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ぬすっと 時代を創る  作者: 宮本夢生
1/16

1 大猪と娘

 獲物を探し求めながら、村はずれの峠までやって来た。この先は(ゆる)やかな下り坂になっており、三十間ほど(約五十メートル)先の小川が隣村との村境になっている。既に秋だというのに、ここ数日の酷暑のせいであろう。今日も朝からめぼしい獣に一匹も出くわさなかった。獣らも木陰に身を潜めて、この暑さをやり過ごしているに違い無い。澄み切った青空の真ん中で、先ほどまで我が物顔のように照り輝いていた太陽も、やっと西に傾き空をあかね色に染め始めている。


 猟を諦めて館に戻ろうとした時、馬の体が突然こわばった。両の前脚を突っ張り、身体全体を石像のように硬直させている。些細な物音さえも聞き漏らすまいとでもするように耳をそば立て、左手の小さな丘を凝視したまま、頭を微動だにしない。この馬がこれほどまでに緊張したのを、俺は今まで見たことが無い。

 丘の上に何かがいるのか。先ほどまで聞こえていた小鳥のさえずりも今はやみ、周囲はまるで時がとまったかのように静まりかえっている。俺は念のために弓に矢をつがえた。

 突然、丘の上の藪がカサカサと音を立て、藪の間から黒い大岩がゴロゴロと音を立てながら、転がり落ちてきた。いや違う! 大岩ではない。大猪だ! 人の背丈ほどの雄猪が牙をむき出し、うめき声を上げながらこっちに向かって突っ走って来る。その距離、わずか十数間(約二十メートル)。もはや馬の(かかと)を返す暇はない。俺は弓を引き絞り、大猪の顔面めがけて矢を射た。射ながら恐怖が頭をよぎる。矢を射る瞬間、驚いた馬が身体を震わせたのだ。矢は大猪の顔面を外れ、右前肢(まえあし)の付け根に食い込んだ。大猪は一瞬ひるんだが、突進を止めようとしない。あの猪に体当たりされたら、馬もろともひっくり返るに違い無い。俺は背中の太刀を引き抜きながら馬から飛び降り、身構えた。そして駆け寄ってくる大猪をにらみつけた。やつは数間(五メートルほど)の距離に迫ると急に止まった。そのまま、奴と俺は息もせずに互いに(にら)み合った。

 でかい! こんなでかい牡猪を今までに見たことがない。身体中に生えた剛毛はまるで鎧兜(よろいかぶと)のようで、でかい牙で俺を威嚇している。奴の両の目は鋭く見開かれ、突き刺すような眼光で俺を睨んでいる。俺は太刀を構えたまま、(まばた)き一つせずに奴を睨み続けた。額に滲んだ汗が粒になり、(したた)り始めるのが分かる。このまま奴と戦って勝てるのか? 脳裏にくすぶり始めた不安を無理やり振り払い、太刀を構えなおした。

 睨み合いながら、どのくらい時が経っただろうか。急に奴の両目から、突き刺すような眼光が消えた。代わりに、諦めとも苦笑いとも付かぬ目をすると、突然横に向きを変えて、緩やかな谷底の小川に向かって駆けだした。その場に残された俺は、太刀を構えたまま身を硬直させ、何が起きたのかをしばらく理解できずにいた。

 奴は逃げたのだ!俺との戦いを諦め、逃げ出したのだ! 奴の向かった方向には村境があり、村境を越えての狩猟は、隣村との(おきて)で禁じられている。奴を小川の手前で仕留めないと手遅れになる。俺は急いで弓をひろい、二の矢を射た。矢は間違いなく右尻を突き刺したが、大猪は足を引きずりながら小川を渡り切ってしまった。

 あいつは、村人たちが最近(うわさ)している化け物猪に違いない。このひと月の間に、四~五人の村人が大猪に襲われ、亡くなった者まで出ている。つい三日前にも、野良仕事をしていた村人が襲われ、大けがをしたばかりだ。これまで何頭もの猪を仕留めてきた俺だが、矢を二本打ち込んでも動き回る猪は初めてだ。あいつに不意に襲われたら、俺でも大けがをするに違いない。

 今も、やつは肢を引きずりながら、向こう岸の坂道を上っている。

 急に奴が振り向いた。俺が追っていないことを知って安心したのだろうか、歩みを緩めた。そして、頂まで上ると、俺をあざ笑うかのように一声うめいた後、木々の陰に消えてしまった。俺はその場に立ち尽くし、奴が消えた林の方向を呆然と見続けるしかなかった。


