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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

対岸

作者: 菅永葵

 生きていた私を避けて、梅雨明けの白っぽい風が吹いた。ただ胸の底の心臓だけが、止まるきっかけを欲しがって小さく動き続けた。その拍動に後押しされて、私は開いた踏切の前に立ち、電車を待っている。もちろん乗るためじゃない。轢かれるために。ここまで追いつめられても、私は独りだった。

 孤独を知らない遠い記憶が、自分を顧みている。七歳の娘を遺して父が思い出の中の人になったのは、もう二十年前だ。それから私は、母と、六つ下の弟と暮らした。しかし母は、おそらく生まれついて、人の心を持たなかった。ひたすら弟を寵愛し、私を蚊帳の外にした。そのことを、もはや私は恨んでいない。母は、可哀想にそうしか振る舞えない人間だったのだから。片や弟は、可愛い男の子だった。あれは絶対、父に似たのだ。母ではなかった。だから弟は、母の偏った愛情と、歳の離れた姉からの可愛がりを受けて、それは幸せに育った。憐れなほど幸せそうだった。結局それで生来の人柄に贅肉がついてしまったのか、姉を顧みる弟にはならなかった。

 そんな彼等とは、もう七年会っていない。というのも私は、幸い十九歳にして自ら生計を立てる(すべ)を手に入れ、家を飛び出すことができたのだ。その術とは、物語を書くことだった。

 

 踏切の警報音が鳴った。尖るところのない、けれど極真面目な表情の音だ。遮断機が降りて来て道が寸断される。忽ち遠くから列車の音がしてくる。堕ちた作家が絶筆し、病躯の私が絶命する時だ。

 夏の早朝、白く照った沿線の建物を次々影の裏にしながら、右の向こうから電車が走って来た。通過した信号は、緑だったようだ。私は遮断機を(くぐ)った。

 警笛を鳴らされたが、私は引かない。むしろ迫って来る列車の運命を握って、最期の優越感にした。そして声を発せられる最後の機会に、サヨナラを言った。

 その瞬間、物理に抗えない金属の車輌は視界の中心からどっと拡がって、目の前を覆い尽くした。

 

 途轍もない強さで衝突した。

 

 私の体は在るべきところを失くして弾き飛んだ。

 

 自分で死んだのが判った気がした。

 

   ♢

   

 これからの眠りが安らかだとは、とても思えない衝撃だった。しかし、気が絶えてから先、苦しんだ覚えはない。少なくとも、孤独の中で癌と闘うことを強いられた生前からは、考えられない静かさだった。そこでは、自分の脈動さえ存在を消していた。

 

 父の影響で読書家だった少女の頃の私は、いつしか自分で小説を書き始め、高校二年の時に文学コンクールで最優秀賞を取った。その折に作家を志すと、それからは彼氏も作らず、友達とも交わろうとしないどころか、家族を捨てて独りを目指した。私は人が嫌いだった。母も弟もあの通りだし、学校へ行けば小中高大、どこまで進んでも稚拙な人間関係があったからだ。周囲に埋もれ、集団の中でしか生きていけない人達が、憐れに思えて大嫌いだった。頭が悪そうに思えて、通じ合えないと思った。しかもその多くは自覚がないから、尚更悪く感じた。

 そういう感性を、振り返って否定するつもりはない。そこに悪意や偽りはなかったからだ。素直だったのだ。でも、結局良い道へ繋がらなかったのは、言わずもがな。私の日々から、理屈のない人間関係は消えていった。その上で、もっと悪いことがあった。

 二十五歳の私を蝕んだのは、乳癌だ。幸いか、取り返しのつかないところまでは行っていなかった。しかし、自殺に至る直接的な原因は、このことだ。と言っても、病気に絶望したわけじゃない。支え支えられる間柄の人が一人もいなかったことに、心を折られたのだ。作家の私には、確かに相応の人間関係があった。読者もいた。それでも、私は独りでしかなかった。正直、最盛期からは売れ行きも評価もだいぶ低くなっていたし、その右肩下がりのグラフと共に、このまま滅してしまおうとしか考えられなかった。

