自覚
断るのならもう少し自分を知ってからにしてくれとロゲール様はおっしゃいました。それはとりもなおさず、多少なりともわたくし達のお付き合いが始まるということであり、少なくとも顔も合わせないでいては当然成り立たないことでありまして。
「今日もいい天気ですねえ」
「……そうですわね」
抜けるような青空の下、お屋敷の近くにある広場に設置されたベンチに座って年寄りくさい会話を交わす相手はもちろんのことながら、ロゲール様なのでありました。
初めてお会いしたあの日から今日で六日、彼はわたくしの休憩時間を狙ってやって来るようになりました。毎日毎日、ほんの少しの休憩時間にお屋敷の外で会い、お散歩がてらお話をして別れるという、年寄りの散歩仲間もかくやという日課をこなしているのです。
それにしても、訳知り顔の仲間達に生ぬるい目で見送られる時のあの屈辱……、このような辱めを許してしまうとは、わたくし一生の不覚であります。
とはいえ、一度決めたことを舌の根も乾かぬうちに撤回するというのは何とも体裁が悪く、結果、わたくしはこうして身を切られる思いで現状に甘んじている訳でございました。
広場には屋台がたくさん出ていて、昼時を少しばかり過ぎていましたが、昼食を買い求める人たちで大混雑しています。少し離れたベンチからその様子を眺めながら、先程買ったサンドイッチをもそもそと口に運びました。
あまり食の進まないわたくしに気付いて、ロゲール様が心配そうな表情を浮かべます。
「食欲がないのですか?」
「えっと、そういう訳ではないんです。やっぱりあのおネエ……いえ、当家のシェフが作るものはとてもおいしいのだと再確認しただけですわ。あ、いえ、これはこれでいいんですけれど、その、どうも慣れないというか……」
言い訳を始めると収拾がつかなくなりました。困ったようにごにょごにょと言葉を濁すわたくしに、ロゲール様はにこりと微笑みました。
「ああ、あの面白い方。あの方シェフだったんですね」
アンディさんの奇行を『面白い』で片づけられる方はなかなかいません。なんという懐の広さでしょう。良かったですね、アンディさん。気持ち悪いって言われなくて。
なんとかごまかしおおせたものの、食欲がないのは事実なのです。
わたくしから食欲を奪ったのは、何もロゲール様との縁談のせいばかりではございません。王子殿下が視察に出られて今日で六日。明日にはお戻りになられるのです。マルコ様を伴って。
そう、わたくしは柄にもなく緊張しているのです。
いくらあのお屋敷に骨を埋める覚悟をしているとはいえ、早々にその日を迎えたい訳ではありません。わたくしはレティツィア様のお子様のお世話もして差し上げたいし、あわよくば、お孫様のお世話だって買って出る所存です。可愛らしいに決まっているレティツィア様のお孫様に、ぜひともばあやと呼ばれてみたいものではありませんか!
そんなめくるめくばあやライフを脅かす唯一の脅威、それがマルコ様の存在でございます。
せっかく一週間も安寧の期間があったというのに、どうしてこうもマルコ様のことばかり考えなければならないのでしょう。これじゃあ心も休まるどころではありません。
ふう、と知らず知らずのうちに出ていたため息を聞いて、ロゲール様が気まずそうにおっしゃいました。
「今日はもう戻りますか?」
そのひとことで我に返ったわたくしは、ロゲール様にものすごく申し訳ない気持ちになりました。自分のことを知ってほしいとおっしゃるこの方と共にいて、わたくしの頭の中はマルコ様のことばかり。なんて失礼なことをしているのでしょう、わたくしときたら。
「あ、いえ、すみません、大丈夫ですわ」
謝りながら頭の中でなにか話題を探します。
「えーとえーと、あ、そうですわ。ロゲール様はいつまで王都にいらっしゃるんですの?」
「そうですねえ、まああと一週間くらいでしょうか」
「王都にはどのようなご用事で?」
「王都で商売をしていまして、そちらの経営状況を確認しに」
「まあ、どのような?」
「サービス業ですよ」
言いながら、彼は付近に立ち並ぶ建物のそのまた向こう、山の斜面にぽつんと佇む豪奢な建物を指差しました。
「ほら、あれです」
何とも大きな建物です。遠目にも綺麗に整えられた大きなお庭があり、たくさんの緑に囲まれた豪邸。外見だけで考えると、宿泊施設か何かでしょうか?