 大物を逃した事を悔いながら、館に戻ろうとして馬にまたがった時、遠くから女衆のかんだかい悲鳴が聞こえてきた。女衆だけでなく、数人の男の叫び声も混じっている。騒ぎの方向は、今しがた大猪が消えた方角だ。悲鳴の様子から、男女の一団が手負いの大猪から逃れようと騒ぎ回っているらしいのが分かる。

 俺は一瞬ためらった。隣村とは、時々小競(こぜ)り合いが生じており、無断で入り込むことを禁じられているからだ。しかし、あの騒ぎはただ事ではない。俺は馬を()って坂道を下り、小川を渡ると、対岸の坂を一気に駆け上った。そして。悲鳴の方角に向かった。

 手前に武士が一人倒れている。太腿を大猪にかまれたのであろう。大きく裂けた(はかま)を大量の血で染めながら、(うめ)いている。向こうには、矢傷を負った大猪が、今まさに二人目の武士に襲いかかろうとしているところだった。俺は馬から飛び降りながら太刀を引き抜き、大猪めがけて突っ走った。背を向けて逃げようとする男の左足に、奴の鋭い歯が食い込んでいる。

 俺の近寄る気配を感じたのであろう。急に奴が頭をもたげ、こっちを見た。ここまで俺が追ってくるとは思ってもいなかったようだ。奴の目には明らかに驚いた様子がうかがえる。俺は奴が逃げ出さぬことを念じながら走り寄り、奴の頭めがけて渾身(こんしん)の力で太刀を振り下ろした。頭は『グシャ』と鈍い音を立ててザクロのように割れ、脳みそが勢いよく周りに飛び散る。奴の巨体がゆっくり傾き、『ドサッ』と地響きを立てながら、ひっくり返った。四肢をピクピクと痙攣させ、大きく見開いた両目で俺を恨めしそうに見つめている。まるで、悪事を働いた子供が親父に許しを請うような目つきで、見逃してくれと哀願しているようだ。俺は構わずに心の臓辺りを二度ほど太刀で突き刺した。奴の見開かれた両目から徐々に生気が消え、四肢の痙攣が止んだ。


 化け物狩りはやっと終わった。先ほどまで悲鳴を上げていた女衆は、多少平静を取り戻したようで、数人が痛手を負った二人の武士を介抱している。

 一団の中から白髪交じりの小柄の武士が、未だ恐怖の消えぬ顔のまま、近寄ってきた。

「お助けいただき、誠に有難うござった。

 お見かけせぬようじゃが、隣村のお方でごさるか。

 宜しければ、名前をお聞かせ願いたい。」

俺は名を告げ、この大猪を仕留め損なった経緯を話すとともに、それによってけが人が二人も出てしまったことを詫びた。

 村に戻るために馬の方に引き返そうとした時、女衆の中の美しい娘と目が合ってしまった。というより、まるで深い穴に渦を巻いて流れ込む水のように、俺の目がその娘に吸い寄せられたという方が合っている。周りに侍女らしい女が数人いたようだが、もはやその娘しか目に入らない。気が付くと、娘も笑みを浮かべながら俺を見つめている。その顔に浮かんだ優しい笑みを見て、俺の胸は大空に舞い上がる雲雀(ひばり)のように一気に高鳴った。その娘、年の頃は十六~七であろう。周りの者とは明らかに異なる上品な身なりをしており、顔にもこの辺の女衆には見られない品の良さがうかがえる。

 いつまでも立ち去らない俺をいぶかったのであろう。先ほど声をかけた武士が、再び近寄ってきた。

「どうかされましたかな?」

「いや・・・何もござらぬ・・・」

娘への思いを悟られまいとした俺は、しどろもどろになって応えながら、馬のもとに戻った。馬に乗りながら再度娘を見ると、その娘はまだ優しい目で俺を見つめていた。


 隣村で出会った娘のことが頭から離れず、帰ってから館の者達にそれとなく聞いてみると、驚いたことに、皆がその娘のことを知っていた。更に、あの娘は近々高貴な武家に嫁ぐらしい事まで聞かされた。

俺はその後も娘のことが忘れられず、何度か隣村に入り込んでみたが、二度と会うことはできなかった。


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