 

 突如として、自然に、視界が開けた。

 踏切に下っていく坂道が心地いい。体は前に向かって自由に落ちて行くようで、感覚はこのままどこか遠くまで飛んで行けそうだ。

 夢みたいだ。私の中の私でない何かが、これに否定でも肯定でもない応えをして、前方を歩く少年を指し示した。

 

   ♢

   

 坂を吹き上げていく風の中、中学生くらいの少年の華奢な背中は、決して振り返る気配を見せない。ジーンズの長ズボンを履き、赤っぽいチェックシャツの半袖から伸びる細い腕には、痛々しい痣が幾つもある。そして、気の毒なほど色が白い。彼が坂道を下り切ると、そこに見慣れた踏切が現れた。遮断機は上がっている。しかし、彼は直前まで来て立ち止まった。ここは他でもなく、私が飛び込んだところだ。ふと見上げた空は昼のようで、頭上から盛んに陽の光が照っているが、一方で辺りには私達以外の人影がないように感じる。そんなエキストラのいない世界には、時が流れていないみたいだ。

 

 「君は」四歩先に立つ彼に向かって、無意識な言葉が口から出てきた。

「君は死ぬの」

 少年は少しだけ私の方へ首を捻って、静かに頷いた。そのやり取りは、私にはシナリオに沿ったもののように思えた。形式的で、得るものがないような感じだ。しかしその時思った中には、このやり取りに対する喜びか何かも、ないではなかった。

「どうして死ぬの」

「……死ねって言われたから」

「誰に」

「みんな」

 

 彼をここへ追い込んだのは、学校の虐めらしかった。仲間意識の輪から外れてしまった人間が攻撃されるのは、どこの集まりでも起こることで、私も身に覚えがある。だからこそ人間嫌いになったのだ。正しいか間違っているかなど関係なく、気に入らないことは仲間意識の大きな力で圧し潰す、そういう人間の性の犠牲者にされた少年の後ろ姿には、悲しい怒りが見える。それは氷点下に冷えた硬い硬い氷のようでもあり、沸点を知らないまま果てまで熱くなった危険な液体のようでもあって、彼の発する言葉を逆に軽薄にしていた。抱える感情そのままに口を開けば、もはや他人には見せられないようなことになると、自覚しているらしかった。そういう意味で彼が死ぬのはプライドであり、尊厳死だ。

 黙ったまま俯き加減だった少年の顔が、少し上がった。その目線を追うと、線路の向こう一帯に、一面の田園風景が広がっているのが見えて、ここはやっぱり夢なんだと思った。その景色はただすぐそこに見えていながら、水平線のように遠く、過去のように決して辿り着けない感じがする。そして何より、綺麗だ。

「綺麗だ」

 私は印象を言葉にした。

「綺麗だった」少年が幽かに言った。

「……ここはお祖父ちゃん達が住んでたところ。二人とも死んじゃったけど」

 二人というと、祖父と祖母か。

「どんなところだったの」私は彼の右隣に進んだ。

「……見ての通り」

 私はもう一度よく見渡した。左から徐々に目線を移していくと、真ん中より少し行ったところに人家が並んでいるのが目に入る。私はそこを指差した。

「あれの一番こっち側がお祖父ちゃんの家」

 その家は、ブロック塀に囲まれた広そうな庭に、針葉樹を何本か植えてある、純和風のモノトーンな平屋だった。収穫期の近づく稲が、辺りでちらちら風に揺れている。その様子は、とても落ち着き払って見えた。

「いい家」

 少年は答えない。

「老けた感じはしないのに、ずっと昔からそこにあったみたい」

「これからもずっとそこにありそうでしょ」

 思い掛けない鋭い言葉にはっとして、彼の方を見た。しかし、一瞬見えた眼差しは次の瞬間には緩く変わっていて、微笑み掛けた遠い表情が、また少し俯いた。

「毎年お盆になると家族であそこに来て、バーベキューとか花火とかやった。冬も来たことあるけど、その時は雪で遊んでた。でも雪掻き手伝わされるから、夏の方がよかったかな。あの塀の陰、池があって、夏祭りの金魚がいた。夏祭りの日は車で街の方に行って、屋台とか、花火大会とか、盆踊りとか、幼稚園の、妹、連れて、お祖父ちゃんと」

