本当の願い
昔々、まだ科学が世界を支配する以前の話。世の中は魔法と道理で成り立っていた。「なぜ?」と問うものもいなかったし、「どうして?」と考えるものもいなかった、そんな時代。
そこにはまだ人間という生き物は生息しておらず、世界を構成する多くは犬や猫、馬や牛といった動物たちで、ごく少数、エルフや魔法使い、妖精と呼ばれる珍獣が存在した。
その丸い世界の東と呼ばれる場所、ある国のある田舎町に、一匹の猫がいた。猫の家はお金持ちで、小さいころから何不自由ない生活を送っていた。
「いってきます」
父猫は猫の頭をなでる。
「いってらっしゃい、パパ」
猫は父猫にそうされるのが大好きだった。
「いってきます」
母猫は猫の頬にキスをする。
「いってらっしゃい、ママ」
猫は母猫にそうされるのが大好きだった。
いつものように一匹でお留守番。寂しくない。昔からそうだったから。勉強と習い事で遊べるのは火曜の午後だけ。つらくはない。昔からそうだったから。
しかし一つだけいつもと違ったのは、その日、父猫も母猫も帰ってはこなかった。その次の日も、その次の日も、二匹は帰ってこなかった。
猫はいつものように一匹でお留守番。使用人が一匹、また一匹と辞めていった。習い事の先生も辞めてしまったので、午後にやることがなくなった。家庭教師も来なくなり、午前中の勉強がなくなった。
遊ぶ時間ができた猫は、外に出た。見たこともないものがたくさんある。その日家に帰ってくると、猫はついに本当に、一匹きりになった。
その晩、猫は一匹きりの屋敷で考えた。このままではお金が尽きる。お金が尽きれば生きてはいけない。働かなくては!
次の日から早速猫は仕事を探した。商店街、新聞配達、コンビニ、スーパー、工場。でも何も出来ない小さな子猫を雇ってくれるところはどこにもなかった。やがて屋敷は売りに出され、猫は追い出されてしまった。
夜道を歩きながら、猫は考えた。何かしなくては、でも何を? 何か、何か……
空を見上げると双子の月が微笑んでいる。いつもと何にも変わらない。それを見ているうちに全てがバカらしくなった。
あの月はああしてニコニコしているだけで生きていけるというのに、僕が働かなくてはいけない道理がどこにあるっていうんだ。ああ、でもお金がない。困ったな。困ったときは、困ったときは……
(もしもあなたが本当に困ったときには、魔女に助けてってお願いするの)
(魔女? 魔女って怖いんじゃないの?)
(ふふふ。確かに物語には怖い魔女が多いものね)
(蛙に変えられたりしない?)
(本当の魔女はね、みんなを幸せにしてくれるのよ)
(本当に?)
(あら、ママが嘘ついたことあった?)
(うーん……たまにある!)
(そっか、そうだね。たまにあるね。でもね、これは本当なの)
そうだ、魔女に会いに行こう。
猫は鞄から一番お気に入りだった絵本を引っ張り出して、バサバサと振った。本の隙間から、コロンッとメモが落ちてきた。メモに書かれた道を歩き、川を渡り、一生暮らせるお金を求めて、猫は魔女を訪ねた。猫の住む町の端にある森の奥深く。日の光も届かないようなその場所に、一軒の山小屋が建っていた。家と呼ぶには粗末すぎるその小屋の戸を、猫は小さくノックする。
トントン
返事はない。
トントン
やはり、返事はない。ノブに手を置くと、その戸はすんなりと開いた。
「不用心だな」
猫は一歩足を踏み入れて、固まった。あわてて外に出て小屋の外観を眺めたあと、再び中に入る。
「これが、魔法!」
粗末な山小屋の中は広々としていて、豪華とはいえないものの、ゆったりとした空間が広がっていた。
暖かな暖炉、ふかふかのソファになめらかなテーブルクロス。そこは居心地の良さを絵に描いたような部屋だった。猫は吸い寄せられるように、暖炉の前のソファに腰を下ろす。すると突然今までの疲れがどっと出たのか、眠りについてしまった。
