この周防国の船奉行が数十艘の戦船を提供したという。既に、戦船の数では平家軍を上回る八百艘以上になっている。また、これは全くの噂であるが、敵大将の一人、山鹿秀遠(やまがひでとお)を寝返させるために、水面下での交渉が今も続いているらしい。もし、この交渉が成立すると、平家側の戦船三百艘が源氏側に味方することになり、源氏軍の勝利は確実なものになろう。

 更に、義経殿の義兄、範頼殿率いる鎌倉の主力軍が、海戦が行われるであろう壇ノ浦の両岸に陣取って、平家軍に遠矢(とおや)を射掛けるとの噂もある。平家軍はもはや袋の鼠同然であり、決死の覚悟で戦いを挑んでこよう。

 それにしても、これだけの布陣をたった一ヶ月でやり遂げる義経殿とは、やはり世の人々が絶賛するように『戦いの天才』なのであろうか。

 とりあえず夜が来るまで、先ほど見かけた小屋で休むとしよう。


 既に(とり)の刻(午後七時ころ)をとうに過ぎ、辺りは夕闇にすっかり包まれている。昼間の霧雨は既に止み、空の所々に星が見える。この分だと天気は大丈夫そうだ。平家との海戦は数日のうちに行われるに違いない。

 桟橋の見える丘の上に出てみると、昼間と同様に泊まっている戦船が、暗闇の中にうっすらと確認できる。桟橋の所々に警備用の篝火(かがりび)が焚かれ、その周りに兵士が五~六名ずつ(たむろ)している。

 広元殿に預かった書状を義経殿に渡すため、俺は桟橋に向かって丘を下り始めた。桟橋に近づくに連れ、周囲が思いの外静寂である事に気づき、一瞬たじろいだ。辺りは昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。船底を叩く波の音だけが、時々風に乗って聞こえてくる。周囲に気を配りながら、更に丘を下った。

 桟橋に下りてみると、そこは思った以上に明るかった。義経殿がいると思われる大型戦船は、昼間と同じく右端の方に確認できる。俺はその船にまっすぐ近づいていった。

 突然、警備兵十人ほどが駆け寄ってきて、あっという間に取り囲んだ。各々が槍を構え、(にら)んでいる。その中の一人が怒鳴った。

「何者だ! 何をしに来たか!」

 俺は自分の素性を述べ、鎌倉から義経殿宛の書状を預かってきたことを伝えると、怒鳴った兵士は、その場で待つように言い残し、船の中に消えた。


 暫くして、暗がりの船上から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「重長、待っていたぞ。早く上がって来い。」

 その声の主を思い出すのに、時間は要らなかった。義経殿の片腕といわれる伊勢三郎殿だ。義経殿は鎌倉におられた頃、何度か侍所にも来られた事がある。その際、三郎殿がいつも付き従っていた。三郎殿は侍所に来る度に、俺に義経殿の郎党になれと誘うので、断るのに苦労したものだった。義経殿の郎党には興味が沸いたが、俺を侍所に雇ってくれた別当義盛殿に恩義がある。到底受けられない魅力的な誘いだった。


 船上の屋形に入ると、義経殿の郎党らが十人近く、車座になって談笑していた。伊勢三郎殿を初め、義経殿郎党の四天王と言われる佐藤忠信殿、他と風体の違う弁慶殿もいる。一人知らない方がおられるが、最近義経殿の祐筆(ゆうひつ)になったという中原信康殿であろうか。平家との大戦の前だというのに、皆は楽しげに笑いながら話している。一番奥におられる義経殿も、皆の話を聞きながら、笑みを浮かべている。俺はみんなに挨拶するとともに、広元殿からの大事な書状を義経殿に渡した。


 広元殿の飛脚が一足先に着いたのであろう。皆は俺が来ることを知っていた。鎌倉の最近の様子を聞きたくて、首を長くして待っていたようだ。思えば、義経殿や郎党方は、一年前の出陣以来、鎌倉に一度も戻っていないのだ。鎌倉の急変ぶりが気になるのも、至極当然であろう。みんなから、街中の様子などを矢継ぎ早に聞かれ、俺はその一つ一つに、知っている限りを丁寧に答えた。