なるほど、領地の税収のほかにも収入源があるということですね。この方はなかなかにやり手のようです。
それにしても羽振りのいいことです。王都にこれだけの設備を用意しようとなると、資金は目玉が飛び出るほどの額になるでしょう。母は金持ち金持ちと下品なほどに連呼していましたが、ここにきてそれにも頷けました。頑張れ、弟よ……。
「ロゲール様の領地は収入が安定していらっしゃるのね。我が家は毎年毎年綱渡りのようでして……」
頼りない弟の顔を思い浮かべながらため息交じりにそう言うと、はははと軽い笑い声が響きました。
「実は小規模ながら鉱山がありましてね。あれがなければこう上手くはいっていなかったかも知れませんねえ」
「鉱山が。それはいいですわね」
なんてうらやましい。うちの裏山も掘ったら何か出てこないものでしょうか。鉱山とまでは言わなくても温泉とか。後でレオンに手紙でも書いてみましょう。
「ダニエラさんの実家はどんなところですか?」
そう聞かれて考え込みます。でもまあ見栄を張っても仕方ありませんので、正直に答えることにしました。
「……特にこれといって何もありませんわ。あるのは畑と森くらいです。でも、領民の皆さんはいい方達ばかりで」
幼い頃のことを思い出して、ふふっと笑いがこぼれました。
「何もないものだから、馬に乗って駆けまわるくらいしか楽しみがなかったんです、子どもの頃は。そうやって弟と日がな走り回っていると、領民の皆さんが声をかけてくださって」
人柄の良さだけが取り柄だった父を放っておけなかったのか、領民たちは親しくしてくれました。日焼けで真っ黒になりながら毎日領地を駆けまわっていた私達にも、やれ野菜を持って行けだの冷やしたスイカ食ってけだのと、かいがいしく面倒を見てくれたものでした。いまだに実家に帰るたびに隙あらば菓子を握らせようとしてくるのは困りものですが。
「ああ、それに、何もないのも悪いばかりではありませんでしたわ。一面黄金色の麦畑の向こう側に日が沈む景色は本当に綺麗で、飽かず眺め続けていたものです」
今のお屋敷から見える海に沈む夕日もとても美しいものですが、やはり原風景たるあの景色はわたくしにとっては特別なものでございます。
そう話すわたくしを、ロゲール様は目を細めてご覧になっていましたが、やがてにっこりと微笑みました。
「素敵なところなのですね。――でも、やはりあなたなら、私の領地でも上手くやっていけそうだ」
「あら、わたくしどうせ田舎娘ですものね」
少しだけ甘くなった雰囲気になんだか気恥ずかしさが押し寄せて、わたくしがつんと顎をそらしてみせると、彼はわたくしが拗ねたと思って慌てたようでした。
「いえ、そういうことではなく! 田舎を厭わしく思うことなく、良いところを見つけようとする前向きさはとても素敵ですし、領民の中に混じって親しくできるあなたの気さくさは得難いものであり、領主の妻として理想的な資質であると……」
「ああああの、恥ずかしいのでもうやめてください」
突如始まった褒め殺しに耐えきれなくなってそう訴えると、ロゲール様はぴたりと口を噤みました。真っ赤になったふたりの間を生ぬるい風が吹き抜けていきました。
「す、すいません」
「いえ……」
それ以上会話は続かず、わたくし達は黙ったままもそもそと食事を終わらせてお屋敷に戻ると、蚊の鳴くような声でじゃあと言って彼は帰っていきました。
その後ろ姿を眺めながら、わたくしは考えます。
どうやら彼はとてもいいひとのようです。おそらく、二十七歳行き後れの結婚相手としては破格と言っていい程の相手でしょう。母の手腕にはさすがと言わざるを得ません――まあ、母は人格に関しては清々しい程にはるか後方に置き去りにしていたようですけれど。
彼と結婚すれば、おそらくは何の不足もない人生を送れるのでしょう。それなりに幸せで、それなりに平穏な。
ああそれでも、そんなにいいひとを前にしてもわたくしの心は少しも結婚に傾くことがありません。いっそ何かの精神的欠陥でもあるのでしょうか。申し訳なさと情けなさでため息が出ます。
お屋敷の裏門をくぐり、裏口から中に入ると、使用人の休憩室にいつものように同僚たちが集まっていました。好奇心に満ちた瞳を覚悟していたわたくしの予想とは裏腹に、微妙に挙動不審な彼らの態度が目につきました。
「……なあに、どうかしたの?」
ちらちらとこちらを見ては気まずげに目を逸らしたり、もじもじ髪やエプロンの裾をいじったりしている同僚達に尋ねると、彼らは明らかに動揺しました。