ふわふわと、夢の世界へ意識を落とす。
空色の空気の中を、漂うように飛んでいく。ときどき大きな、自分の何倍もあるケーキやドーナツの間を抜けて、どこに向かっているかわからないけれど、確かに猫はどこに向かうべきなのかがわかっていた。
「目、覚めたかい?」
突然響いた声が、雷のように視界を割いた。だんだんとはっきりしてくる意識の中で、猫は自分がベッドに横になっていることに気づいた。先ほど猫が座っていたソファには誰かが座っていた。でもこちらに背を向けているため顔は見えない。
「あなたが、魔女?」
「ああ、いかにも。私は、魔女と呼ばれている」
魔女は立ち上がって、振り返る。おとぎ話の魔女よりも鼻が低く、おとぎ話の魔女よりも若かった。
「あなたに、お願いがあります」
「ほう」
魔女は猫の心の内を全て見透かすように、真剣な目で猫の青い瞳を見た。
「魔女は、誰の願いでも一つだけ叶えてくれるんだろう?」
猫はそれが少し怖くなって、魔女の様子をうかがうように恐る恐る尋ねた。魔女は見た目の割に老いた笑いをもらして、部屋の一角にあったティーセットでお茶を入れ始めた。
「確かに、魔女の使命は全ての生命に対して一つだけ、願いを叶えてやることだ」
カチャカチャと陶器のぶつかる音がしていたかと思うと、魔女は猫の側まで歩いてきて、一つのマグカップを差し出す。ココアの甘い香りが部屋中に漂っていた。猫は体を起こしてカップを受け取った。
「僕の願いを、叶えてほしい」
一口も飲まずに猫は言う。
「願いとは?」
魔女は問いながら再びティーセットのそばへ行き、ポットに新たなお湯を注いだ。
「……お金が欲しいんだ」
「どのくらい?」
魔女は自分用に煎れた紅茶をカップに注ぎながら、冷静に聞き返した。
「一生の生活に困らないくらいさ」
再び魔女は猫の心を見透かすように目を細め、じっと猫の大きな瞳を見つめる。猫は負けじと魔女の瞳を見つめ返した。
「いいよ」
「え!?」
「なんだい。そんなに驚いて」
魔女は可笑しそうに微笑んで、紅茶を一口飲む。
「叶えて欲しくて来たんだろう?」
「だって、そんな簡単に、叶えてもらえるとは」
母猫はああ言ったけど、もしかしたら食べられてしまうかもしれないと怯えながら意を決してやってきたのに、あまりにもあっさりと魔女が了承したので、猫は拍子抜けしてしまった。
「それが私の使命だからね。でも、もちろんいくつかの条件はのんでもらうよ」
「条件?」
やはり何か無理難題を言いつけられるのだろうかと猫は身構えた。
「なに、簡単なことだよ」
魔女はどこからか大きな紙を取り出して、猫の見える場所に広げた。
「これはこの森の地図。ほら、ここがこの家の位置」
赤いペンで×と書かれた場所を指差して言った。
「これが街へと続く道、こっちが森のさらに奥へと続く道。わかるかい?」
「うん」
「あんたにはこれからキュベルという植物を探してもらう」
「キュベル?」
「そう」
どこからか、今度はとても古い分厚い本を取り出した。付箋がいくつも付いているその本を、魔女は手慣れた様子でめくり、あるページを猫へ見せた。そこには控えめな淡いブルーの花が描かれていた。
「これが、キュベルだよ。この森のどこかに咲いている」
猫はその絵をじっと見つめた。青というより灰色に近いかもしれない。曇り空色のその花弁は撫子のような形をしていた。
「これを探して持って帰ってくることができたら、お前のその願い、叶えてあげよう」
「この広い森から、こんなに小さな花を探すなんて」
「無理だと言いたいのかい? それならいつ帰ってもらっても構わないよ。私はお前が野垂れ死のうと関係ないからね」
猫はぎゅっと唇を噛んで、布団をかぶった。
「この森に、どのくらい咲いているの?」
「一本枯れれば一本芽吹く、この森の中にきっちり三十本。晴れた日の日の出と同時に花を開く。そして日の入りと同時に閉じてしまう。つまり探すなら日の出ている間ということになるね」
