境界線
それはふとした偶然の事だった。
僕は毎朝上りの電車に乗るのだが、その時長い停車時間がある駅がある。そして反対側の線路にもその時間帯に下りの電車が止まる。だからこちらから覗こうと思えば下りの電車内を覗けるし、それは向こうも同じ事だ。
停車の隙間時間に本を読んでいて、とは言ってもいくら受験が控えているからとは言え、参考書などを開くような気持ちにはなれず、かと言って漫画も読む気にもなれず、ミステリー作家の本を毎日ちょこっとずつ読んでいたんだけど、電車が動き出すその時、窓の向こうの女性とタイミング良く目が合った。
「あっ」
僕は小さな声でそう言った。相手に聞こえるはずはないんだけど、相手は僕のその言葉が聞こえていたようにふふっと笑った。
そして電車はお互いの進む道へと進んで行った。
次の日、電車に乗る時、昨日と同じ車両の同じ場所に乗ろうと思った。それは昨日笑われてしまったからどこか悔しくてリベンジしようと思ったのかもしれないし、そうじゃなくて、もしかしたら心のどこかでときめいていたのかもしれなかった。
彼女は見た目的には大体僕と同じぐらいの年齢だと思った。艶やかな黒のロングの髪をしていたのが僕の印象に残っていた。
そして再び長い停車時間のある駅に停まった。
するとそこには昨日と同じ女性が昨日と同じ場所に立っていて僕は少し驚いた。一体どういうつもりなんだろう。いや相手は昨日の事なんか一々気にするわけないじゃないか。多分僕が気付かなかっただけで彼女はいつも同じ場所に立っているんだろう。
僕は彼女を横目でちらりと見た。彼女と再び目が合った。僕が目を大きく広げると彼女は再びにこりと笑った。それを見て僕もつい笑ってしまった。まるで鏡みたいだな、なんて僕はその時思った。
それから毎日毎日彼女とは目が合い、笑い合った。それは一種のルーティーンのようで、僕達だけの秘密の遊びのようでもあり、とても楽しかった。ある時、彼女は口を小さく開けて前歯を出し、兎の真似をすると、僕は口を早く動かしハムスターの真似をした。
彼女が指で一を作ると僕は二を作る、すると彼女が三を作るので僕は小さくダーをして遊んだりもした。
またある時は彼女がノートを出し僕に質問をして来たので、僕もノートを出し彼女に質問をした。でも詳しい話は聞かなかった。好きな食べ物や好きな動物、そんなどうでも良い事ばかりでどこの学校に行っているのとか、どこに住んでいるの? とかは質問しなかった。それでもそれで十分楽しかった。それは停車時間限定の二人だけの世界だった。
僕が口パクをして何を言っているでしょうかゲームをしたら彼女は読唇術に長けているのか正解を連発したので、今度は腹話術の時間差を使うと彼女は「馬鹿」とそれまた口パクで返すのだった。
そんなある日、彼女は僕に反応を示さなくなった。
「ねえねえ。どうしたの?」
僕が口パクしても彼女はこちらを一瞥はするのだが、すぐにそっぽ向いてしまう。
一体どうしたと言うのだろうか。僕は胸がキュッと締め付けられるような気持ちになった。
そしてそんな日が一か月も続いたある日、僕の彼女に対する思いは恋だったという事に気付いた。でもそれは本当の恋ではないのかもしれない。僕と彼女が触れ合わない前提の淡い空想の恋。境界線があるからこそ、交わらないからこその絶妙な距離感を保った想像の中での彼氏と彼女。それも彼女がこちらを向いてくれないという事はもうこの関係も終りなのだろう。
僕は最後に彼女にお礼を言おうと思った。明日からは時間をずらして車両をずらして電車に乗ろう。そう思った。
すると、目の前の彼女がバッグからノートを取り出した。
彼女も僕に最後のお別れのメッセージをくれるのだと思い、切なさと同時に目に涙が浮かんで来た。
「そっちの車両、行くから!」
彼女は僕を睨みつけながら、カンペを見せるように僕にノートを示した。
は? 何? こっちに来る? 何言ってんの?
