第89話 平原を行く ティータイム
「ここからはヴェルトの壁って見えないんだな」
周囲は見渡す限りの平原が続いている。
緩やかな傾斜には膝丈程度の草が生え、疎らに木々が群生している長閑な風景だ。
ヴェルトの壁は転生直後にダンジョンが接続された断崖絶壁。あれもドゥマン平原に聳え立っていたはずなのだが、その姿は全く見えない。
「見えるわけないニャ。ここからヴェルトの壁まで歩いて何日掛かるか分からないニャ」
俺の独り言に応えながらも、コテツは休憩するためにバルバトスから荷車を切り離していた。
自由になったバルバトスは草原を駆け回り、手頃な虫を食べ回っている。
大きささえ気にしなければ、放牧された鶏が駆け回ってる平和な光景なんだけど、バルバトスもデカければ、食べてる虫もデカいというちょっとしたシュールな光景だ。
「バルバトスは気が済んだら戻ってくるから放っといて大丈夫ニャ。ここらに危険な魔獣なんていないし、旦那も気を抜くニャ」
コテツの言うとおりだな。
俺も一応、辺りの警戒をしてみたけど、危険な魔獣の気配は全く感じられない。
せいぜいがホーンラビット……ランドモアもいるか。
あとはバルバトスが食べている、初めて見る虫型の魔獣ぐらいだな。それも特に目立ったスキルも無いし、気に止める必要も無さそうだ。
そうこうしている間にも、ノアが『収納』から椅子とテーブルを出してくれていた。
平原のど真ん中に設置された即席の休憩所だ。
「マスター、飲み物も用意してます。どうぞ、座ってください!」
「ああ、ありがとうな。じゃあ、いただくよ」
俺は椅子に腰掛け、用意されたカップを手に取った。
ん? これってお茶かな? 見た目と香りが紅茶っぽい。
早速、口を付けると……。
「おっ、美味いな」
「むむ……これはすごいニャ。グラーティアの花でお茶を作ってるとはニャ」
コテツが唸り声を上げている。
「はい! コテツさんの言うとおり、これはグラーティアの花で作ったお茶なんです!」
「へぇ……そうなのか」
花のお茶か。そんなオシャレなもの、前世でも飲んだ記憶が無いな。
うーん……確かにグラ―ティアの花の香りがする。
何か頭がすっきりするような感じもするな。そういう効果があるのか?
「マスター、美味しいですか?」
「めちゃくちゃ美味いよ。食後は毎回これを飲みたいぐらいだ」
「良かった! じゃあ、もっといっぱい作っておきますね!」
「ん? もしかしてノアが作ったとか?」
「はい! ボクが作りました!」
んん? どうやって? ノアのスライムボディに手足は無いぞ?
いや、ノアって何気に器用だしな。『収納』も手足のように使ってるし、出来ないこともないのか。
まあ、気にすることでもないな。うん、美味い。
「コテツは飲み過ぎだ。トイレが近くなるぞ」
「ニャハハ。こんなに美味しいお茶は、なかなかありつけないニャ。ヤパンで売る商品にも良いかもニャ」
それはそれで良いんだけど、コテツはマジで飲み過ぎだろ。
お茶とは別に用意された果物にも手を付けてるし、小さい体によく入るものだ。
「ふう……バルバトスはまだ帰ってこないし、せっかくだからこのまま旅程でも説明しようかニャ?」
「旅程?」
「そうニャ。もしかして、旦那は忘れてるかニャ? ヤパンまでの道程で立ち寄るのはラビットマンのところだけじゃないニャ。他にも寄るところはあるんだニャ」
そんなこと言ってた……気がしないでもない。
「その顔は忘れてたって顔だニャ。取りあえず、今向かってるのはカラカルっていう街ニャ」
「街? そのカラカルって街は、ここから近いのか?」
「まあ、五日ほどで着くかニャ」
「五日か……ちなみにヤパンまではどのぐらい掛かりそうだ?」
「どうだろニャ? 一か月はみてもらった方が良いかニャ」
おおう……一か月ね。
前に聞いてたヤパンまでの距離を考えたら、それも仕方無いか。
確かに徒歩よりは全然早いとはいえ、バルバトスの走りはゆっくりしたものだ。
それもそのはず、コテツは速度よりも安全を重視してバルバトスを走らせている。
平原に道なんて無い。
傾斜はあるし、石や地面の窪みなんかで車輪がもっていかれる可能性だってある。
安全な走行のためには時間が掛かるというものだ。
