決意
「しょ、食人?」
レティツィア様の可憐な薔薇色の唇には不似合いな、不穏な言葉が零れ落ちました。
わたくしは神妙な表情で頷きます。
「はい。ですから、マルコ様には不用意にお近づきにならない方がよろしいかと存じます。もちろん、いざという時にはわたくしが盾になってでもお守りいたす所存ではございますが」
マルコ様と付き合いの長い王子殿下はともかくとして、レティツィア様にだけは申し上げておかねばなるまいと一晩考え抜いたわたくしがひそめた声でそう申し上げると、レティツィア様は困ったような表情を浮かべられました。
「あの、ダニエラさんはいったい何をされたんですか?」
王子殿下の信頼篤い従者の隠されたおそろしい性癖が、にわかには信じられないのもわかります。ですが、これは大事なこと。お仕えする主人には何としても知っておいてもらわねばなりません。
わたくしは身をかがめて、椅子にお座りになっているレティツィア様の耳元に口を寄せました。
「耳を」
「み……耳を?」
ごくりとレティツィア様の喉が動きました。
「耳を舐められたのです」
「舐められ……」
レティツィア様が言葉を失って口を閉ざされました。
「それだけではございません。わたくしが何故その様なことをするのか、と問いただしましたところ、『美味そうだった』とひとことおっしゃったのです」
背筋を伸ばして姿勢を正すと、わたくしは含めるように言いました。
「ですので、レティツィア様。十分にお気を付けになってくださいませ。王子妃殿下という地位にある方にその様な暴挙を働く方とは思いませんが、用心するに越したことはないのですから」
恐れ多くも姉のような気持ちでそう申し上げたわたくしを、レティツィア様は困ったように見上げました。温かいお茶をお飲みになっているせいか、頬が紅潮しています。
「……あの、ダニエラさん。それ多分……」
「レティ」
レティツィア様の言葉をさえぎるように王子殿下の涼やかな声が響きました。振り返ると、王子殿下は扉の脇にお立ちになり、右手で顔を覆ったまま俯いて肩を揺らしています。
何でしょうか。レティツィア様に迫るかもしれない危険を笑いごとのように思っていただいては困ります。
そもそも、マルコ様は王子殿下の従者でいらっしゃるのですから、王子殿下にも少なからず責任というものがおありになるはず。王子殿下がどのような目におあいになろうとまったく構いませんが、レティツィア様を巻き込むことだけはわたくしが何としても阻止してみせます。
憮然とした表情で王子殿下を見るわたくしと王子殿下を交互に見て、立ち上がったレティツィア様が困惑のまなざしを王子殿下に投げかけました。
「王子殿下……」
ため息交じりのレティツィア様の呼びかけに、王子殿下は笑いをおさめることなく、こちらへ近づきながら片手をあげてお答えになりました。
「大丈夫だよ、レティ。マルコは君にはそんなことはしないはずだからね」
くっくっくと合間に笑いを挟みながら、王子殿下がおっしゃいました。
「王子殿下、そういうことではなく」
「いいんだよ。あいつにはいい薬だ。面白いじゃないか」
「面白いってそんな……」
整った眉尻をハの字に下げてためらうレティツィア様と、笑いすぎて目尻に涙を浮かべている王子殿下。わたくしにはよくわかりませんでしたが、ひとつだけ、気になった言葉がありました。
「王子殿下、レティツィア様には危害が及ばないというのは本当ですか?」
そう問いかけると、王子殿下はいやにきっぱりと頷かれました。
「ああ、本当だ。むしろ、食べられてしまうというなら君が一番危ないだろう」
わたくしはそのひとことに目を見開きました。
なんと。
食人嗜好をお持ちの方にとって、わたくしの何がそんなに魅力的なのかはわかりませんが、どうやら今現在、一番脅威にさらされているのはわたくしのようです。
……これはなんとも恐ろしい事態ではありますが、レティツィア様に危害が及ばないのであれば、それは喜ばしいこと。わたくしが気を付けていればいいだけのことです。これからは出来得る限りマルコ様関連の用事は従僕の方々に回してもらって、わたくしは不用意な接触を避けるように心がけましょう。