 それにしても、この場は何と不思議な光景であろうか。義経殿といえば、昨年九月に五位に叙せられて殿上人(てんじょうびと)となったお方だ。その高貴なお方を取り囲んで、粗野な連中が無粋な話をする。それを聞きながら、笑いこそすれ決して怒らない義経殿とは、俺が思っていた以上に肝の据わったお方のようだ。郎党たちの馬鹿話に付き合う一方で、朝廷の後白河様やその取り巻き連中とも、卒なく付き合うとの噂だ。義経というお方は、一体何者なのだ。以前、郎党の伊勢三郎殿から、『義経殿は子供の頃に非常に苦労された方』と聞いたことがある。それが、今の義経殿を造り上げたというのか。本当にそれだけなのか。義経殿への興味が心の中でくすぶり始めるのを、俺は皆の笑い声を聞きながら、心地よく感じた。


 広元殿の書状に目を通していた義経殿は、郎党らの俺への質問が一段落したのを見届けて、郎党らに座を外すように命じられた。皆が屋形の外に出たのを確認した俺は、書状の内容が気になり、義経殿に聞いてみた。

「広元殿は何と言われているのでしょうか?」

義経殿が笑みを浮かべながら応えた。

「お前は役に立つ男らしい。

 困った時は、お前を通じて、広元殿に何でも相談して欲しいと書いてある。」

役に立つ男と言われても、今のところ自信は無い。かしこまっている俺に義経殿が命じた。

「数日のうちに、平家軍との最終決戦を行う。それを見届けよ。

 今日から、この船に寝泊まりするが良い。」


 ■元暦二年(一一八五年)三月二十三日

 義経殿の許しを得て、俺は昨夜この船に泊まった。昨日とは打って変わって、朝から天気がいい。空は青く晴れ渡り、陽の光で海がまぶしいほどに輝いている。風も無く穏やかな朝だ。船頭に聞くと、暫くすれば風も出てくるとのこと。義経殿が戦いの場と決めた壇ノ浦は、まだ二十里以上も離れているらしいが、この調子だと夕方までには、十分に近くの海域に着けそうだ。


 (たつ)の刻(午前八時ころ)に、大島津の西端に停泊している戦船百艘ほどが動きだした。

 ついに始まったか。百艘を先導しているのは三浦義澄(みうらよしずみ)殿であろうか。

 三浦殿といえば、頼朝様が平家追討の旗揚げをされた時から、そばに仕えている重鎮だと聞いたことがある。義経殿の義兄、源範頼殿の軍に加わり、半年ほど前からこの周防や長門の地に出陣している。そのため、戦場となる壇ノ浦海域に詳しいらしい。お陰で義経殿から、源氏水軍の先導という栄誉ある役を仰せつかったとのこと。

 元々は、義経殿の義兄範頼殿とともに豊後に渡り、戦功を上げたかったらしいが、範頼殿から周防の地に留まって、平家の動きを封じるようにとの裏方仕事を命じられ、相当に落胆していたようだ。ところが突然、義経殿から誉れ高い役割をいただいた。今頃、船上で張り切って采配されているに違いない。人の世とは、何が幸いするか分からないものだ。


 俺が乗っている戦船も、ようやく動きだした。義澄殿率いる百艘が動き始めて、既に半刻は過ぎているであろう。

 やっと、八百艘の戦船が全て動き出した。その光景は、正に圧巻と言うに相応しい。義経殿は、船の舳先(へさき)で味方の群船の動きを見ておられる。

 海は穏やかで、手頃な風も吹いている。この分だと、夕方には間違いなく、壇ノ浦海域に着けそうだ。平家軍との最後の戦いは明日になるだろう。明日は、両軍合わせて千艘を超える戦船がぶつかり合うことになる。これまで、そんな凄い海戦が有っただろうか。平家側の水軍は船の扱いが上手いと聞く。源氏側は河野水軍や熊野水軍、渡辺水軍などが加わり、戦船の数では平家側に勝っているが、あくまでも急ごしらえの寄せ集め水軍だ。海上では、伝令もままならないであろう。いかに義経殿でも、全軍を統率するのは至難の業に違いない。

