第140話 小さな変化と大きな変化
「おはようございます!」
核の世界に朝を告げる声が響き渡る。
この世界は外と時間の感覚が違う。油断すれば、朝どころか日を跨いでしまうこともあり得るのだ。
そんな事態を避けるために考えた方法がこれ、所謂モーニングコールというやつだ。
「おはよう……ノア」
俺は強制的に『思念波』を中断する鍵として、ノアの声を設定した。
その効果は御覧のとおり、俺は勿論のこと、さっきまで核の世界にいた眷属達も現実に戻っている。
「ありがとうございます。夢のような一時でした」
アーキィが満足気に頭を下げると、ランディとラビもそれに続いて頭を下げた。
キバは……寝ぼけてるのか、ぼんやりした目をこちらに向けている。が、これもいつものこと。キバは核の世界で別人格が表れているせいか、戻ってきた直後は大体こんな感じになってしまうらしい。
それも時間が経てば基に戻るし、寝起きが悪いみたいなもんだろ。
ともあれ、朝になったら飯だ。朝食にしよう!
……
「うーん……堪らん……!」
鼻腔をくすぐる香りに思わずうっとりしてしまう。
それは俺に限ったことではない。周囲に集まっていたコボルト達もまた、一様に顔を綻ばせていた。
「これが……カラカルで食されるという……!」
マックスはソレを掴んで興味深気に眺めている。
その表情とは裏腹に、うっすら涎らしきものが見えているが気にしないでおこう。武士の情けというやつだ。
「それじゃあ早速食べようか。これは焼き立てが美味いからな」
俺がソレに齧り付くと、周りにいた者達も真似をするように齧り付く。
まあ、真似をするも何も、思うままに噛み付けば良いだけなんだけどな。
俺だけでなくコボルト達も魅了する物体。その正体はパンだ。森での食卓にパンが登場したのだ。
「良い匂いだ!」
「いくらでも食べれる!」
パンの評判は上々のようで、基本的に肉がメインのコボルト達も絶賛してくれている。
トードマンの反応も気になるところだが、この場にいない以上それはまた後だ。これからは食事にパンを普及する予定だし、パン以外の小麦を使った料理も増やしていく予定もある。その中で、皆の反応はいくらでも見ることができるだろうしな。
「マスター様、これはまた素晴らしいものをもたらしてくださいましたな!」
「いや、俺は何もしてないよ。カラカルで材料を手に入れたのとその調理法を手に入れたのはコテツだし、実際に作ったのは『料理』のスキルを持ったコボルト達だ。俺がしたことと言えば……見本を用意したぐらいなもんだ」
これに関しては俺はほとんど何もしていない。
目標とする完成品を見本として与えたけど、本当にそれだけだ。
そもそも、俺は森でパン作りができるとは思っていなかったのだ。本当の切っ掛けは支援者が遺してくれていたもの……窯の存在だった。
「あー……湯呑みで飲むお茶は美味いな」
俺は食後のお茶を味わっている、陶器の湯呑みで。ちょっとゴツゴツしているけど、それもまた味があるというものだろう。……価値とかはさっぱり分からないけどな。
この湯呑みはカラカルで入手したものではない、森で作られたものだ。
あれは三日ほど前のことなのだが、フロゲルが手土産といって渡してきたものがある。
本人曰く失敗作だと言っていたその手土産が、今俺が使っている湯呑みだった。その時初めて森に窯があることを知ったのだ。
聞けば、俺がカラカルに旅立つ頃には窯を使って陶器の作成を試みてたそうだが、道具として使えるものができたのは最近らしい。今ではそれまで使っていた石の食器に代わって、食卓を飾るほどにまでなっている。
それはさておき、窯があればパンが作れる。発案は俺の素人考えだが、作るのは『料理』のスキルを持つ、言わばプロ。その成果が皆の胃袋を満たすことになった景色を見れば、企みは大成功と言えるだろう。
さて、食事も済んだし食後のお茶も頂いた。
今日は何から手を付けようか……の前に気になることがある。
「なあ、マックス。服装変わってるよな?」
いくら俺が鈍感でも、目の前で食事していた人物の服装がいつも違うことぐらいは流石に気が付く。
今日のマックスの服装は、俺の新しい服とよく似たロングコート。材質はオウルベアだろうな、デザインなんかも俺の服とそっくりだ。
しかし気のせいかもしれないが……マックスの方が格好良い。
コボルトの中でも際立つ長身と筋肉質な体型、堂々とした立ち振る舞いが合わさっているおかげか、ワイルドな貴族……いや、海賊船の船長か。森にいるのに、何処かキャプテン的な雰囲気が出ている。
まあ、コボルトの長なんだし、これぐらい迫力がある方が良いのだろうけど。
「確かに新しい服に変えましたが……何か気に触ることでもありましたか?」
怪訝な顔を向けるマックス。
別に他意は無いけど、何か顔に出てたかな?