マルコ様は王子殿下の従者。お屋敷内で仕事をしているわたくし達とは違って、外に出ていることが多いようですので、少し気をつければそれもそう難しいことではないでしょう。
ふむ。なにやら希望が見えてまいりました。
考え込むわたくしを何やら複雑そうな表情で見つめるレティツィア様の視線に気付き、わたくしはにこりと微笑んでみせました。ご自分の周囲でその様な生臭い事件が起こるやもしれぬとお思いになるのは、いかほどの不安でしょう。その不安を少しでも減らしたかったのです。
「王子殿下、そろそろお時間です」
遠慮がちにノックの音が響き、扉の向こうからヘルベルトさんの柔らかい声がかかりました。
「ああ、今行く」
「ではお見送りを」
「別にいいのに」
「そういう訳にはいきませんから」
べた甘な夫と律儀な妻の問答を経て部屋を出て玄関へと向かう王子殿下の後を、レティツィア様と一緒についていきます。
王子殿下は本日より一週間の予定で国内の視察に出る予定になっておりました。当然マルコ様も随行なさいますので、一週間はわたくしの身の安全は保障されているということです。その間に今後の身の振り方を考えるといたしましょう。
玄関では既にマルコ様が王子殿下をお待ちになっていらっしゃいました。相変わらずの無表情でぼんやりと佇んでいらっしゃいましたが、わたくしと目が合うとなんだか微妙な顔をなさいました。
なんですか、その反応。いつもと違う反応をされるとちょっと怖いです。
「準備は整っております」
ヘルベルトさんの言葉に鷹揚に頷いた王子殿下は、あ、と小さな声を洩らしました。
「どうかなさいましたか」
問いかけたヘルベルトさんに、王子殿下は曖昧に頷かれました。
「ああ、いや……本を一冊持っていこうかと思っていたんだが、書斎に置いてきてしまった。まあいいかな」
「わたくし、とってまいります。どのようなご本でしょうか」
志願したわたくしは、本のタイトルとどのあたりにあるのかを聞き、二階にある書斎に向かいます。しずしずと階段を上り、角を曲がって姿が見えなくなった時点で小走りになりながら(屋敷内を走っているとヘルベルトさんに叱られるので、目の届くところではやってはいけないのです)書斎を目指します。
書斎の中はすっきりと片付いていました。レティツィア様付きのわたくしは普段あまり出入りのない場所なので、なんだか少し新鮮です。
壁際に並べられた本棚を眺めながら、教えられたタイトルの本を探していると、それは案外とすぐに見つかりました。しかし、そこからが問題だったのです。
わたくしの身長よりも高い所にあるそれを、懸命に腕を伸ばして取ろうとします。けれど、爪が引っ掛かるばかりでその本はなかなか出てきやしません。
届きそうで届かない嫌がらせとしか思えない絶妙な高さ。こんなときに自分のチビさ加減を呪ってしまいます。
周囲を見回しても、踏み台になりそうなものはありません(さすがに王子殿下がお使いの上等な皮の椅子を踏み台にする勇気はわたくしにもありません)。
ああ、でも急がなければ、出発の時間は近づいているのです。踏み台を運んで来ることも、誰かを呼んで来ることも諦め、とにかくつま先立ちになりながら精一杯腕を伸ばして頑張ってみます。
うんうんと唸りながら必死に手を伸ばしていると、背後からにゅっと腕が伸びて、目的の本をいとも簡単に引き出しました。
こ、この腕は……。
本棚に貼りついておそるおそる首だけで背後を振りかえると、やはり眉根を寄せてなんだか少しだけ不機嫌そうなマルコ様がそこにはいらっしゃいました。
「…………っ」
本棚とマルコ様の間に挟まれて、身動きがとれません。気をつけようと誓ったそばからこんなに接近してしまうとは、一体何たることでしょう。わたくしはマルコ様の腕の中から逃げ出すこともできず、思わず固まってしまいます。
マルコ様は取り出した本を無言でわたくしに差し出しました。
「あ、ありがとうございます……」
お礼だけは言わねばと、うまく動かない口を必死で動かしてお礼を言うと、マルコ様は表情を変えないまま浅く頷かれました。何故かじっと見つめられて、わたくしの心臓がぎくりと大きく飛び跳ねました。
まさかまさか! こんな時にそんなことはないですよね!