ここは時間を気にせず、長閑な旅を楽しませてもらうとするか。
「そんで、これからカラカルでの注意事項を説明するニャ」
注意事項か、それは大事だ。ちゃんと聞いておこう。
「まず、オイラが旦那の身元引受人になるニャ」
「身元引受人?」
「そうニャ。そうしないと、旦那はヤパンどころかカラカルにも入ることはできないニャ。手続きはオイラの方でするから、旦那は話を合わせてくれれば大丈夫ニャ!」
「話しを会わせるって……どんな風に?」
「うんと……そうニャ! 旦那はオイラの商売のために雇った使用人でどうかニャ?」
まあ、傍から見たら、俺ってコボルトの子供だしな。
森で拾われたコボルトの設定なら、俺でも自然に振る舞えそうだ。
「ところで、その設定だと俺がコテツを呼び捨てにしたらまずいよな? 俺が旦那って呼んだ方が良いんじゃないか?」
「ほえ? そこまでしなくても良いニャ。旦那がちょっと不躾に見えるかもだけどニャ」
「俺が不躾ね……じゃあ、そこは臨機応変にするとして、コテツが俺を旦那って呼ぶのは明らかにおかしいぞ。ほら、昨日は俺を呼び捨てにしただろ? それで行こう」
コテツはラビットマンのヒマリの前で俺をマスターと呼んでいた。
多分、咄嗟にそうしたんだろう。じゃないと、俺とコテツの関係が逆転してしまうからな。
「旦那がそれで良いなら、そうするニャ」
「俺のことは気にしないで良いよ。様付けされるのも、本当は好きじゃないんだ。よっぽど変じゃなければ好きに呼んでくれて良いぞ?」
「分かったニャ。マ、マスター……」
何でそこで照れてるんだ!? こっちも恥ずかしくなるだろうが!
……
謎の空気が漂う中、コテツはカラカルでの注意事項を説明してくれた。
それはカラカルについての説明も含まれている。
カラカルはヤパンに所属する街、であると同時にヤパンの北西を守る砦でもある。
何から守るのかというと、それはドゥマン平原の北に存在する国、テンプルムの侵攻から。
人間至上主義国家であるテンプルムは、獣人と人間が共存するヤパンを目の敵にしている節があるらしく、ヤパン建国以来、二つの国は犬猿の仲……と言うよりも、テンプルムが一方的にヤパンに干渉してくるそうだ。
それも、武力を用いた戦争紛いの方法で……。
そんなテンプルムの暴挙を背景に作られたカラカルでは、人の出入りには厳しい審査が行われる。
とは言っても、それは形式的なもの。よほどのことが無い限り、身分証明さえできていれば問題無く入場できるとのことだ。
俺の場合はコテツが何とかしてくれる。
詳しいことはよく分からないが、コテツは商人ギルドから現地人を雇う権利を与えられているらしい。
その権利を使って、俺を使用人として見受けするつもりなのだ。
得体の知れない現地人で大丈夫か? とも思ったが、コテツには重い監督責任が課せられているらしく、雇った人物がカラカル、延いてはヤパンに危害を加えた場合、コテツにも厳重な罰が下されてしまう。
となると、俺の行動如何でコテツの商人人生が左右されることもあるってことだよな?
コテツは気にするなって言ってるけど……気にするに決まってるだろ。
そんな思いも寄らないプレッシャーを感じている俺に構わず、コテツの説明は肝心の法律に関する部分に差し掛かっていた。
とはいえ、細かい法律はコテツもよく知らないらしいし、俺も聞いたところで覚えられない。
目下、やっちゃいけないことだけ教えてもらえれば良いな。
そんなつもりで聞いていたが、改めて注意することは……無いようだ。
日本の法律によく似ている。
窃盗、傷害、殺人、詐称、その他諸々……。
俺にとっては聞き慣れた遵守事項をコテツはとうとうと説明してくれた。
これなら大丈夫だ。大丈夫なんだけど……。
「旦那?」
「ん? いや、何でもない。それよりも、旦那に戻ってるぞ」
「うニャァ……ついつい言ってしまうニャ。マ、マスター……」
だから、変な照れ方するなって!
まったく……何に悩んでいたのか分からなくなっただろ。
またまた変な空気が流れたところで、バルバトスも満足したみたいで戻ってきたし、コテツの説明も切りが良いみたいだな。
気を取り直して、移動を再開するとしましょうか!