第十七話 逃走の旅路、化け物との邂逅
今回は三人称視点になります。
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深い深い森の中を、多数の狼人族たちが歩いていた。
その数はおおよそ30人ほどになるだろうか。
年齢層は少数の青年に、後は年若い女子供が大部分で、少しだけ老人も混じっていた。
長い間森の中を彷徨いていた結果か、誰もが薄汚れた格好をしている。顔には例外なく濃い疲労が浮かび、悲愴感さえ感じられる表情だった。
「ヴォルフ、本当にこの先にあるのか?」
狼人族の青年の一人が、皆を先導する狼人族の戦士――ヴォルフに問う。
その問いは道中、幾度も繰り返された問いだ。
ヴォルフとしても確信があるわけではない。それでも否定すれば皆の希望を断ち切ってしまうとわかっていた。だから自身は全く疑いようもない事実を口にするようにして、答える。
「ああ、この先にエルフたちの新たな都市となるアルヴヘイムがあるはずだ」
時おりエルフたちの中から生まれ出でる半神――ハイエルフ。
人族どもが信仰する新神とは違い、遥か古より世界が生み出す本来の神。その力は新神や、今は滅んだ旧神たちには及ばないまでも強大で、エルフのみならず自然の中で生きる全ての種族たちを守護してきたという歴史がある。
そんなハイエルフが守護する都市の事を、アルヴヘイムと呼ぶ。
ヴォルフたち狼人族の一団は今、そのアルヴヘイムを目指していた。
新神によって先代のハイエルフが弑されて数年、新たなるハイエルフが生まれたという情報を得ていたからだ。
建国以来、膨張を続ける神聖イコー教国は人族至上主義を掲げる巨大な軍事国家であり、その武力は周辺諸国を次々と呑み込んでいた。
ヴォルフたち狼人族は獣人国家に属さず、幾つもの氏族が集まり、霊峰フリズスの裾野に広がる樹海を住み処として暮らしていた。
しかし神聖イコー教国の領土拡張に伴い、狼人族たちの暮らす森にも人族の侵攻が開始されたのである。
教国の狙いは霊峰とその樹海が生み出す豊富な資源であり、国家の肥大と共に発展した新技術が、それまで手出しできなかった未開拓領域の開発を可能とした。
それゆえに誰に憚ることもなく樹海の開拓を開始した教国であったが、当然、これに抗議したのが樹海に住まう先住民たる狼人族だ。
彼らは教国が手を出す遥か以前から暮らしていた一族であり、自分達の住み処を勝手に荒らす人族に抗議した。むろん、最悪は戦いも辞さない覚悟であった。
だが、教国の返事は抗議した氏族の虐殺というもの。
神聖イコー教国において人族以外の亜人種は奴隷階級の者どもであり、奴隷風情に交渉など必要ないというのが教国の考えだ。
むしろ不遜にも抗議などという傲慢な行いをした狼人族に対して激怒し、彼らに対する迫害は加熱した。
派遣された膨大な兵力によって森は焼かれ、いくつもの氏族が蹂躙された。
多くの狼人族が殺され、そうでない者は捕らわれて奴隷に落とされた。
教国と狼人族の戦力差は絶望的であり、狼人族は為す術もなく蹂躙された。
そんな状況の中、ヴォルフ率いる狼人族の一氏族――ガル氏族は故郷を捨てて教国の手の及ばない場所へ逃げる事を決意したのだ。
だが、どこへ逃げるかが問題だった。
森の外へ出れば、それはすなわち教国の領土であり、殺されるか奴隷にされる未来しかない。
ならば森を霊峰側――つまり樹海の奥へ進むか、あるいは東西に長く伸びる樹海を西側へ抜ける事で、教国以外の国へ行くしかない。
だが、森を西側へ抜けるには途方もなく長い距離を踏破する必要があった。
かつてガル氏族の戦士団を率いていたヴォルフであっても、季節が一巡りするほどの時間がかかるであろう距離だ。身体能力に優れた狼人族であるとはいえ、女子供に老人の多いこの三十人余りの集団では、とても踏破できるとは思えない。
ならば距離的な負担が少ない樹海の奥へ進むべきか。
それもまた、安易に選択できる案ではなかった。
樹海の奥、霊峰に近づくほどに地に満ちる魔素は濃くなっていく。それはそこに生きる魔物にさえ恩恵を与え、強大な魔物を育む温床となっているのだ。
普通に考えたならば、霊峰のある北へ進むのは単なる自殺行為だ。
樹海を西へ抜けるために長い旅を覚悟した方が、まだ現実的であった。
だがそれでも、ヴォルフは敢えて北へ進む道を選択した。
