策謀
翌日。
午後には王子殿下がお戻りになられるということで、お屋敷の中はどこかそわそわした空気で満たされていました。
その日の午前中、わたくしはヘルベルトさんに願い出て、半日のお休みをいただきました。
いつものお仕着せではなく、私服のワンピースに袖を通し、外出の準備を整えて裏口へ向かっていると、ヨハンナとすれ違いました。
「ダニエラさん、お出かけですか?」
「ええ。ロゲール様……縁談のお相手のところへお返事をしに行ってくるわ」
そう答えると、ヨハンナは何か聞きたそうな表情を浮かべましたが、結局何も言うことはなく、ただ小さく行ってらっしゃいと言いました。
お屋敷の裏門から出て、山の方へ足を向けます。
昨日聞いた山の斜面にあるあの豪邸。お仕事で王都に来られているということでしたので、きっとあそこにおられるでしょう。
天気は曇り。日差しがない分気温は上がりませんが、坂道を登っているとうっすらと汗をかきます。
レティツィア様は朝から妙にそわそわなさっておいででした。王子殿下が戻って来られるのがよほど嬉しいのでしょう。周囲の目を気にしない(主に王子殿下の)過度なスキンシップはどうかと思いますが、仲睦まじいおふたりを見ていると、結婚も素敵なものなのだろうと思えます。
午後にお戻りということでしたので、用事を済ませて急いで戻ることにしましょう。王子殿下がお戻りになられればその分仕事も増えるはずです。
そこでまた例の無表情が脳裏に浮かんで、わたくしはため息をつきました。
もう考えても仕方ないこと。わたくしは気付いてしまった事実を、再び心の奥底にしまいこんでしまうことにしました。胸の奥底、わからないほど深くに沈めて、いつか存在すら忘れてしまえればいい。
そうすることが一番いいのです。ズキリと痛む胸はきっと気のせいと自分に言い聞かせて、わたくしはただ坂を登り続けました。
やがてたどり着いたそのお屋敷は、途方もなく大きなものでした。石畳の道が巨大な門扉の中まで続き、門から建物の玄関は見えないほど大きな敷地には南国を思わせる木々が木陰を作るように植えられていて、足元の花壇には色とりどりの美しい花々が配されています。
余りの大きさにあっけにとられながらも、大きな門扉の前に立っている守衛さんのような方に、ロゲール様への取り次ぎをお願いします。しばらく待っていると、建物の方から中年の男性が現れました。
「ダニエラ様でございますね、ようこそお越しくださいました。わたくし、家令をつとめておりますフランツと申します」
「あ、ご丁寧にどうも。お約束もしていないのに突然押し掛けてしまって申し訳ありません」
深々とお辞儀するフランツさんに、わたくしもなんだか申し訳なくなってぺこりとお辞儀をしました。
「いえいえ、主もお待ちしております。さあ、どうぞこちらへ」
言われるまま足を踏み入れ、玄関から中へ入ります。
内装もそれはそれは豪華なものでございました。玄関ホールには手すりの磨きこまれたカーブの美しい階段があり、壁には大きな絵画がいくつもかかり、天井には巨大なシャンデリアが燦然と輝いています。
王子殿下のお屋敷も質のいい家具や調度にこだわっていてそれなりに豪華ではあるのですが、それとはまた違った趣です。なんというか……ここは落ち着きません。慣れていないせいもあるのでしょうが、なぜか寒々しいような気がいたします。
そんなことを考えながら歩いていると、フランツさんがぽつりとこぼされました。
「それにしても見事な赤毛でいらっしゃる」
「え? ……ああ、ありがとうございます……」
何と言っていいものかわからなかったのでとりあえずお礼を言っておきましたが、今のはなんだか褒められた気がしませんでした。どこか、品定めをされているような響きがしたような気がして。
家令ともなると、主の結婚相手のことを気にするのは当然のこと……なのでしょう。良くわかりませんが、赤毛が彼にとってのプラスポイントだったのかもしれません。
