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思い浮かぶのは

 どこか遠くで甲高い悲鳴のような声が聞こえた気がして、わたくしはうっすらと目を開けました。

 見慣れない華美な装飾の天上が目に入って、少し首を傾げます。頭がじんじんとしびれるように疼いて思考の邪魔をするので、わたくしはただぼんやりと周囲を見回しました。


 どうやらベッドの上に寝かされているようです。肌触りの良いシルクでできたベッドカバーは残念なことに毒々しい赤で染められていました。大きなベッドの周りは天蓋から垂れさがった薄布で囲まれ、外の様子はぼんやりとしかうかがい知れません。

 身動きをしようと思って、違和感に気付きました。両手両足を細い縄のようなもので縛られています。

 …………なんですか、これは。

 一気に目が覚めました。


「むぐっ」


 何ということでしょう、ご丁寧にさるぐつわまで!

 わたくしは……、ロゲール様に一服盛られたのですね!?

 なんという不覚!


「むー! ん―――っ!」


 一通り暴れてみましたが、手足の縄も、さるぐつわも外れる気配はありません。それどころか皮膚がこすれたりしてひりひりと痛むようになりました。

 とりあえず暴れるのはやめて、薄布の向こうを観察してみます。

 人の気配はありません。室内は明るいようですが、照明器具というより自然光といった感じです。あれからどのくらいの時間が経ったのかわかりませんが、おそらくは昼過ぎくらいでしょうか――わたくしが丸一日も意識を失っていた訳でなければ。


 ああどうしましょう。早くお屋敷に戻らなければならないのに。

 レティツィア様はどうしていらっしゃるでしょうか。わたくしが戻らないことで、その繊細なお心を痛めていらっしゃらないと良いのですが。

 取り留めもない思考でそんなことを考えていると、薄布の向こうでドアの開閉する音が聞こえ、足音がこちらへ近づいてくるのを感じました。

 普通に考えれば、ロゲール様でしょう。わたくしは動かない手足を少しでも縮めるようにして身を固くしました。

 しゃっと薄布を掻きわけて姿を現したのは、やはりロゲール様でした。


「ああ、目が覚めましたか、ダニエラさん」


 ただし、何やら随分と雰囲気が違っています。くすくすと楽しそうに笑っていますが、瞳には険呑な光が宿り、どこか危険な雰囲気を醸し出しています。同じひととは思えないほど違って見える彼を、わたくしは為す術もなく茫然と見つめました。

 何が何やらよくわかりませんが、今が危機的な状況ということだけはわかります。わたくしはうまく動かない体でずりずりと後ずさりました。ですが、所詮そこはキングサイズとは言え狭いベッドの上、わたくしの背中はすぐにどんという衝撃とともに壁にぶち当たり、無惨にもあっけなく退路は絶たれました。


「暴れないでくださいね――まだ薬が効いているでしょう?」


 言いながら、ロゲール様がベッドの上にその身を乗り上げ、距離を縮めてきます。伸びてきた右手にびくりと体を震わせると、彼は楽しそうに笑いながらさるぐつわを外しました。


「……どうして、こんな、こと」


 薬のせいなのか、しびれたようになって上手く動かない口でどうにかそう言うと、彼はにっこりと微笑みました。


「あなたが私との結婚を断るとおっしゃるからですよ。純朴な人間の演技をしてまであなたに近づいたのは、あなたが自分の意志で私の元へ来ることを望んでいたからです」


 微笑んだ顔の中で、瞳だけが笑っていません。冷たい眼差しに、背筋が凍るような気がしました。


「わたくしが……断ったから、無理やりにでも妻にするとおっしゃるの……?」


「まあ、それも今となってはどうでもよくなってしまいました。あなたが望むなら、妻にして差し上げてもよろしいですよ。私が飽きるまでの間はね」


 どうでもいいとはどういうことでしょう。断ったことに腹を立てて、報復のような意味合いでこんなことをなさったのでしょうか。


「お、お怒りになったのなら謝罪いたしますわ。あなたを貶めるつもりはございません。この縁談があったことは他の者には言いませんし、実家に口止めも――」


 慌てて思いつくままに言葉を紡ぐわたくしをひたと見据えて、ロゲール様は愉快そうに目元を細めました。


「そうじゃありません。あなたは王子殿下の私邸で働くような身元のしっかりした方だ。他の女達とは違う。ですからあなたを手に入れる手段として縁談を持ちかけたまでなんですよ。あなたが私の妻となれば、後はどうなろうが誰にも文句のつけようがありませんからね」