 彼はしゃがみ込んで深く俯いた。涙が雫になって、一滴々々、足元のアスファルトへ落ちていった。私はぴったりと隣にしゃがんで、静かにその肩へ手をやった。彼のまだ弱々しい骨格が、掌に何か訴えかけてきた。しかし、それに応えることはできないと、誰かが決めたらしかった。

 

   ♢

   

 彼が泣き止んで沈黙が訪れた頃、その静けさは突然破られた。踏切が鳴り出したのだ。

 彼はゆっくり顔を上げると、すっと立ち上がりながら遮断機の向こうへ出て、振り返った。

「ちょっと、戻って、危ないよ」

 私がそう言った時、彼と初めて目が合った。その目は、今までに見たこともないほどの曇りのない表情で、私を撥ね付けた。

「ごめん、ありがとう。じゃあね」

 そう言い残すと、彼は線路の向こうへ走り出した。同時に左の方向からは、猛スピードの電車が、踏切へ進入した。

「危ない」反射的に叫んだ。

 ところが、彼は轢かれなかった。私には、目の前を横切る列車と共に、その陰になった少年の姿が見えていた。

 線路を渡って生気を失くしたように見える彼が、向こう側の景色に向かって歩んでいる。しかしその景色は、忽ち陽炎のようにゆらゆらし始めて、やがて、彼が足を踏み入れるのを待たずして、立ち上るように消え失せてしまった。彼は進むのをやめた。

 そして電車が過ぎ去ると共に、少年の姿も消えたのだった。

 

   ♢

   

 それからずっと、踏切前の車道の中央に崩れ込んでいた。両手を硬いアスファルトに突っ張って顔を上げ、少年の消え行った方を見るだに、悲しく感じた。心宿るものは、そこに見えている陽炎のように儚いものだと思った。こんな感情を、私は今まで山ほど創造し、文に書いて手放してきただろうに、誰とも判らない見えざる手から不意に受け取ってしまったこの感情は、今までの私の筆跡を一つも洩らさず抱擁したばかりか、そのまま抱き潰してしまったのだ。私はここで、死よりも深刻な、死の向こうを客観した。

 

 浅く瞼を閉じて空の移ろう声に聴き入っていたところへ、一筋の影がやって来た。それを根の方へ向かって目で追うと、少女が一人、線路の上に立ち止まってこちらを見ている。長い髪を垂らし、真っ白なブラウスに膝上丈のスカートを履いたその少女は、高校生のようだ。私より小さくて整った顔立ちの一重目から、興味より暇潰しの表情が透けていた。

「珍し」彼女が喋った。

「そこで何してるの」

 その答えは私も知らないので、適当に返すことにした。

「休んでるの」

 彼女はふうんと言った切りだ。

「あなたこそ、どうして線路の中にいるの」  

「知らない」どうも解らない子だ。 

「というのは嘘だけど」やっぱり解らない子だ。

「わたしはずうっと向こうの駅から歩いてきた」

 振り返って背の方を指差すと、少し考える素振りをして、続けた。

「その駅でね、わたし飛び込み自殺したの」

「え」

「ふふ」彼女の軽い笑いに、少し仲間を見つけた気がした。

「ひょっとして、あなたもでしょ」

「あぁ、うん。まあ、私が飛び込んだのこの踏切なんだけど」

「へえ。そっか」

 彼女は暑くもなさそうなのに右手を顔の横でパタパタさせ、踏切脇の知らない機械に腰掛けると、一息()いた。

「いつもよりずっと早く家を出てね、最寄りだと特急以外全部停まっちゃうから、隣の、各駅しか停まらない駅まで移動して、一番最初に来た急行に飛び込んだ」

 自分の死に様を語るその顔は、爽やかだ。

「バーンって、百人くらいから同時に突き飛ばされたような感じ。なんか、体が凍るくらい冷たくなって、頭ももの凄い痛かったけど、一瞬ふわってなった時が気持ちよかった。わかるでしょ。アレの時の感じとちょっと似てる」彼女はクスクス笑った。