首をひねりながらもついて歩いていると、やがて彼は大きな扉の前で立ち止まりました。
「こちらでございます」
慇懃にそう言って頭を下げると、今度は扉に向き合いこんこんとノックをしました。
「ダニエラ様をお連れいたしました」
「お通ししてくれ」
中から短い返答が聞こえて、わたくしは一気に緊張します。フランツさんが恭しく開いた扉から、中に入りました。
「ああ、ダニエラさん。よく来てくれました。どうぞこちらへ」
奥に配置されている執務机から立ち上がったロゲール様が、部屋の中央にあるソファを指しておっしゃいました。言われるがまま繊細な花の刺繍が入った豪華なソファに腰掛けると、柔らかなクッションが沈みこみました。
「お茶の用意をしてまいります」とおっしゃったフランツさんがドアの向こうへ消えて、室内には少しだけ緊張感が生まれました。
「お約束もしていませんでしたのに、急にお訪ねして申し訳ございませんでした」
テーブルを挟んで向かい側に座ったロゲール様に謝意を伝えると、彼は、はははと軽い笑い声をたてました。
「いえいえ、お越しくださって嬉しいのですよ。あなたにいつかここをお見せしたいと思っていましたから。それにしても、今日はどうかなさったのですか? お屋敷の方はよろしいのですか?」
「今日は、午前中だけお休みをいただいたのです。……あなたに、お話がございまして」
わたくしがそう切り出すと、ロゲール様はすっと目を細められました。急に鋭くなった眼差しに、心臓が音を立てます。
「……今回の、お話のことなのですが」
「はい」
「やはりわたくしにはお受けすることはできません」
ロゲール様はしばらくじっとわたくしをご覧になっていましたが、やがて片手で目を覆うと、ひとつため息をつかれました。
「……そうですか」
「申し訳ございません」
「理由をおうかがいしても?」
わたくしは言葉に詰まりました。
理由というなら――それは。
言葉を発することのできないわたくしをちらりと見て、ロゲール様は微笑まれました。
「どなたか想う方でもいらっしゃるのですか」
憎らしい程の無表情。
胸の底に沈めた気持ち。
それらを振りきるように、わたくしは首を振りました。
「いいえ、そうではありません。わたくしは、どなたとも結婚するつもりはないのです」
「……そうですか。それならいいんです」
わたくしはソファから立ち上がると深く腰を折りました。
「わがままを申しまして大変申し訳ございません。では、わたくしこれで――」
「ああ、待ってください。お話はわかりました。でも、今せっかくフランツがお茶の用意をしていますから、せめてそれだけでも召しあがって行ってやってくださいませんか」
ロゲール様の言葉に合わせたように、ノックの音が響きました。
「お茶の用意が整いました」
フランツさんの言葉を受けてロゲール様は「ね?」とわたくしに目くばせをし、ドアの向こうに「入れ」と声をかけました。音もなく室内に入り、手際良くお茶の用意をするフランツさんを前に、わたくしはすっかり出ていくタイミングを失ってしまいました。
仕方なく間抜けにもソファに再び腰をおろし、目の前に置かれたお茶のカップを手に取ります。それは嗅いだ事のない香りをしていました。口に含むと、鼻の奥を爽やかな香りが吹き抜けていくようでした。
レティツィア様付きとなってからお茶のことばかり考え、ありとあらゆる茶葉を試してきたわたくしでさえ知らない香りに、わたくしは夢中になってしまいました。
「変わった香りがしますのね、こんなお茶は初めてですわ」
「気に入りましたか?」
「ええ」
「それはよかった」
くすっと空気を震わせるように笑う声が、どこか遠くからのように聞こえました。
「ああ、それにしても――なんて美しい赤毛だろう」
なぜか霞んで行く視界に、わたくしは手に持っていたカップを取り落としました。ワンピースの裾にかかった水滴を払うこともできず、力の抜けた体をぐったりとソファに投げ出したわたくしの耳に、ロゲール様の声がうるさい程に反響します。