「なッ、なンデもなイノヨ!」
「アンディさん、片言になるほど動揺しています。あとくねくねするのやめてください気持ち悪いですから」
部屋の隅で蹲って床にのの字を書いているアンディさんは放っておくとして、何となく年下を問い詰めるのはなんだか後味が悪いような気がしたので、わたくしはマリーに向き合いました。
「何かあったの?」
「あー……、えっとぉ」
苦い表情で目を逸らしました。宙を彷徨う視線はどうやら何かを誤魔化そうとしてるようです。
「……あなたの旦那様に若かりし頃の世にも恥ずかしいあれやこれやを」
「話しますごめんなさい」
あっさり陥落しました。ふん、ちょろいもんです。
腕組みをして話を促すと、椅子に座ったままのマリーは上目づかいで窺うように見上げてきました。
「……妃殿下にばれちゃった」
「何が」
「あんたの縁談のこと」
「はあ!?」
あまりの事態につい大きな声が出ました。
「ばれちゃったってどこまで!?」
「んー、全部?」
てへっと舌を出しながら右手で自分の頭を小突いてみせる、いつ見てもイラッとするポーズをとりながら白状したマリーの両肩をがしっとつかんでゆさゆさとゆすぶりました。
「ちょっ……、わたくし秘密にしてってお願いしたわよね! 何でそんなことになっているの!」
「たまたま廊下側の窓からご覧になってたらしいのよね、あんたが例の彼と連れだって歩いてるとこ。そんで事情を聞かれたカルラがあることないことぺらぺらと……」
「あら、事実しかお話していませんわ!」
カルラが憤然として言い返しました。
「そういう問題じゃありません!」
ああ頭痛がしそうです。どうしてこうも思い通りにいかないのでしょう。一番知られたくなかった方に情報が漏れてしまったとは……。
「あ、あの、カルラさんは悪くないと思います。その、妃殿下はダニエラさんのこと気にしていらっしゃいましたから、少しでも妃殿下が安心してくださったらとカルラさんは思ったんですよね……?」
「もちろんそうですわっ」
ヨハンナの遠慮がちな援護射撃にカルラがしたり顔で頷きました。ヨハンナの善良さにこれ幸いと乗っかりましたね。
ものすごく腑に落ちませんが、事情は何となくわかりました。
わたくしが男性と連れだって歩く姿を目撃され、結婚が近いのかと妃殿下は思われたのでしょう。中堅としてそれなりの働きをするメイドが辞めてしまうとなれば、欠員の補充をしなければならないのではないかとお考えになるのは当然です。
なんてことでしょうか。さらさら受ける気のない縁談でレティツィア様にいらぬご心配をおかけしてしまうとは不覚の至り。
ここは一度、きちんと自分の考えをお伝えしておいた方がよろしいでしょう。そうと決まれば、善は急げ。
「……わたくし、お話してくるわ」
ぐっとこぶしを握り、そう宣言すると、同僚達の心配そうな視線を背に受けながら、休憩室を出ました。
時間的にもちょうどいいかと思い、お茶の用意をしてレティツィア様のお部屋へ向かいます。本日のお茶はレティツィア様のお気に入り、蜂蜜はお取り寄せのとっておきです。
お部屋の前でノックをすると、中から「どうぞ」と返事がありました。「失礼します」とお部屋に入ったわたくしを見て、レティツィア様は少しうろたえられたようでした。
「お茶をお持ちいたしました」
「あ……はい、ありがとうございます」
何事もなかったかのようにお茶の用意を進めるわたくしを、レティツィア様はちらちらと気遣わしげにご覧になっています。……なんだかこちらまで緊張してきました。
十分に葉を蒸らしたお茶をカップに注ぐと、ふわりとお茶の香りが漂って、少しだけ平常心を取り戻しました。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
優雅な身のこなしで椅子にお座りになったレティツィア様は、テーブルに用意されたお茶に蜂蜜をこれでもかとお入れになり、一口お飲みになると、カップを置いて物憂げなため息をつかれました。
「……あの、お耳にお入れしておきたいことがあるのですが、少しだけよろしいでしょうか」
わたくしが思い切ってそう口火を切ると、レティツィア様はかたい表情で頷かれました。
「既にお聞き及びかとは存じますが、この度わたくしの縁談が持ち上がっております」
「ええ、カルラさんからお聞きしました。マルコさんのいないときで良かったですよね……。あ、その、ごめんなさい、こんなお話、自分のいないところで話されるのは嫌ですよね」