樹海の奥に新たなハイエルフに守護されたアルヴヘイムが生まれたという話を、狼人族の英雄たるガーランドから聞いていたからである。
何かあればアルヴヘイムを目指せ、と。
その言葉を信じ、教国の狼人族に対する迫害が激化したのをきっかけとして里を捨てる決心をした。
だが、実際に決断に至るまでには教国との交戦があった。
ただの一度であったが、その一度でガル氏族の戦士団はほぼ壊滅の憂き目にあっている。それも一方的な被害であり、教国が手にした力がいかに強大なものか、さすがに認めないわけにはいかなかった。
敗北。
敗残者。
実際、今のヴォルフたちを表すにこれより相応しい言葉はないであろう。
命からがら逃げ出し、新たなる安住の地をどうにか探そうとしている。しかもそれは、情けない事に他者へ助けを求めるというもの。
誇り高い戦士の一族としての矜持は、もはや粉々に打ち砕かれた。
「――止まれ! ブレイドホーンがいる……」
森の中の行進は困難を極めた。
歩きにくい地形に下生えによって見通しも悪い場所も多く、おまけに触れるだけで肌が腫れ上がるような毒を持った植物もざらだ。
元々森で暮らす民であったから、それらの事には如何様にも対処できた。しかし、霊峰に近づくにつれて遭遇する魔物たちは多くなり、その強さも高くなっていく。
これらの魔物を時には倒し、時には逃げ、時には身を潜めてやり過ごす。
だがここ最近では倒せない魔物が多く出現するようになり、肉体よりも精神的消耗が看過できないものとなっていた。
鋭い角で巨木さえ斬り倒す鹿の魔物――ブレイドホーン。
老木に化け近づいた獲物を鋭い根で貫き、あるいは捕らえ、時には精神魔法で虜にするエルダートレント。
樹上に巣を作り、頭上からの奇襲で音もなく命を奪う大蜘蛛――サイレントスパイダー。
丈夫な皮膚と強靭な肉体を持ち、圧倒的な力で全てを薙ぎ払うレッドオーガ。
戦えば死を覚悟するような強大な魔物は、いくらでもいる。
それらをどうにかやり過ごしながらヴォルフたちは進んでいった。
そして――、
「ギャッギャッ!」
「またゴブリンだ」
「ということは……近いぞ」
現れたゴブリンを一撃で葬りながら、ヴォルフは呟く。
こんな樹海の奥にゴブリンのような弱い魔物が、頻繁に遭遇するほど何体も生息しているということは、この辺りに強い魔物が生息していないことを意味する。
ゴブリンや角ウサギは比較的どこにでも生息している魔物だが、さすがにこうも頻繁に出会うという事は巣が近くになければ説明がつかない。
そしてゴブリンが巣を作れる環境というのは、近くに天敵となり得る強大な魔物がいない場所がある――という事を意味した。
それは――、
「ハイエルフ様の結界が近くにある……」
いくら強大な魔物とはいえ、ブレイドホーンやレッドオーガ程度が半神の位階にあるハイエルフの気配を感じて、それを襲う事などない。むしろ近づく事さえしないだろう。
ゆえに、この近くにハイエルフの結界が張られている、もしくはハイエルフ自身が近くにいる、という可能性があった。
「もうすぐだ……!」
「おお……! ようやく……!」
狼人族の誰かが呟き、それに触発されたようにそこかしこから安堵の声があがり始める。
一月も気を張りつめて、ようやく安全な場所を前にしたのだ。それは無理のない反応であったと言えよう。
だが――それが悪かったのだろうか。
結界が近いとはいえ、その外縁近くであるならば、まだまだ強大な魔物も多数存在する。いや、むしろ結界に押し退けられて移動した魔物たちが密集していることも考えられた。だとするならば、彼らがあげた歓声が、その内の1体を呼び寄せてしまったのだろうか。
木々の枝がバキバキと折れる音がする。
その音に顔をひきつらせながら視線を転じれば、木々の向こうから悠然と姿を現した巨体があった。
それはこの周辺でも、最も出会いたくない存在であった。
「くそったれ……タイラントベアーだと……!」
「嘘だろ、ここまで来て……」
絶望の呻きをあげる。
しかし、巨大過ぎる熊の魔物であるタイラントベアーが、こちらの事情を斟酌してくれるはずもない。
四足を地に着けた姿勢だというのに、遥か頭上からこちらを見下ろすほどの巨体。ただそこに在るだけで圧倒されるような存在感に、流れる冷や汗が止まらない。
「やるしか、ない……ッ!」
ヴォルフは絶望的な気分で呟いた。
まともに戦えるのは自分を含めて5人しかいない。
(勝てるか……?)