 敵を寝返らせる計略が水面下で行われているらしいが、その後どうなったのであろうか。義経殿は、やるべき事を全てやり終えたのであろうか。この場に至っては、天命を待つしかないのか。


 俺が乗った船は、順調に西に向かって進んでいる。周りの軍船も特に問題は無さそうだ。八百艘の戦船の最後部は遥か後方にあり、確認出来ない。こんな光景は二度とお目にかかれまい。

 そろそろ(うま)の刻(十二時ころ)であろう。相変わらず空は晴れ渡り、日差しが頭上から降り注いでいる。お陰で、海風に吹かれても暖かい。心地良い風が頬をかすめる。船べりを叩く波の音が頭を空っぽにしていく。明日の海戦さえ無ければ、この気持ち良い船旅をもっと楽しめるのだが。


 ■元暦二年(一一八五年)三月二十四日

 味方の戦船八百余艘は、昨夕に戦場となる壇ノ浦の目と鼻の先に到着し、一夜を明かした。昨日と同様、早朝から天気がいい。この分だと、敵の物見も苦労せずに、我々の動きを把握していよう。今日の海戦は間違いなく行われる。


 考えてみれば、俺が広元殿に仰せつかった使命は、義経殿と広元殿の間を(つな)ぐことで、戦いに加わることでは無かったはず。しかし、良いではないか。ここまで来たら成り行きに任せるとしようか。

 不思議なことに、先ほどから武者震いが止まらない。戦いに加われると知った俺の身体が、勝手に浮き立っている。思えば、これまで運が無く、大事な合戦に加わる機会が無かった。いつも鎌倉にいて、御家人衆の手配ばかりさせられてきた。今日こそは、敵の大将を射殺して手柄を上げたい。俺の弓で二~三十人射殺して名を上げ、故郷に錦を飾りたい。成り行きとはいえ、この好機を逃す手はあるまい。この大戦を目の前にして手をこまねいていたら、一生後悔するに違いない。鎌倉の広元殿には、義経殿をお護りするために戦いに加わったとでも言い訳すれば良かろう。

 俺は戦いに備え、武具を身に付けた。弓に新しい弦を張り、矢筒の矢を一本々確認した。太刀も腰刀(こしがたな)も切れ味は悪くない。特に腰刀は、故郷の河越を旅立つ際に親父殿から貰った物で、有名な刀鍛冶の作との事。敵と斬り合いになっても、これさえ有れば勝つ自信はある。最後にもう一度、草履(ぞうり)の紐を締め直した。あとは開戦を待つだけだ。


 義経殿も戦いの準備を終えたようで、今は船首で周りの船に指示を出している。その小柄な後ろ姿からは、か弱ささえ感じられる。あの華奢(きゃしゃ)な身体のどこに常勝将軍が住み着いているというのか。

 義経殿の後ろ姿を見ていた俺の頭に、突然もう一人の俺が叫んだ。

「重長。お前のやるべき事は『あの方』をお護りすることだ!

 功名心にはやって、やるべき事を見失ってはならぬ!

 手柄を立てる機会は、これからも必ず有る。

 あの方を敵に殺させてはならぬ!」

俺は俺に腹が立った。

「馬鹿を言え! こんな好機は二度と無いのだぞ!