「それで、たぶんグチャグチャになって死んだんだろうけど……わたしは駅からちょっと外れたトコの線路で目が醒めた。でも、なんか、その後どうしたらいいかとかよく分かんなかったから、そのままテキトーにここまで歩いてきちゃった。不思議だね。全然疲れてないよ」

 彼女の無邪気さは、どこから来ているのだろうか。生まれつきのものだけではない気がする。やはり、生命から解放されて、身軽になったからなのか。しかし、この予想が「遠からずとも当たらず」だったことは、やがて判ってくる。

「そっちは。どんな感じで死んだの」

 彼女の話は一段落したらしい。私は深く息を吸った。

「ンー、あんまり人がいない時間がいいと思って、早朝、六時前くらいかな、そのくらいに家の近くの、普段から人気の少ない踏切、っていうのはここなんだけどね。ここに来て、しばらくして来た電車に飛び込んだ。私は車輌が迫ってくる景色が印象に残ってるな。ゾクゾクして面白かったよ。ちょっと怖くてほんの直前にそっぽ向いたけど。それでもの凄く強い、というか大きな力で弾き飛ばされた。私は、そのまま空を飛べそうな気がしたよ。ほんの一瞬、世界のどんな酷いことでも惨いことでも引き受けて受け入れて、遠くへ旅立てる感じがした。最後に視えた空の色は、ただの青じゃなかったな。遥か彼方にあるけれど、遮るものが何もない、宇宙の色。人生最期に見られた、今までで一番綺麗で、深い空。無数の天体と空間を抱えられるほど寛大なのに、常に何かの法則に従って動いてて、情け容赦のない、宇宙。そういうのを見た」

 話が少年のことに移る前に、喋り過ぎたかと思ってはっとしたが、彼女は黙って聞いていてくれた。

「……なんか、上品で深いこと言うね」

 純粋な微笑みに、私は久し振りに有り難さを感じた。

「仕事は何してたの」彼女は鋭い目になった。

「小説家」私は続いて筆名を告げた。

 知っていようが知っていまいが、どうでもいいと思って話したのに、彼女は顔色を変えた。私を知っていたのだ。握手を求められた。そして至上の褒め言葉を受け取ったが、それほどでもない気がしたし、これが私の脳内物語だったとしたらとんでもない自画自賛なので、ほとんど聞き流してしまった。

「びっくりした」私が座り込んでいる近くに腰を下ろしながら言った。

「先生が自殺図ったわけ、なんとなく解る気がする」

「『先生』はダメ」

「わかった」

 その後少し沈黙があって焦ったが、平気だった。

「あのね、わたし、迷ってるの」真面目な顔の彼女が切り出した。

「死んだあと、目が醒めてからずうっと一人で、それはいいんだけど、でも、わたし一人ここに閉じ込められて、何をすべきなのか判らない。そう、なんか、線路の外に出れないの」

「どういうこと」

「わたしが死んだのって、生きてる状態から脱出しようと思ったからなんだけど、そのせいなのか、この外に出るのが怖い。でも怖いだけじゃなくて、もしこの線路から逸れたら、それこそ永遠に迷っちゃう気がするの。ここ以外は、わたしの居ちゃいけない場所だって決まってるみたい」