なぜそこでマルコ様のお名前が出てくるのかはともかくとして、どうやらわたくしではなくカルラから聞き出したことを気にしていらっしゃるご様子。わたくしなどの心中を慮ってくださるなんて、なんとお優しい方でしょう。
「いいえ、レティツィア様に非はございません。どうせカルラが面白おかしくお話したんでしょうから」
それはもう生き生きと大袈裟な盛り付けで話す様が目に浮かぶようです。こうなってしまっては、盛りが少しでも少ないことを祈るほかありません。
気分を切り替えるように、わたくしはごほんと咳払いをして続けました。
「先日実家に戻った際、母からお話を聞いた時にお断りさせていただいたのですが、どうも先方とは連絡が行き違いになってしまったようでして。先日初めてお会いした折にもお断り申し上げておりますし、今後もこのお話をお受けするつもりはありません」
「そうですか……」
心なしか、レティツィア様がほっとされているような気がするのは、わたくしの自惚れでしょうか。
「ええ。わたくしは当分結婚するつもりはございません。このお屋敷で、レティツィア様のお側にお仕えしていたく存じます」
プロポーズでもするような心構えでわたくしの気持ちをお伝えすると、レティツィア様は整った眉根を少しだけ寄せて、困ったような表情を浮かべられました。
「お気持ちはとても嬉しいのですが……、そういう訳にもいかないのではないでしょうか」
「そ、れは……どういうことでしょうか?」
レティツィア様の伏せた視線に戸惑いながら聞き返します。
「直接の雇用主は王子殿下ですが、私も一応このお屋敷の女主人ということになるので、使用人の方々にはそれなりの責任があります。ましてやご実家を出て王都へ出ていらっしゃったんですもの、本当は私達がそういう御縁を探して差し上げるべきだったのではないかと……」
そこまでお聞きして、ひとつの可能性に考えが思い至りました。
「ま、まさかわたくしの母か弟が何か失礼なことを……!?」
あの母ならば、娘が仕えるべきお家に文句をつけるなどという大それた真似ですらやりかねません。娘の職場での仕事環境に気を使うとは到底思えませんし、使えるものは何でも使う貧乏性の典型のような母です。
弟に関しては、わたくしに気を使うというよりかは、どうでもいいという方がきっと本音でしょうが、わたくしの結婚に関しては無言を貫いています。しかしそれでも、鬼のような形相の母からせっつかれでもしたらきっと断れないでしょう。ああ教育って怖ろしい。
しかし、怖ろしい想像をして血の気がひいたわたくしを見上げて、レティツィア様は驚いたように否定なさいました。
「いえ、そういうことではないんです」
わたくしがほっと息をつくと、レティツィア様は難しいお顔で続けられました。
「でも、私、ダニエラさんのご家族に申し訳なくて」
「うちの家族のことなど気になさらずとも」
図太いひとばっかりなんですから、と言いかけたわたくしを制して、レティツィア様が申し訳なさそうに俯かれました。
「私が右も左もわからないまま、ここへきてからダニエラさんには本当に良くしてもらって……だから、甘えていたんです。でも、私の都合だけでダニエラさんをここに縛りつけるわけにはいきませんもの」
レティツィア様が手にしたカップの水面がゆらりと揺れて、そこに移ったお顔がゆがんだように見えました。
「私は両親を早くに亡くしましたから今となってはもうわかりませんが、今、皆さんに囲まれてとても幸せに暮らしている姿を見たら、少しでも喜んでくれたんじゃないかなって思うんです。それは何も私が王家に嫁入りしたからではなくて、ただ私がひとりの女性として幸せでいるということを」
その言葉はわたくしの胸に響きました。
レティツィア様にとってご家族はもう王家の方だけなのです。死に目にも会えなかったというお母さまに、お見せしたくてもお見せすることは永遠に叶わないのです。
「ダニエラさんのお母様も、ダニエラさんの幸せを願っていらっしゃるんです。ですから、私がどんなにダニエラさんを頼りにしていても、いつまでも――このままではいけないと思うんです」
雷に打たれたような気持ちというのは、こういうものを言うのでしょう。
わたくしは、己の不甲斐なさを思い知らされました。
レティツィア様がわたくしを頼りにしてくださっているというのは、舞い上がるほどうれしいお言葉です。わたくしだって、叶うことならば動けなくなるその日まで、レティツィア様のお側でお世話をして差し上げたい。