 功名心を抱いて、何が悪いか!」

「義経殿を見捨てて得た手柄など、誰も褒めはしない!」


 腹の奥底で怒鳴った性だろうか、不思議と葛藤の渦が薄らぎ、興奮が徐々に収まっていくのが感じられた。頭が少しずつ冷静さを取り戻していく。

「お前の言う通りかも知れぬ。

 この大事を前にして、俺の功名心など無きに等しい。

 義経殿を敵から護ることが、俺に課せられた仕事だ。

 それがまさに広元殿に与えられた使命にも繋がる。

 あの方を敵に殺させてはならない。」

 山から顔を出したばかりの陽の光で、頭にこびりついた葛藤がどんどん溶け失せるのを快く感じながら、生真面目すぎる自分に、笑いがこみ上げてきた。


 の刻(午前十時ころ)、壇ノ浦の狭い海域で、源氏側の八百余艘と平家側の五百艘が、互いに三町(約三百メートル)の距離を隔てて睨み合った。

 突然、平家側の戦船が三手に分かれ、両脇の二手が源氏の船団を包囲し始めた。平家側の動きに呼応して、源氏側の先頭に位置する二百艘ほどが、左右の平家船団に向かって動き出した。それを機に、平家側の真ん中の船団が、全速で源氏側の中心にいる我々の戦船に攻め込んでくる。あっという間にその距離が縮まり、相手兵士の顔が確認できるほどになった。平家側から、もの凄い数の矢が飛んでくる。俺も矢を射ようと、盾の隙間から身を乗り出したが、あまりの矢数の多さに、弓に矢をつがえる事すら出来ない。敵の矢に射られた味方の兵士が二~三人、俺の後方で(うめ)いているが、助けに近寄ることができない。

 平家側は短期決戦を狙っているようだ。船首を見ると、義経殿も同じように敵の矢から身を隠しておられる。義経殿を護るために、俺は近くまで這っていった。


 十五間ほど(三十メートル弱)離れた平家側船の上で、大声で味方を指揮している鎧兜の武将が見える。義経殿が急に、

「あいつを射抜いてみよ。」

 と俺に命じた。

 先ほどから、俺もあの武将が気になり、黙らしたいと思っていたところだ。それに、俺の腕前を義経殿に知ってもらう良い機会でもある。敵の矢に注意しながら、盾の隙間からその武将を狙った。船は多少揺れているが、この程度なら山野で走り回っている獣を狙うよりは易しい。俺は鎧の隙間から見える左太腿を狙って射た。矢は狙い通りに太腿に当たり、その武将はもんどりを打って倒れ込んだ。


 戦いが始まって半刻(一時間)すると、平家側の矢数が減ってきた。そろそろ我々源氏側が反撃する番だ。狭い壇ノ浦に、敵味方の戦船が入り乱れて戦っており、源氏軍の中には平家側の船に乗り移って、太刀を振り回している猛者(もさ)もいる。俺も義経殿のそばにいながら、敵兵に向けて矢を射続けた。向こうに一際目を引く敵の大型唐船(からぶね)が見えるが、(うわさ)ではあの唐船に安徳天皇を初めとする敵の高貴な方々は乘っていないらしい。(おとり)の船らしいから近寄るなとの指示があった。

 周りから矢を射掛けられた平家側の船が、あちこちで逃げ回っているのが見える。近くにいる義経殿は戦況をじっと見つめている。源氏軍の大勝利は間違いなさそうだ。

 開戦から一刻(二時間)ほどして戦いは終わった。今は(うま)の刻(昼の十二時)頃であろう。先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり、波の音が心地よく聞こえている。周りの船では、生け捕りにされた平家側兵士の確認作業が始まっているようだ。

 義経殿は先ほどから座ったまま、身動き一つされない。平家が壊滅した今、緊張の糸が切れて疲れが一気に出たのであろうか。


 先ほどから戦果の報せが次々に入ってくる。義経殿から離れた所では、祐筆の中原信康殿が次々に入る報告を記録している。

 急に周りに歓声がわき上がった。今入った知らせによると、平家側の総大将である平宗盛、その子清宗が生け捕られたとのこと。生け捕ったのは、あの伊勢三郎殿らしい。あの親爺も結構やるものだ。

 他に、幼い安徳天皇の母君、建礼門院(けんれいもんいん)殿も生け捕りになったらしいが、安徳天皇と平清盛殿の正室、時子殿は海に没して帰らぬ人となったようだ。三種の神器(じんぎ)のうち、宝剣だけは海に没して見つからないという。

 その他、敵側の死者、生け捕られた武将など、どんどん報告が入ってくるが、義経殿は座ったまま身動き一つされない。まるで死人のようにじっと座り込んでいる。

 義経殿は一体どうされたというのだ。いつもの義経殿なら、郎党方とともに喜びの輪に入っていられるはず。なぜ身動きせずに座り続けているのか。

 平家を殲滅(せんめつ)することのみを目的に生き抜いてこられた義経殿だ。平家を滅ぼした喜びに浸っておられるのだろうか。いや、そうは見えない。肩を落として全く動かない義経殿は、まるで死人のようであり、その横顔からは一寸の歓びも窺うことが出来ない。


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