「あ、えとっ、お急ぎですよね! お手数をおかけして申し訳ありませんでしたっ!」
何かをごまかすように大声でそう言うと、わたくしは大慌てで身を翻して玄関へ向かいます。ばたばたと不格好な音を立てて階段を駆け下りてくるわたくしを見て、ヘルベルトさんが苦い顔をしました。
はっと気づいて走るのをやめたわたくしにヘルベルトさんは何も言いませんでしたが、これは確実に後で怒られるパターンです。しかも、いい年をしてというオプションつきのやつです。ああ、わたくしとしたことが。
でも仕方ありません。こっちだって生死がかかっているんです。
なんだかにやにやと生温かい笑みを浮かべる王子殿下と、酸っぱいものでも飲みこんだような顔をされているレティツィア様のところへ戻ると、本を差し出しました。
「お待たせいたしました。こちらでよろしいでしょうか」
「ああ、うん。ありがとう。悪かったね」
「いえ。……どうかなさいましたか、レティツィア様」
「あ、いえ……、何でもありません」
レティツィア様は何故だか気まずそうに俯かれました。
わたくしの後ろから遅れてやってきたマルコ様に意味深な視線を投げかけると、王子殿下はレティツィア様に向き直りました。
「一週間も留守にするけれど、大丈夫かな」
「お屋敷の事は大丈夫です。皆さんもいらっしゃいますし」
王子殿下に心配をかけまいと、きりっとした表情でそうおっしゃったレティツィア様に、王子殿下は困ったような笑みを浮かべました。
「おや、寂しいのは私だけなのかな」
甘ったるい声でそうおっしゃって、レティツィア様の腰を引き寄せられました。王子殿下の腕の中に囚われて顔を真っ赤にしたレティツィア様は、逞しい胸板に手をついて押し返しながら視線を彷徨わせます。
「ちょっ……、あの、じ、時間!」
「少しくらいなら大丈夫」
じたばたと暴れるレティツィア様をものともせず、王子殿下は至福の表情できゅっと抱きしめられています。やがて抵抗しても無駄だとお分かりになったのか、レティツィア様がおとなしくなられました。
「……寂しいって言っても行っちゃうくせに」
ぽつりと落ちた切なげな呟きに、心臓を鷲掴みにされたのはわたくしだけではありますまい。可愛すぎて死ぬかと思いました。現に王子殿下の腕の力は強さを増し、レティツィア様は降参の意を示すように王子殿下の背中をばしばしと叩いていらっしゃいます。
お屋敷の玄関先は今や甘い空気一色に染まってしまいました。
世の中の新婚夫婦ってみんなこんな感じなのでしょうか?
ヘルベルトさんはなにやらほほえましそうに見守っていらっしゃいますが、多分あれは孫夫婦を見守る祖父の心境でしょう。いまだ悟りの境地から遠く離れたところにいるわたくしは、視線のやり場に大変困るので正直少し迷惑です。
何となく明後日の方に逸らした視線がマルコ様の視線にぶつかりました。
ぎくりと鼓動が大きくなって何となく慌ててしまいますが、大丈夫、ここにはたくさんのひとがいるのだから大変なことは起こらないと心の中で唱えました。そしてわたくしの強い決意を示すようにマルコ様を見据えます。
女は度胸! 受けて立ちますよ!
きっと睨みつけるわたくしの視線の鋭さにも動揺せず、マルコ様は何やら微妙な表情を浮かべていらっしゃいます。もしや、わたくしの隙のなさに攻めあぐねているのでしょうか。ふふふ、そうでしょうそうでしょう。わたくし、そんなに甘くありませんわよ!
この調子です。わたくしは心の中でひそかにこぶしを握りしめました。
レティはずいぶん年下ですが既に人妻なので、恋愛全般を避けてきたダニエラさんとは経験値で大差がついているのでした。