僕の頭が思考がショートしたかのようにパニックに陥った。
「いや、こっちに来ちゃだめでしょ!」
僕は声に出して言ってしまい、周りの乗客から白い目で見られた。
僕達は違う電車同士、お互い不可侵の境界線があったからこそ今まで楽しかったんじゃないのかよ。成立していたんじゃないのかよ。彼女は向こうの電車から降り、もうすぐここに来てしまう。どうすればいいんだろう。何を話せばいいんだろう。彼女には会いたい。でも会いたくない。相反する気持ちが交互に行き来してその結果僕がとった行動はバッグから馬の被り物を被る事しか出来なかった。彼女とのゲームでいつか使用するかもしれないと思いずっと持っていたのをまさかこんな場面で使用する事になるとは。
「間もなく電車が閉まります」
プシュっと音がして電車は閉まった。どうやら彼女はこの電車に乗れなかったらしい。
すると直後、肩をとんとんと叩かれた。
「ねえ、私達毎日会っていたよね」
「……」
僕は声を出さなかった。いや出せなかった。電車の向こうの空想の彼女が今僕の真後ろにいて僕の肩を叩いている。そのことが信じられなかった。
「あなただというのは分かっているのよ。服もさっき見た服だし、背丈も窓の向こうから見ていた背と一緒。何より馬の被り物なんてするのはあなたしかいないし、あなたの優しさを今、目の前で見て肌で感じるのよ。
「……」
「私ずっと楽しかった。窓の向こうの電車越しに取るあなたとのコミュニケーションが。初めは遊びのつもりだったの。ただの暇つぶし。多分あなたもそうだと思う。でも日が経つにつれ、あなたと色々なやりとりをしていくにつれ、段々私は寂しくなっていったわ。どうしてもっと私について深く質問してくれないの? どうして私にもっとあなたの事を教えてくれないの? って。それで私あなたの気を引く為にわざと無視をしたりしたわ。本当はあなたともっとやりとりしたかったのに。でもさっきあなたが私に何か哀しい表情で言おうとしたのを見て私は悟ったわ。これは多分、お別れの挨拶だって。それを見て私はいてもたってもいられなくなったの。あなたとこれで最後なんて絶対に嫌だって、そう思ったの。だから私は電車という檻を飛び出し、境界線を飛び越えてここに来たの。あなたは嫌だったかもしれないけど」
そんな事ない。僕だって君に会いたかった。と心で思ったけど口に出る事はなかった。初めて聞く、いつも想像していた彼女の声、思っていたよりくぐもったような声だったけど、僕にとっては最愛の声。そうだ。僕だって彼女の事を彼女が今僕に言ったように思っていたんだ。僕は今まで深く一歩踏み出そうとしなかった。恋をするのが僕は怖かったのかもしれない。恋をするのは浮かれた証拠、そう思って、思う事にして線を引いて身を守っていたのかもしれない。境界線があったのは電車じゃなくて僕の心の中だったんだ。恋に気付いていなかったんじゃない。気づいていたのに一歩踏み出せないでいただけなんだ。でもこうして彼女は境界線を越えてこちらへとやって来てくれた。今度は僕が勇気を出す番だ。
「僕と付き合って下さい!」
「……はい。喜んで」
彼女の返事を聞き、ゆっくりと僕が振り向くと彼女は鹿の被り物をしていた。
「これで私達、本当の馬鹿ップルね」
彼女は首を傾げてにこりと笑った。少なくとも僕には彼女の笑顔が見えた。
僕達は他の乗客の奇怪な目を横目に手をギュッと繋いだ。
電車がカタンコトンと上りに向けてゆっくり走り始める。それはまるでこれからの僕達のようだとそう思った。