ですが、その気持ちがレティツィア様を悩ませてしまっているようでした。わたくしは自分の気持ちが大事なばっかりで、レティツィア様のお心をちっともわかっていなかったのです。
こんなことで主に心痛を与えるとは使用人失格。
わたくしは、レティツィア様の生活から憂いというものをひとつ残らず消し去ってしまいたいのです。しかし、今やその憂いの原因のひとつにわたくしがなってしまっているとは、何という悲劇でしょう。
「ですから、その、今回のお話がどうこうということではなく、結婚とか、恋愛とか、そういうこと自体について少しお考えになってみてほしいなって。意外と身近な所に目を向けてみるのもいいんじゃないかなって思うんですよね……えーと、ほら、幸せって案外近くにあるって言いますし……」
レティツィア様がうんうん唸りながら何やらお話してくださっていましたが、恐れ多くもわたくしはそのお話のほとんどを頭に入れることができず、ただただ思考の海に溺れていました。
何度か問いかけられた問いにも、やっとの思いで「はい」「そうですわね」と答えたものの、問いの内容すら覚えていないとなれば、わたくしが如何に取り乱していたかをお分かりいただけることでしょう。
気がつけば、わたくしは後片付けをしてレティツィア様のお部屋を辞し、使用人の休憩室でマリーにひたすらつむじを見せ続けるという嫌がらせを決行していました。
洗濯婦であるマリーは、朝洗濯物を干してしまえば乾くまで時間があるので、空いた時間はアンディさんの料理の下拵えなどを手伝っていることが多いのですが、今日はそれもないようでした。
「で、妃殿下はあんたがいい年をして独身なのをとても気にしていらっしゃると」
「…………………うん」
「ご家族に対しても申し訳ないと」
「…………………うう」
「あんたに感謝はしているけど、いつまでもこんな状態じゃいけないと」
「…………………う、うぇ」
「……なんか妻子持ちの中年不倫相手に捨てられたみたいだね」
「うわああん、わたくしどうしたらいいの!」
故郷を離れて十年余り。わたくしの居場所なんてここにしかないと思っています。
ああ、ですが、わたくしがここに居座ることによってご迷惑をおかけすることになるならば、それは決して本意ではありません。そんなことになるくらいならば、わたくし荷物をまとめて実家に帰らせていただきますとも。
「もう腹くくるしかないんじゃないの?」
マリーはなんでもない風に言います。
そりゃあ、マリーは子どもこそいないものの、結婚して数年がたち、結婚生活のなんたるかなど良くわかっていて余裕なのでしょう。しかも彼女の場合は恋愛結婚ですから、そんな気楽なことが言えるのです。
「マリーだってわたくしの立場ならそんなこと言えないと思うわ」
うらみがましい目でじっとり見上げると、マリーは緑の瞳をくるりと揺らしました。
「そうかなあ……。逆に結婚の何がそんなに嫌なの?」
「嫌っていうか……だって今の今まで他人だったひとが急に家族になるのよ? それって結構すごいことじゃない」
「あんた……好意ってもんはきれいさっぱり置き忘れてる訳? 結婚なんて一緒に暮らしてるってだけで子どものいない内はお付き合いしてるのとそう変わんないわよ。好意を持ってる相手なら、知らなかったことを知っていけるのは結構楽しいことだし」
「こ、好意……」
そう言われて、頭に浮かんだのは、あの日の強い眼差しでした。
いつになく強い視線。聞いたことのなかった声音。一瞬の唇の感触。
思いだした途端、一気に顔が熱くなりました。
いやいや、こんなのは間違っています。少なくとも、今思いだすべき顔じゃありません。わかっているのに、その無表情は簡単には消えてくれなくて、わたくしは途方に暮れてしまいました。
気付きたくなかった事実は、ずっとそこに存在していたのです。
あの時。
わたくしは、マルコ様の強い視線にを初めて目の当たりにしてからずっと、心を奪われていたのです。
「なに、顔赤いけどどうした? 知恵熱でも出た?」
マリーが額に当てた手はひんやりとしていて、わたくしは幾分か冷静さを取り戻しました。
「マリー……」
「ん?」
「わたくし、決めたわ」
何を? とのマリーの問いには答えず、わたくしは微笑んで窓の外に目をやりました。
時刻は夕暮れ。全ては明日。
わたくしは、わたくしの運命を決めに行くことにしたのです。