「ねえ、ダニエラさん。私は五人の妻を持ちましたが」
なんなのこれ、と疑問は声になりません。いうことを聞かない体はただ重たく、瞼ですら開けているのが困難になって目を閉じたわたくしの耳に最後に聞こえたのは、ロゲール様のとても楽しそうな声でした。
「赤毛は今まで居なかったんですよ」
* * * * * * * * *
恋に落ちたというなら、多分あの時だと思う。
俺は昔から無表情で無愛想で地顔が怖ろしいという三重苦を背負っている。これでも幼い頃は愛想笑いのひとつも練習したものだが、それをのぞき見ていた無駄にきらきらしい王子に『さらに凶悪になるからやめた方がいい』と半笑いで言われてからは、無駄な努力を諦めることにした。
別に誰に怖がられようと、仕事に支障はない。むしろ煩わしい人間関係から解放されて楽なくらいだ。そうやって一生を淡々と過ごしていくものだと思っていた。
あれは、二年程前のことだろうか。
膨大な書類仕事に鬱々としてきて、気分転換に裏庭に出た時だ。夕暮れの裏庭には誰もいなくて、ぼんやりと木を眺める俺の耳に、みゃあみゃあとなにかが鳴くような声が聞こえた。薄闇の中目を凝らして見ると、どうやら木の根元に野良猫が生んだらしい仔猫が二匹、よたよたとうごめいていた。
動物は嫌いじゃない。特に子どもとなると可愛いものだ。無表情ながらほほえましい気持ちで眺めていると、裏口から出てきたメイドが『あら』と声を上げた。
この屋敷に王子が住む前からここで働いているメイド。特に興味があるわけではなかったが、赤毛が珍しかったので記憶に残っていた。
――しまったな。
視線の先をたどって仔猫に気付いたらしい彼女に、俺は動かない表情の下でそう思った。
みゃあみゃあと姦しく鳴き声をあげる仔猫を凝視する無表情で地顔の怖ろしい男。
こういった場合、まず間違いなく俺が鳴き声を不快に思っていると勘違いされる。そして『申し訳ありません』とその者の罪でもあるまいにひたすら頭を下げ、止める間も与えずに『捨ててまいります』とばかりに仔猫の首根っこをひっつかんで連れて行ってしまうのだ。
親猫が側にいない以上仔猫を動かすのは忍びないし、何より人間の匂いが仔猫についてしまえば、親猫が育児を放棄する可能性がある。親に見捨てられてしまえば、この仔猫たちは死ぬよりほかはないのだ。
俺が見ていたばかりにそんな憂き目に合わせるのはあまりに申し訳なく、そっとしておいてやって欲しいと口を開きかけた俺の目の前で、彼女は振り向いてにこりと微笑んだ。
『可愛らしいですわね』
瞬間、言いようのない感情で胸が満たされた。
なんて単純なことだろう。
俺は知らなかった。
ただ理解してもらえることが、こんなにも嬉しいことだったなんて。
「マルコ、荷物を書斎へ運んでおいてくれ」
王子の言葉で我に返る。
……一週間の視察で顔も見られなかったものだから、少し感傷的になっているのかもしれない。
彼女はどこか普通の人間とは違っているようだった。
なにしろ、この俺の無表情をものともせずに気安く近づいてくる。当然のように他のメイドから怖れられている俺と接点を持つ機会は増えた。
彼女となら、俺は自分の挙動が相手にどのような影響を与えるのかをいちいち考えなくていいことに気がついた。もちろん、王子やヘルベルトなど、他にも取り繕う必要のない者はいたが、女性相手ならば、面倒を避けるためにもことさら気を使わねばと思っていた俺には新鮮な事実だった。
それはとても楽で。今まで自覚さえなかった肩の力が抜けていくような気持ちだった。
だというのに。
俺は手痛い失敗をしてしまったようだ。
一週間前。躓いた彼女を支えた腕の感触。鼻をくすぐる彼女の香り。目の前の細くて華奢なうなじ。そんなものに理性をとばしてしまった俺は、結果彼女に何やらとんでもない誤解を与えたらしい。翌日の彼女の警戒する様子が脳裏に焼き付いて離れない。