「何でもない。それより、服装が変わったのはマックスだけじゃないんだろ?」
全員というわけではないが、目に付くコボルトの中には明らかに仕立ての良い服を身に付けた者が散見されるのだ。
「ええ、そのとおりです。ベルは装備品の生産よりも、こちらに注力しているそうで。私としても普段着が防具並みの性能である以上、特に文句はありませんが」
そうだろうな。前まで着ていたような布の服とは、何もかもが比べ物にならない。
革鎧よりも丈夫で身軽、何よりデザインが良い。マックスは知らないだろうけど、カラカルの住人よりも遥かに良い服を着ているぞ。商人なんかが見れば、目の色が変わるかもしれないほどに。
昼は昼とて、ソフィやフロゲルと話をする機会があったが、やはり二人とも服装が変わっていた。
ソフィは薄手だがゆったりしたローブ、フロゲルはズボンだけ履いて上半身は裸だ。
ソフィは分かる。威厳を重視しつつ、動き回る邪魔にならないように無駄を少なくする仕様のローブだ。背中にはちゃんとシンボルマークが縫い込まれてある。
それを着こなすソフィ……以前にもまして年齢不詳で掴みどころがない。
対してフロゲルがよく分からん。
下手をすれば、他のトードマンよりも簡素な服装だ。服を着るのが嫌なのか?
(あんまり仰々しい服装は嫌いなんや。このパンツっつうのも変な締付けがあって気持ち悪いけど、ソフィさんが怒るからなぁ……。上は着んで? それは嫌や、マントで勘弁せえ)
なるほど、どうやら嫌らしい。
思えばフロゲルはボロ布をローブのように着ていただけだったし、百年以上もそんな格好なら仕方が無い……のか? まあ、別に良いか。下さえ履いてくれていたら大丈夫だ。色々と。
ともあれ、そんなこんなで今日も一日が過ぎていた。何も事件など無い、穏やかな一日だ。
キバとビークの報告をもって今日の業務はおしまい。あとは夕食とレクリエーションを残すぐらいだな。
「ふう……」
「お疲れ様です」
応接室のソファで一つ息を吐くと、ノアが労いの言葉を掛けてくれた。
別に疲れてるというわけではないが、何となく仕事を終えたという感覚でやっただけなんだけど……これがなかなか心に響く。
思えば、こういう生活がしたかったんだよな。
毎日やることは特に変わらない。だけど、皆の生活は少しずつ良い方向に変わっていく。
ダンジョンに転生だなんだと言っても、俺が求めてるのはこんな生活。激動する毎日じゃない。
激動と言えば、あと二日か。激動と呼ぶほどでもないが、二日後には新しい仲間を迎えることになるのだ。
その前に件の計画の方を成功させないといけないのだが……まあ、何とかなるだろ。そこはコテツに任せるしかないしな。
なんて考えていると……。
コンコン、コンコン。
応接室の扉をノックする音が聞こえた。
それに続く、ノックした人物の声。
「マスター、オイラニャ。コテツニャ」
「おお、コテツか。良いよ、入ってくれ」
「ちょうどお前のことを考えてたんだよ」と言いたいところだったが、そんな雰囲気でもなさそうだ。コテツは神妙な面持ちで部屋に入ってきた。
「マスター、ちょっと話があるんだニャ」
何だろう……胸がざわつく。