「三十本……」
「その間はここで寝泊まりするといい」
「ここであなたに暮らすってこと?」
「そう」
「その花を見つけたら、本当に願いを叶えてくれるんだね?」
「ああ、約束しよう」
猫は決心したように力強く頷いた。
「やる。やります」
「そうか」
魔女はその返事を聞くと、やわらかく微笑んで猫の頭をなでる。少しだけ、父猫を思い出した。
「それじゃあ、まずは部屋に案内しよう」
「部屋?」
「これからお前が住まう部屋だよ」
魔女はいつの間にかソファから立ち上がり、螺旋階段の下にいた。猫もあわてて立ち上がって魔女の後を追う。階段を上ってすぐの部屋の扉を開けた。
猫の屋敷の部屋とは全然違う作りで、こちらの方がずいぶんと狭いにも関わらず、なぜだか懐かしいような気がした。
「トイレはその角。お風呂はその隣だよ。着替えはそのタンスの中に用意した。何か必要なものはあるかい? もちろん、テレビゲームなんてのは用意しないよ」
猫はクッションの具合やベッドの柔らかさを確かめて、首を横に振った。全部が猫サイズで、全部が猫好みだった。
(やっぱり、魔法ってすごい!)
「朝食は牡丹、昼食は向日葵、夕食は椿の時間だよ。遅れたら抜きだからね」
壁に掛かった時計を指しながら言った。
「うん」
「返事は、はい」
「はい」
「よろしい」
魔女は猫の頭に手をのせて、また笑った。
(変な魔女……)
「今日はもうすぐ日が暮れるから、明日の朝から探しに行きな。椿の時間になったら下りておいで」
説明を終えると、魔女は部屋を出て行った。猫はごろんとベッドに横になって、シミ一つない真っ白な天井を見上げた。ボーッとしながら猫はこれからのことをぐるぐると一時間も考えていた。
魔女の作ったご飯は、意外にも美味しかった。両親はいつも帰りが遅かったので誰かと食事をとるということがなかった猫は、向かいに座る魔女をチラチラと見ながら、食事の間中ずっとそわそわしていた。
初めて来た場所で、初めて会った生物と同じ屋根の下で、でも不思議と心地よく、安心して眠りについた。魔女は牡丹の時間に猫を起こし、朝食が済むとついに猫は立ち上がった。
「それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
魔女は猫を入り口まで見送ってくれた。今までと逆のそのやり取りはちょっと恥ずかしくて、くすぐったい。
その日から猫は、毎日毎日キュベルを探した。時には動物たちに聞いて、時にはただひたすらに歩いて。しかしその面影を見ることはおろか、噂の一つさえも手に入らなかった。
(本当に、そんな花はあるんだろうか)
猫は急な斜面を登りながら考えていた。
(もしかしたら、魔女が僕を騙しているのかも)
そんな考えが浮かんでは消え、浮かんでは消え。
「おかえり」
「……ただいま」
でも夕食を作って待っていてくれている魔女に、そのことを口にすることは出来なかった。
猫が魔女のもとを訪れて長い月日が経った。魔女の髪は真っ白になり、最近ではベッドで休んでいることが多くなった。始めは何も出来なかった子猫も、今では食事の用意も、掃除も、洗濯もこなせるように成長した。
魔女に代わって家事をする分、猫がキュベルを探しに行く時間は減った。
「私に構わず、キュベルを探しに行きなさい」
魔女は口癖のように猫に言う。けれど猫は決して首を縦には振らなかった。
「時間はたっぷりあるんだから、気長に探すよ」
猫のその言葉を聞くたびに、魔女は悲しそうに微笑むのだった。
いつにも増して寒さの厳しいある冬の日。森は深い雪に覆われた。猫はいつものように朝食の用意を済ませると、魔女の部屋へ足を運んだ。
トントン
「朝食の準備が出来たよ。今日は一段と寒いから、スープが冷めないうちに食べよう」
いつもはすぐにある返事がない。