 すっと眇めた温度を感じさせない冷たい瞳がわたくしを動けなくさせます。


「でも、こうなったからにはそれももう必要ないでしょう。あなたの勤めるお屋敷には、訪問中に具合が悪くなったようなのでしばらくお預かりすると、婚約者として連絡を入れておきましょう。そのまま実家に帰ることになっても不思議はありませんよね。ああ、もちろんあなたの母上とはお話を通して、正式にあなたを貰い受けるとご挨拶に伺いましょう。あなたは体調が優れないでしょうからここで留守番をしていただきますが、正式に婚約者となった私の側にいるとなれば、母上もご安心なさるでしょう?」


 わたくしは息を呑みました。この方は、わたくしをここから出すつもりはないとおっしゃっているのです。


「どうして……、どうしてそんなにわたくしにこだわるのですか」


 それは恋なんかではありません。冷徹な表情を見ていればすぐにわかります。この方はわたくしのことなど爪の先ほども好いてはおられません。

 なのに、なぜ凡庸なこのわたくしを。

 くすりと吐息のような笑いをこぼしたロゲール様の右手が伸びてきて、わたくしは反射的に肩をすくめました。その手は肩にかかった髪をひとすくいすくって、手触りを楽しむように撫でています。


「美しい赤毛だ……。ダニエラさん、赤毛だけなんですよ」


「おっしゃっている意味がわかりません。あなたは一体……」


「赤毛だけが足りなかったんです――他は揃っているのに」


 ぐっと近寄ってきた彼が、わたくしの髪に口づけを落としました。その様を至近距離で見せられて、わたくしの腕がぞわりと粟立ちました。


「やっ……やめてください」


 無機質な笑顔を近づけられて顔をそむけるも、ぐっと顎をつかまれ無理矢理に視線を合わせられました。


「味見も――必要かな」


 そう言ってどんどん距離を詰めてくる彼を見ていることができず、わたくしは手足を縮めてかたく目を閉じました。

 このまま貞操を奪われてしまうのでしょうか。

 生涯結婚するつもりのなかったわたくしの貞操など、どれほどの価値があるものでもないのでしょうが、それでも好意の欠片もない方に我身を好きなようにされるのは耐えがたい屈辱です。


 閉じた瞼の裏に浮かぶのは、胸の奥に沈めたはずの無表情。

 ああこんなことならいっそ。

 マルコ様に頭からばりばり食べられた方がまだ納得できたかもしれません。

 もう会うこともできないかもしれないけれど、どうか、わたくし以外の誰かを手にかけることのございませんように。無口で無愛想で鉄壁の無表情だけれど、それでも優しいあの方を犯罪者になどしたくはないのです。


 伝わらないであろう祈りを心の中で呟いた、まさにその時でした。

 天蓋の薄布の向こうでどかんと大きな音がして、驚いたロゲール様の動きが止まります。息を詰めるわたくし達の前で切断された薄布がはらりと舞い落ち、そこに立っていた方の姿があらわになりました。


「誰だ!」


 背後を振りかえったロゲール様の動きよりも素早く喉元に細身の剣の切っ先を突きつけたのは、誰あろうマルコ様でした。

 相変わらずの無表情ですが、背後に立ち上る怒気が見えそうなほど不機嫌です。彼の背後には蹴り飛ばしたと思わしき重厚な扉が無残にも床に伏していました。急いで駆け付けてくださったのか珍しく上下する肩に、わたくしは泣きそうになりました。


「そのひとを、返してもらおう」


 低い声でそう告げるマルコ様に、ロゲール様はふんと鼻を鳴らしました。


「彼女は私の婚約者です。あなたに一体何の関係が?」


「彼女はまだ当家の使用人だ。主の許可なく屋敷を去ることは許されない」


 冷静な低音に、ロゲール様の喉がごくりと動きました。


「貴様に何の姦計もなく婚約が成立したというのなら、主に報告して許しを得るがいい。――彼女の嘘偽りのない意志を以って」


 淀みなく淡々と告げられる正論に顔をゆがめたロゲール様が小さく舌打ちをして、指笛を吹きました。


「フランツ! 侵入者だ! 何をしている!」


 しかし、大声でどなったロゲール様に答えたのはフランツさんではありませんでした。


「フランツ……というのは廊下に倒れていたさっきのあいつかな? それとも玄関先で蹲っていた奴かな? 随分と怪我人がいたようだけど、彼らには聞きたいことがあるので憲兵に連れて行ってもらったよ」


「お……王子殿下!」


 床に倒れた扉を踏みつけながらも優雅に入って来られたのは他でもない王子殿下でした。背後には数人の憲兵を引き連れて、何やら物々しい雰囲気です。


「やあ、ダニエラ、無事でよかった。君に何かあったら手がつけられなくなっていたかもしれないからね。ああ、ロゲール・ブフナーというのは君だね。君にも聞きたいことがたくさんあるんだ。面倒は嫌いだから素直に協力してくれるととてもありがたいんだが」