内心の自問自答。
答えなど聞くまでもない。
タイラントベアーが前足を振るった。まるで邪魔な物を退かすかのように無造作に。
それだけで巨木の幹が粉々に吹き飛び、木が倒れる。少しだけ空間が開け、タイラントベアーが動きやすい場所となる。
(勝てるわけがない)
タイラントベアーはレッドオーガすら容易に捕食する化け物だ。
せめて体力と武装が十分であったなら、人数が今の3倍いたならば、半数以上の犠牲を覚悟して狩ることもできたかもしれない――そんな敵だ。
「戦士たちよッ! 死力を尽くせッ! 他の者は森の奥へ向かって駆けろッ!!」
『応ッ!!』
それでも戦わなければならなかった。
死を覚悟して声をあげる。戦えない者たちに指示をする。戦士たちが威勢良く応じ、女子供に老人たちが駆け出そうとして――、
「な、に――?」
ヴォルフは目を疑った。
吼え声の一つすらなく悠然とこちらへ近づいて来るタイラントベアー。
それに音もなく襲いかかった存在がいた。
四方八方から飛び出し、触手のようにうねりながらタイラントベアーの巨体に巻き付いたのは――茨。
「グゥルルアアアアアア――ッ!!?」
タイラントベアーが怒りと苦痛半々の叫びをあげる。
巻き付いた茨は太く、その棘は大きく鋭い。普通なら剣で斬りつけてもマトモに傷の一つも与えられないタイラントベアーの毛皮に、尋常ならざる力で締め付けているからか、無数の棘が突き刺さり出血を強いていた。
夥しい数の茨は次々とその数を増やし、タイラントベアーの四肢を締め上げ拘束していく。
だが決定打にはならないだろう。出血は軽微であり、タイラントベアーは今も拘束を解こうと激しく体を震わせている。
と――、
「なんだ……? この、匂いは?」
突然、辺り一帯に甘い香りが広がった。
狼人族の優秀な嗅覚で匂いの元を探し出せば、拘束されたタイラントベアーの口へ差し出されるように、一本の蔦が伸びているのが見えた。
それは茨ではなく、棘のない蔦だ。
そしてその蔦の先には、なぜか赤い果皮に包まれ、つやつやと瑞々しい林檎が実っていた。
明らかにおかしい。「さあ食え」と言わんばかりに差し出されたそれを、普通ならば食うはずがない。タイラントベアーほどの魔物なら、そう判断できるだけの知能があるのだ。
だが、その林檎が発する匂いはヴォルフたちでさえ抗いがたく誘惑する。
巨大な口が開き、閉じられる。
まるで本能に基づく反射のように、タイラントベアーは躊躇なくそれを喰らった。
果たしてそれが、ただの林檎であるのか。
もちろんそんなわけがない。
「毒……いや、違う……?」
ビクンッと巨体を震わせた。
それを見て毒であったかと考えたが、どうにも違う。
まるで抗うことを諦めたかのように弛緩するタイラントベアーを見て、狼人族でも珍しい魔法使いの老人が、その効果を推測した。
「奴の全身に水の魔力が巡っておる……強力な、弱体化の魔法じゃ」
そんな林檎があるなど聞いた事もない。
だが実際、タイラントベアーは自らの意に反して弛緩している。
「何かよく分からんが、今の内に――」
攻撃するか、逃げるべきか。
選択する必要はなかった。
水面に岩を投げ込んだかのような、轟音が響いた。
音の発生源はタイラントベアーの頭部。
正確には、頭部があった場所、だ。
「は――?」
タイラントベアーの頭部は木っ端微塵となって吹き飛んでいた。無数の肉片骨片血の雨が、周囲に降り注いだのがその証拠だ。
いったい何があったのか。
その答えもまた、明白だった。
拘束されたタイラントベアーの背に、一つの人影がある。
だがそれは、人ではなかった。
まるで大樹の根が幾本も絡み合って形作られたかのような人型。体表の樹皮の他に彩りを添えるのは、頭上と体のあちこちに生えた木の葉。
体高はレッドオーガにも匹敵するほど大きい。高さにして3メルトルはあるだろうか。
人型ではあるが、その両腕は異様に長く、膝関節の下まで届いている。そしてその長い両手に握られた物が、タイラントベアーの頭部があった場所に置かれていた。
おそらくはそれを振り下ろしたのだろうと姿勢から理解できる。
それは鍔のない長大な剣の形をしていた。黒く硬質な光を宿しているが、微かに見える木目模様からすると、なんと木剣であるらしい。
木剣を振り下ろしてタイラントベアーの頭部を粉々に吹き飛ばしたのだ。
そう理解した瞬間、ドッと恐怖が押し寄せる。
(なんだ、あれは……!?)
見たこともない魔物だ。
しかも不意を突いたとはいえ、タイラントベアーにろくな反撃もさせず一方的に倒してしまった。
明らかにタイラントベアー以上に危険な魔物である。
タイラントベアーを拘束した茨も魔物の一部であるのなら、もはや逃げることさえ困難であろう。
(ダメだ、どうにもならない……)
絶望がヴォルフを支配した時――、
『オッス、あんたら無事か?』
どこか気の抜けた「声」がした。
念話だ。しかもその発信源は、明らかにタイラントベアーの上に乗った見慣れない魔物である。なぜならば、こちらに挨拶するように左手を掲げているのだから。
妙に人間臭い動作であったが、しかしヴォルフたち狼人族にそれを気にする余裕はない。
(喋りやがった……もう、ダメだ)
恐怖で言葉の内容があまり理解できなかったが、念話を使えるほどに高位の魔物だという事は理解できた。
つまり、とんでもない化け物の登場に恐怖の上限を突き抜け、放心したのである。
『あれ……? ちょっと? ねぇ? おーい!』
腰を抜かした30名余りの集団を前に、樹木で出来た人型の化け物だけが「声」をあげていた。
 