トントン
まだ寝ているのかと、猫は再びドアを叩いた。しかしやはり、返事はない。
「入るよ?」
不思議に思った猫は、魔女の部屋の扉を開けた。何年も魔女と一緒に暮らしていたが、魔女の部屋へ入るのは初めてだった。いつもはすぐに起きてきて、昼間はリビングに置かれた(猫が初めてこの家で目を覚ました)ベッドで寝ていたし、部屋の掃除を申し出ても、危険な薬品が多くあるとかで魔女はそれを拒絶した。だから猫はその時初めて、魔女の寝室を見た。カーテンの引かれた室内は薄暗かったが、机や棚には液体や草の入った瓶が並んでいるのがわかった。壁の一面は本棚で、難しそうな本が詰まっていた。
魔女はまだベッドの中だった。
「早く起きないと、スープが冷めるよ」
返事はない。
「魔女さん?」
猫は遠慮がちに布団をめくると、そこには小さく老いた魔女の姿があった。肩を揺らしても、声をかけても、彼女はピクリともに動かない。
「魔女さん? ねぇ、起きて。今日のスープは特別美味しいんだ。それを食べ終わったら、キュベルを探しに行くよ。今日は西の川の向こうまで。ほら、あそこでは珍しい薬草を見つけたって言ってただろ。だからきっと、あそこなら、あそこなら……。僕の願い……叶えてくれるって言ったじゃないか……」
魔女の寝顔は安らかで、雪の降り止んだ雲の切れ間から差し込む光が、明るく照らしていた。
何時間そこでそうしていたかわからないが、猫はゆっくりと顔を上げた。そこには、朝日に照らされ、キラキラと光る一輪の花。
「キュベル? どうして!」
紛れもなくそれは猫が何年も探し続けたあの花で、魔女が猫に探すように命じたあの花だった。ただ違うところといえば、その花弁は本で見たよりもずっと鮮やかな青色だった。窓辺に置かれたその花の鉢に、白い封筒が立てかけてあった。
封筒の表には見覚えのある、しかし震えた文字で、『私のかわいい猫へ』と書かれていた。瞳からこぼれるしずくでその文字がにじんでしまわないように注意しながら、猫は封を開けた。そしてそれを読み終えると、静かに手紙を封筒に戻し、魔女を抱きかかえた。
陽は高く昇り、降り積もった雪は、輝きと共に、溶け出していた。
私のかわいい子猫へ
お前がここへ来てもう十二年が経つ。初めて会ったときのお前は、心が渇ききっていて、何にも関心を持たない子だった。お前の瞳を見た瞬間に、私が何をすべきかがわかったよ。
いつの間にか、魔法使いはおとぎ話の中の存在になってしまった。果たすべき使命がなければ存在する意味もない。それが世界の道理だろう? だから世界中から魔法が消え、役目を終えた魔女たちは子を作ることも出来ず、次々と眠りについた。やがてこの世から魔法は消え、全ての事象や現象に理由や根拠が必要な時代が来るんだろう。そして私も十二年前、あの夜に眠りにつくはずだったんだ。もう何十年も誰も魔法を求めて訪ねては来なかったからね。そこにお前が来た。
私はお前にキュベルを見つけたら、その願いを叶えると約束した。この鉢植えのキュベルは、お前と出会ってから私がこっそり見つけた、三十本目の、最後のキュベルだ。残りの二十九本は、家の裏の日が当たらない場所に植えてある。だからお前がこの鉢植えのキュベルを見つけたとき、今この瞬間が、私の魔法が終わるとき、お前の願いが叶うときだよ。お前の本当の願いは、大金なんかじゃない、今のお前ならわかるだろう。
さぁ、すぐに立ち上がって、机の上の金貨三枚をポケットに入れて、町へ戻りなさい。それだけあれば部屋を借りて一月は生活できる。もう何も出来ない坊やじゃない。お前はやりたいことが出来るし、使命を果たすためにやりたくないこともしなくてはならないよ。
最後に一つだけ。眠った私は、温かい土の中で眠らせておくれ。首にかかったペンダントはお前に持っていてもらいたい。私の、最期の魔法を、私の最愛の息子へ。
魔女より