 緊迫した雰囲気の中、王子殿下が場違いなほどにこやかな口調でそうおっしゃいました。


「ああ、それからこの屋敷は憲兵に囲まれている。逃げられるとは思わない方がいい。君も――それから、ここで不健全な遊びに耽っていた者たちもね」


 なにやら意味深なことを言って、王子殿下の目が楽しそうに細められました。反対に、ロゲール様の表情が苦々しげにゆがみました。


「くそっ……」


 小さくそう漏らしたロゲール様が、素早い身のこなしで懐に隠し持った短剣を引き抜き、わたくしの喉元に突きつけました。わたくしを人質にでもするつもりだったのでしょう。ですが、その目論見は一瞬のうちに崩れ去りました。

 わたくしの喉元に突きつけられた短剣は、マルコ様の一閃ではるか後方へ弾き飛ばされ、ロゲール様が怯んだ一瞬で間合いを詰めたマルコ様が彼を組み敷き、右腕をねじり上げました。抵抗する気力もなくなったロゲール様の様子にもマルコ様の手の力は緩まず、ぎりぎりと締め上げる力に痛そうなうめき声が漏れました。


「気持ちは分からないでもないが、その辺にしておけ。折れたら折れたで面倒だろう」


 王子殿下の呆れたような声がその場に響き、珍しく凶悪な表情でちっと舌打ちをしながらもマルコ様はロゲール様を憲兵に引き渡しました。

 わたくしはと言えば状況について行けず、目の前で繰り広げられた立ち回りに情けなくも腰を抜かしておりました。

 何が何やらわからないまま危機的な状況に陥って、やっぱり何が何やらわからないうちに解決してしまいました。ひとつだけわかったのは、マルコ様が息を切らして助けに来てくださったということだけ。


「上の階を見てくるからここは頼んだぞ、マルコ」


 王子殿下は何故かわたくしに意味深に目くばせをして、憲兵をぞろぞろと引き連れて部屋を出て行かれました。耳を済ませば、どたどたと走り回る物音や悲鳴など、何やらお屋敷全体が喧騒に包まれています。


「一体何が……」


 茫然と零れ落ちた疑問に答えは返って来ず、ゆっくりと近寄ってきたマルコ様が腕と足の縄を切ってくださいました。白い肌に縄の痕が赤く残り、それを見たマルコ様は少しだけ眉根を寄せられました。

 珍しく今日は表情が動きますね――と益体もないことを考えていたら腕をとられ、赤く腫れた手首の傷痕にマルコ様の唇が寄せられました。ぴりっとした痛みとともに、わたくしは大切なことを思い出します。

 わたくしこの方に近寄ってはいけないのでした!


「や、やっぱり食べられるのはちょっと嫌です………っ!」


 ぴしっと空気が凍りつきました。

 だって、腰が抜けているので逃げられないんです。ここはどうでも、自制していただくしかありません。マルコ様の今後の人生を慮ってのことですよ! 気をしっかり持ってください!

 心の中でエールを送るわたくしの手をとったまま、マルコ様はしばらく俯いていらっしゃいましたが、やがて顔をあげるとぽつりとおっしゃいました。


「……何か、誤解している」


「ご、誤解……? 一体何をですか?」


 おそるおそるそう聞くと、マルコ様はがしがしと乱暴に後ろ頭を掻きました。あれ、なんだか困っていらっしゃるようです。


「話は後だ」


 マルコ様はひとことだけそうおっしゃって、わたくしをひょいと持ち上げると肩の上に担ぎあげました。そのまますたすたと無言で部屋を出ていきます。

 ちょ、この体勢、お腹が圧迫されます! あとこれは荷物の運搬スタイルです。女の子を運ぶのならきっともっと適した運び方があるはずです。まあ、お姫様抱っこだけはわたくし断固拒否いたしますけれど。


 おっと、そういう問題ではありませんでした。

 疑問だらけなのですが、とりあえずはお屋敷に連れて帰ってくれるということですよね? 場所を変えてぱっくり……とかではないですよね。

 嫌な想像をしていると、背後からぽつり、小さな呟きが聞こえました。


「……無事で良かった」


 それはいつかも聞いたひどく優しい声で、お屋敷の皆にも聞かせてあげたくなりました。そうすればきっと、マルコ様に対する認識は変わると思うのです。

 ああ、でも。

 わたくしが知っていればそれでいいのかもしれません。

 その優しい声の向かう先を他の誰にも譲りたくないと傲慢なことを思いながら、わたくしはそっと目を閉じました。

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