 彼女の表情に、少しの寂しさが滲んだ。

「それでも、出口はないかと思って歩いてはみたよ。でもやっぱり見つからなかった。長いこと歩いてきたけど、この先何駅か行けば、もう終点」

 その言葉とは裏腹に、顔から笑みが全く消えることはない。私はそれを見て、目を背けたくなった。

「死んだことは後悔してない。でも、ちょっと期待外れ、かな。わたしはこのまま、ずうっとこの線路を行ったり来たり。まあ、それも悪くないかも」彼女はまた笑った。

 一方の私は、それは嫌だと思った。そして恐ろしくなった。もしかすると、私もその内、気づいてしまうのかも知れない。死んで失った、生きてこその自由を。

 彼女の口調がそれでも爽やかで、仕草は軽快で、表情が無邪気に感じるのは、覆らない諦めの表れであり、死の向こうにいる証明なのだった。

 

   ♢

   

 踏切が再び、列車の接近を知らせた。

「もう行かなきゃ」彼女が言った。

「そうなの」

「うん。ずっと一緒にいると、わたしみたいになっちゃうよ」

「どういうこと」

「先生、まだ笑えてないよ」

 直ぐには意味が解らなかった。しかし、それを尋ねるには、もう時間がない。遮断機が降りてきて私は踏切から閉め出され、線路の上の彼女は向こう岸の際まで退避した。最後に一つだけ気になったことがあって、叫んだ。

「あなたはどうして死んだの」

「知りたいの」彼女はニヤリとした。

「そうだなあ、ヒントはねえ」

 オ・ト・コ

 彼女の口はそう動いた。

「じゃあねっ」

 彼女の声に急いで左手を挙げると、直ぐ、左の方から列車がやって来て視界を遮った。今度は、向こう側が視えなかった。

 

 呆気なく去っていった少女のことを考えて、またその場に留まっていた。空の色が、静かに囁きながらゆっくり暗くなっていく。やがて、日没が迫った。辺りには、いつからともなく、疎らな人影が現れていた。

 その時だ。一人の若い紳士が、私の横を通り過ぎて踏切を渡っていった。背が高くて痩せていて、縁なしの眼鏡にダブルの背広を着たその面影は、他でもない、私の父だった。二十年前の、亡くなる直前の父だ。

「お父さん」私は叫んだ。

 しかし、既に踏切の向こうを歩いている父に、その声は届かない。私は線路を越えようとした。ところが、踏切の警報音は、この瞬間に再び鳴り出したのだった。私は迷った。今走れば、電車が来る前に線路を越えて、父に追いつくことができる。逆に轢かれてでも今行かなければ、今度こそ永えの別れを覚悟しなければならない。

 だが、私の脳裏に焼きついた全ての記憶は、ここで足を踏み出すことを拒んだ。この目で捉えた少年の後ろ姿、この耳で聞いた少女の言葉、それらは、この踏切の先が、今の私の立ち入ってはならない場所であることを明らかに示していた。

 行くべきか、行かないべきか——

 

 私は眼前をけたたましく通り過ぎる列車に向かって、心の底から泣いた。心底、悔しかった。父の面影は、遥か遠くへ消え入った。また道路の中央に崩れ込んで、いつまでもいつまでも泣いていた。

 

   ♢

   

 大きな瞬きをして、ふと気づいた。私は、踏切の前にいない。ベッドの上にいる。そして目の前には、妙に実体のはっきりした空間が広がっている。ここと比べたら、ついさっきまでの記憶は、全て夢のように思える。

 看護師らしい恰好の人が、私の覚醒に気づいて、喋り掛けてきた。

 

 あ()、還ってきてしまったのだ。私はまた泣いた。自ら()んだはずなのに、命を手放せないで戻ってきた自分が、何とも情けなく、憐れで、そして、この上なく愛おしかった。胸の底の拍動を、優しく抱き締めた。あゝ、還ってきた。

 生きている私を真っ直ぐに照らす蛍光灯が眩しくて、利き手が目の方へ動こうとした。しかし、確かに感じる右の肩の続きに、腕は付いていなかった。

 

 

 

追伸 私が出逢った少年少女は、最近自殺して死んだ実在の人であったと、後で知った。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 比喩表現が美しく、心情が丁寧に書かれていて、なろうには珍しい文章でとても新鮮でした。 綺麗な物語です。 [気になる点] とても惜しい文章だと思いました。 というのも私は、幸い十九歳にして…
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