視察の間中、すぐにも飛んで帰って誤解を解きたかったし、全部知っていて敢えて放置している悪趣味な王子は半笑いで俺の様子を観察していて、殺意が芽生えるほどうっとおしかった。
『お前が手を伸ばさないからだろう。何をそんなに怖がっている?』
王子はそう言った。
あのひとにはわからないのだ。拒絶という言葉から縁遠いあのひとには。
拒絶され続けた俺が手に入れた数少ないもの。
それにさえ伸ばした手を振り払われたとしたら、俺はきっと世界の全てを諦めてしまうだろう。
だから、早く誤解を解きたいと思う一方で、顔を合わせるのが怖くもあった。最後に見た表情は、俺を受け入れているとは言い難い表情だったから。
胸の内にもやもやしたものを抱えながら、荷物を確認する。
視界の端に映る王子は、出迎えた王子妃を玄関先で抱きしめて至福の表情を浮かべている。執事長のヘルベルト以外は視線を彷徨わせながら羞恥に耐えているようだ。使用人達に深く同情しながら荷物を運ぼうとしていると、見慣れた赤毛がそこにないことに気がついた。
「あの、王子殿下、ちょっ……は、話を」
王子妃が抵抗している。珍しいことに、あれは割と本気の抵抗だ。そろそろ離さないと鉄拳制裁が――。
「話を聞けって言ってんでしょっ!」
……遅かった。
王子が「ごふ……っ」とつぶれたヒキガエルのような声を出して崩れ落ちた。よりにもよって腹部だ。王子妃だけは怒らせてはならない。……いや、本当は女の拳を避けられないようなひとじゃないから、あれはあれで嬉しいのかもしれない。王子としてその性癖はいかがなものだろうか。
まあ……、仲が良くて何よりだ。
遠い目で結論を出し、荷物を両手に持ったところで耳に飛び込んできたのは、王子妃の慌てた声だった。
「あの、ダニエラさんが戻って来ないんです。お休みは午前中だけだったのに」
ヘルベルトも心配げに頷いた。
「今朝急に午前休が欲しいと言われまして、王子殿下方のお戻りの前に帰ってくるならと、了承したんですが、午後になっても戻ってまいりません。無断でそういうことをするような娘ではありませんから、少し気にかかりまして」
王子が腹部を抑えながらよろよろと立ちあがる。
「……彼女がどこに行ったのか知っている者は?」
王子が周囲を見回すと、若いメイドがおずおずと片手をあげた。
「わ、わたくしダニエラさんがお出かけになる前にお見かけしました。縁談のお相手のところへお返事に行くとおっしゃって」
……縁談だと?
なんだそれは。聞いていない。
口には出していないはずなのに、何人かがこちらを見て息を呑んだ。皆一様に青ざめて後ずさった。
「縁談? 私は聞いていないが」
王子がヘルベルトに視線を向ける。
「わたくしも把握しておりません」
困ったように眉尻を下げたヘルベルトと王子に王子妃が声をあげる。
「ダニエラさんはお断りになるおつもりだったようです。だから、わざわざ報告しなくてもいいと思われたんだわ。私も、知ったのは昨日で――」
言葉の途中で王子妃の表情がみるみる青ざめていく。
「……私のせいかもしれません。私が余計なことを言ったから……! わ、私、探してきます!」
取り乱した様子で今にも飛び出そうとする王子妃の肩を抱いてなだめながら、王子がふむ、と唸った。
「大丈夫だから少し落ち着きなさい。その縁談とやらの相手を知っている者はいないのか?」
使用人同士が気まずげに視線を合わせる中、先程の若いメイドがおずおずと口を開いた。
「あ、あの……聞き間違いでなければ、ロゲール様、と……」
「ロゲールって……まさかロゲール・ブフナーか!?」
王子の驚いたような声が耳に入る前に、体は動いていた。
「マルコ! ……ああもう、私が追いつくまで滅多なことはするんじゃないぞ!」
玄関を駆け抜ける背中を追いかけてきた王子の声は少し苛立ったような声だったが、知ったことではない。外につないだままだった馬の背に飛び乗ると、ロゲール・ブフナーの別邸であるこれ見よがしな豪邸に向けて駆け出した。